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昼過ぎ。騎士を伴って出かける聖女ジェニを見送りながら、ひとまずレーはよしよし、と頷いていた。
今までの悩みが、恐らくは今日で落ち着く手筈になったからだ。これから先また何かある――可能性は高いのだけれど――としても、その時はその時、という気分だ。
昨晩の話を蒸し返し、説得に時間がかかるかな、と読んでいたが、セアは驚くほどあっさりとレーの提案を受け入れた。
『私ごときが貴女の一助になるのなら、謹んで盾の役目を拝命いたします、聖女レー』
とのこと。
大げさすぎて受諾の台詞に言葉がなくなったのは、まあひとまず置いておく。
ごとき、なんて聖騎士が使っていい言葉じゃないよね、と思ったのも、とりあえず後だ。
意識改革できるかなー、無理かなーとすでに諦めが入ってしまったのは問題だ。レーはあまり、根気よく何かを成し遂げられる、という性格ではない。
さっさと『聖女レー』に見切りをつけてくれなければ、困る。
午後から出かける聖女たちが、そろそろ疎らになってきた。息を吸って気合を入れる。セアは今こそ姿が見えないが、どこかにいるはずだ。そういう約束をしたから。
両手に、聖約はない。ガイとは先ほど会った時に、セアとは別れ際に解約をした。それがレーにとっては普通で……昨日と今日が非日常だった。
一人で立ち向かうのが当然だったけれど、今回ばかりは少々分が悪い。なにしろ、「一人」であることに、目を付けられてしまっている。
レーの抱えていた、もう一つの問題。
「よお、聖女レー」
「……騎士バネス」
嫌々振り返った。出来れば会話も避けたい。
「今日も一人かい?」
「ええそうですね。今日も騎士が要らない仕事ですので」
「だがいたほうがいいだろ? 俺は丁度空いてる。連れて行って損はない」
大ありだ、と直感が叫ぶ。ロクなことにならない、と。
レーに笑いかけるバネスは、ここ一月ほどこうして何かと絡んでくる騎士だ。騎士と言っても、立場的にはデュアンと同じく、聖騎士になれるのにならない、というぐらいの強さがあるとレーは踏んでいる。この国の貴族らしい容貌――色素の薄い肌と金に近い茶色の髪――は、もちろん、誰に尋ねてもカッコいいとか綺麗だと認めるだろう。
ただ、レーはどうしても好きになれそうにない。
「あんたの仕事に、俺が付いていくんだぜ。俺は仕事を選ばないからな」
その代わり、人を選んでいるんだと言いたい。
「ささやかな仕事だろうが、騎士はいるに超したことはない」
ささやかだと言うなら、放っておいてほしいのが本音だ。
「手伝いがいて幸運だな、聖女レー? しかも俺は優秀だ」
不運の極みだ、と一か月の間で痛感している。優秀さは否定できないのが辛いぐらいだ。
レーが返事をするよりも早く、バネスは腕を取って神殿の門へ向かおうとする。一度それで無理やり連れていかれた経験を踏まえて、レーはさっと身をかわした。
「あいにくですが、騎士バネス。今日の仕事に騎士は不要です。ええ要りません。とても、ささやかな、仕事ですので」
「念押しされなくても知ってるさ。だけど油断は禁物だ。俺を連れて行った方がいい」
「本当に要らないんです。今日はご存知の通り、見て帰ってくる。それだけです」
「だが道中に何かあっても困るだろ?」
むしろ、バネスが側にいる方が……危険を感じる。言葉や態度の端々に、レーを軽んじて見下しているのが透けて見える。なのに近づいてくるのだから、嫌な予感しかしない。
躱して誤魔化して、時々無理に付いてこられたことが数回。魔物が出ても見向きもせず、視線はレーに張り付いたままだった。一瞬も気の抜けない仕事になった。
今日こそは。
「お引き取りを、騎士バネス。貴方の手を借りることはありません」
負けない、と決めていた。ただまっすぐにバネスを見上げる。
ふっと相手の笑みが消えた。これで引き下がってくれるのか、と期待した、瞬間。
手首を強く引っ張られた。痛みに顔をしかめるよりも早く、バネスが門へ向かう。
「なっにを――騎士バネス!」
抗って足を踏ん張れば、ぐっと反対に顔が近づいた。怒りのせいか、紅潮している。
「俺が言ってんだよ、聖女レー? 大した浄化の力もない下級が、なぜ逆らう?」
「だったら関わってくれなくて結構ですよ。貴方が誰だろうか知ったこっちゃありません」
「……無知は身を滅ぼすって教えてやるよ」
レーは周囲を見回す。すでに人影はなかった。いきなり豹変したのはそのせいか、と納得する。その間にも、バネスはずんずん出口の方へ進んでいた。早足についていけず転んでしまう。
舌打ちが聞こえた。腕ではなく、今度は体に手が伸びてきた。
暗い影の下でどうにか立ちあがろうと――あがく目の前で……
唐突に、バネスが消えた。
「へ?」
間抜けな声がした。それが自分だと気付くのが遅れるほど、唖然としてしまう。
バネスは……離れた位置に仰向けに倒れていた。呻いているのだから、一応生きているのだろうが、すぐには起き上がれないらしい。
何があったのか、分らない。
分らないけれど……振り向くのが、なんとなく怖ろしくて……恐る恐る、ことさらゆっくり首を動かす。
そうして、後悔した。
いつの間にか、聖騎士セアがすぐ近くに立っていた。
濃紺の瞳にはなんの光もない、ひどく平坦な無表情で。
鋭く研ぎ澄まされた氷が、喉元に突きつけられる――そんな想像が一瞬でできるほど。きつく握りこまれた拳が、何をしたのかが窺えるけれど、相手を倒すほどの力を振るったとは思えないほど静かだった。
冷酷とさえ呼べるほどの気配が、レーに突き刺ささって、一瞬、息が止まる。
――こんなはずでは、なかった。
レーがセアに頼んだことは、とても単純だった。
名前を呼んだら、出てきてほしい、と。現状を説明するのは難しいから、伝えたのはそれだけだった。絡まれて助けを求めれば、セアなら庇ってくれ、そして仕事も一緒に行く流れになればいいと。
まさか無理やり引きずられることになるなんて、レーも想定外だった。
セアに対して、震えるほど恐ろしいと思うことも、予想なんてできなかった。
「度し難い愚かさだ」
呟きの声は切り付けるほど冷淡だ。
まだ起き上がれないバネスの方へ、セアが一歩踏み出す。
なにをするのだろう、とレーは漠然と思った――なにをさせてしまうのだろう、とも。
その途端に、恐怖は吹き飛んだ。
「聖騎士セア」
体を起こそうと手をついた途端に、痛みが走った。手のひらには血が滲んでいて、さらに肘も痛めたようだ。倒れそうになったところを、大きな掌が背中を支えていた。顔を上げれば、軽く結わえた銀色の髪がレーのすぐそばにあり、いつの間にか傍らに膝をついたセアが覗き込んでいた。
ただただ、気遣いばかりが浮かんだ表情で。
ついさっき、恐怖したことが申し訳なくなる。
支えられて、立ち上がる。ふらつかないよう、なんとか踏ん張った。
「ありがとうございます、聖騎士セア。助かりました」
「……御手を、聖女レー」
流れるように利き手を出されては、応じないわけにいかない。同じように利き手を出す。聖約が交わされれば、セアがどこかほっとした顔になった。
「少々、失礼をしても?」
「あ、はい」
なんだろう、と思う間もなく、肘と掌の痛みが消えた。セアの手が頬に触れれば、一瞬の後に離れる。どうやら、そこにも傷があったようだ。衣服からも、砂と土の汚れがなくなった。
こんな、息をするように魔術を使える人だとは、知らなかった。驚いて目を丸くすれば、セアが少し目元を緩ませる。
「あ、ありがとうございます」
「当然のことをしたまでです」
そうかな、とつい考えてしまう。が、ひとまず頭から追い出した。バネスが起き上がったからだ。片頬を押さえて、それでも薄ら笑いを浮かべた。
「すげえな、聖女レー。あんた、無能かと思っていたら、そいつを引っ掛けられるような女だったのか」
むっと眉根を寄せたのは、二人同時だった。
「口を閉ざせ、愚か者」
「その通りですよ、騎士バネス」
「聖女レーに、なんという無礼」
「聖騎士セアに、失礼です」
バネスが怪訝な顔になる。こんな状況なのに、レーは頭痛がした。ここで「聖女」レーを持ち出されると、非常にややこしい。
一歩前に出る。
「聖騎士セアは助けを求めた私に答えてくださっただけです。私に騙されるような人じゃありませんから」
これだけは言っておかねば、と早口で告げる。それだけでさっさと立ち去ろうと思っていたのに。
「聖女レー。お下がりください」
セアがレーを庇う。
「守るべき聖女に狼藉を働くなど、騎士にあるまじき者です。近づいてはなりません」
レーだってできれば関わり合いになんてなりたくなかった。金輪際、無縁になってくれればとても嬉しい。
なのに。
「あんた、頭おかしいんじゃないの」
バネスはまだ、絡んでくる。今度の標的は、セアになった。レーとしては、避けたかった事態だ。
「そいつが聖女だなんて、笑えるぜ」
「頭がおかしいのは貴様だ。聖女レーは神の力を宿す御方。違えようもない、聖女だ」
心底馬鹿にした嘲笑が、バネスの口から洩れた。やめて、とレーは叫びたいのに、バネスの一言はずっと早かった。
「知らないのか? そいつは大地の浄化も、祝福も授けられない――無能だって」
「……」
踏みぬいた。触れて欲しくなかったところを、盛大に。体が一瞬、凍り付く。
けれど、それ以上に……セアの沈黙が怖い。
動き出した途端に、何かまずいことになる、と直感した。セアの背中が、間違いなくそう告げていた。
「聖騎士セア、行きましょう」
先手を、打つ。腕に縋りついて、お願いだからこちらを向いて、と祈った。セアは、バネスを睨んだままだ。
「貴女を侮辱したこの男を、このまま捨て置けと?」
抑えた声だった。怒鳴らないのは、レーが相手だから。そのまま、なんとか堪えてほしかった。
「上申訴状を出します。それで十分です」
「あの物には罰が必要です。騎士剥奪さえ該当するかと」
冗談じゃない、と思った。もうこれ以上、関わり合いになんてなりたくない。強く、首を振って否定する。
「罰が必要なら、神官が判断を下すでしょう。聖女レーではなく」
騎士の袖を、さらに強く握る。聖騎士セア、と囁く声は、ほとんど音にならなかった。レーはここから、早く消えてしまいたい。
セアが振り向いた。苛立ちと、やりきれなさ、怒り。濃紺の瞳には渦を巻いて浮かぶ中に、レーを映していた。
一度ゆっくりと瞼を閉ざせば、激情は消えていて。
「審議会には私からよくよく申し上げる。追って沙汰を待つがいい」
そう告げて、セアがレーの背中を押す。
最後にレーが振り向いたときにも、バネスの薄ら笑いは消えていなかった。