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「どこにいらっしゃったのですか?」
「は?」
出会って最初に尋ねられて、レーは返答に困った。
騎士団長ガイに、セアの居場所を聞けば馬場だと教えられ、さらにそこから厩舎へ回って愛馬の世話をするセアに声をかけた。
その返事が質問になった。
「ええと? どこ、とは」
「朝の食堂に、いらっしゃらなかったようでしたので」
「……すれ違ったのでは?」
「私は食堂が開店したと聞いてすぐに行ったのですが」
そして最後までいたんだろうな、と聞かなくてもレーは直感した。どうりで食べる時間がなかったはずだ。
「……広いですから、あそこ」
まさか正直に逃亡したとも言えず――言えばきっとややこしくなる――レーは誤魔化した。
「であの、今日はちょっとお話しが」
「私に用があるときは、呼び出しをかけてくださいと申し上げしたはずですが」
「……」
話が進まない。円滑な会話をするのは得意なはずなのに、相手の勝手が違いすぎてどうにも滞ってしまう。
「あのですね、聖騎士セア」
「はい」
「私、不合理なことは嫌いです」
「は?」
「理不尽なことも嫌いです。だから、私の都合であなたを探すなら、私が自分で探します……前回は無理をした自覚があるので、必要になれば……ちゃんと『呼び出し』ますので」
納得してください、と願をかける気持ちになりながら、じっとセアをうかがう。生真面目な表情のまま、セアがしばらく考え込んだ。
「分りました」
「本当ですかっ」
「はい。私はできるだけ、聖女レーの御手間を取らせないようお側にいさせていただきます」
分ってない! と叫べるものなら叫びたい。思わず額に手を当てそうになって、またややこしくなる、と慌てて堪えた。
「わ、わたしも……あまり手間は掛けないようにしますので」
「そのような配慮は無用です」
「……」
そっくりそのまま返したい台詞に、レーはこっそりため息をついた。やめよう、と一人頷く。堂々巡り過ぎて時間の無駄だった。
本題を切り出す気力がなくて、レーは違うところに目をやった。もちろん、そこは厩舎なので……かなりの数の馬がいる。そして聖騎士セアの後ろにいる馬は特に大きく、黒に近い毛並みも手入れを終えたばかりなのか、一際つやつやと輝いていた。少し圧倒される。
「お好きですか」
じっと見つめていることに気づいたセアが尋ねる。
「ええまあ。動物は好きです」
「良ければ、鞍をお持ちしますが」
「いえ。馬車しか乗れません」
「馬にはお乗りになられたことがない、と?」
「まあ……獅子になら」
跨ったことがある、と言おうとして、慌ててレーは口を閉ざした。
「は?」
「なんでもないです」
早口でごまかす。だいたい、あれは乗ったとはあまり言えない。背中にじゃれついたとか、寄りかかった、が正しい。騎士団長に対して、無礼だと怒鳴られて当然のようなことをかつては――いや。今でも、時々やらかしている。
「ご興味がおありでしたら、少し歩いてみましょうか?」
くるり、とレーがセアを振り返って見上げる。口を開くよりも、きらきらと好奇心に輝く両目が返事をしていた。人形じみた無表情だったセアが、わずかに目を細めるほど。
「いいん、ですか? だって、手入れをしたばかりじゃ」
「構いません。リュシュも厩舎にいるより、外に出る方が楽しいでしょう」
「リュシュっていうんですね、この馬」
「はい」
手早くセアが準備をする横で、レーはドキドキしながらリュシュを見上げていた。リュシュの方も、知らない人間に対して、警戒しつつ興味津々だ。
鞍と鐙を用意し、いったん厩舎を出た。リュシュを引くセアの後ろに付きながら、改めてレーは馬の高さを実感する。もちろん、大きさで言えばガイの獅子姿の方が上だ。それでも、小柄なレーは鐙よりも目が下にある。
立ち止まってさあ、乗ろう、という段階になってから……さてどうしよう、とレーは問題に気付いた。踏み台などがあるわけもない。よじ登っていいのだろうか、と考えたところで、同じように思案するセアと視線がぶつかる。
「……少々、失礼しても?」
「お願いします」
乗せてもらえるなら、なんだっていい。許可を出したというのに、セアはまだ躊躇っていた。待ちきれなくなって、両腕を差し出せば、びしり、とセアが一瞬固まる。
が、次の瞬間にはぐっと視線が高くなった。左腕と肩でレーを支えながら、セアが騎乗すれば、さらに地面が遠くなる。さすがに、慌ててレーは近くにあったセアの首に縋りついた。
高い。思っていたよりも、ずっと。
地面から離れた分、空がずっと近くなった。綺麗に晴れた青空に、大きく浮かぶ白い雲が、厩舎の屋根から半分だけ覗いている。見上げる間にも、のんびりと風の方向へ進んでいった。
手を伸ばせば届くんじゃないかと、不意にそんな有り得ないことが浮かぶくらい、景色が違う。
セアの首に回していた手が、無意識に動こうとした矢先、うかがう声音がすぐ近くからした。
「あ、あの……聖女レー?」
ハッとして体を離す。どんな体勢だったのか、思い出したからだ。
「ご、ごめんなさっ」
謝罪は急に動いたせいでバランスを崩したために途切れた。わわ、と慌てるレーをもう一度腕の囲いが強く自身に寄せた。
「落ち着いてください。馬上にいらっしゃるのですから」
「す、すみませ……」
「まずは、鞍の上にしっかりと腰を落ち着けてください。私につかまったままで結構ですから」
「あ、はい」
言われたとおりに、まずは鞍の上で座りのいい位置を探す。横座りなのが不安定の原因なのだが、まさか今から足を上げて跨るわけにもいかない。聖女の制服のように支給される衣服は、くるぶしをより少し上まであるストンとした白い貫頭衣だ。裾と袖には神殿の文様が唐草模様に似せて刺繍されている。その下には寒さ避けもかねて一枚ズボンをはいているとはいえ、あまり動きやすい恰好とは言えない。
身体を支えられる位置に座り、セアから少し離れた。
「よろしいですか?」
「はい。ええーと」
「手は鞍の手前に置くか……私を支えにしていただければ」
さまよった両手を上げれば、そう提案された。腰を捻って前を向き、言われたとおりに鞍の出っ張りを握る。
セアが手綱を取る。後ろと左右を囲まれるようで、レーは少し落ち着かなかったけれど、リュシュを進めれば、やはり少し揺れたため、囲いはあった方がいいと判断する。
何かあれば、きっとすぐに拾ってもらえるに違いない。
「聖女レー。大丈夫ですか?」
慣れないせいか緊張し、レーはどうしても固くなってしまう。多分、ただ歩いているだけなのだから、セアにしてみればこんなのは揺れているうちにも入らないのだろうが、レーは不安定で仕方ない気がしていた。
「その、だ、大丈夫、ですっ」
うまくしゃべれもしない。うう、と肩を落とした。もっと簡単だと思っていた。だって、レーの側にいた騎士たちは颯爽と乗りこなしていたのだから。
見るのとやるのとでは大違いだ。
へこんでしまったレーに、セアは少し考え込んだ。
「聖女レー。再度、失礼いたします」
「は、あ……?」
利き手と反対の手を手綱から離し、レーの腰に回す。軽く力を入れて寄せれば、小さな頭が顎のすぐ下に来た。
「支えておりますゆえ、どうぞ景色をご覧になってください」
「……」
親切だ。もう、ものすごく申し訳ないくらい親切だった。ただ、レーとしては少し低めの声を発するたびに、胸の振動が伝わるくらいの距離になったのが落ち着かない。ちなみに両手は自由になった。背中と右半身ががっちり支えられたおかげで。
深呼吸だ、とレーは自分に言い聞かせる。恋人になって、などという恥知らずなお願いをした手前、こんなことで騒いでは失礼だ。目を閉じて、一つ息を吸った。
目を開けば、セアの肩とちょうど同じ位置に、またしても雲がある。さらに目線を上げれば、さっきの青空だ。風が少し吹いていて、それが心地いい。
絶対に落ちない安心感があれば、かぽかぽと揺れるのは楽しいリズムだった。
馬は練兵場を抜けて、さらに先の放牧地に来ていた。神殿は広い土地を所有していて、森がその境だ。黒い影のような木々が、ずっと遠くに見えるほど、そこは広い。かなり長く伸びた草が、転々と藪を作っている。
さすがに、こんなところに来たのは十年以上いても、レーは初めてだった。
「あの、ここでいつもリュシュと走ったりするのですか」
「走らせることもありますが、大抵は好きに放しておくことが多いですね。リュシュだけでなく、馬は賢いですから、満足すれば戻ってきますし、日暮れ前には絶対に厩舎へ行きたがります」
それはすごい、とレーは感心した。人間は自分の家を忘れることだってあるのに。
「リュシュは、賢い?」
「とても。あとで礼だと言って野菜の欠片をおやつにやってください。喜びます」
セアの腕の中で、レーがそわそわと落ち着きがなくなった。本当に動物が好きなのだな、とセアは実感する。まるで小さな子供のようだった。
そのレーが、ぴたりと動きを止めた。じっとある一点を見定める。思わず、セアも手綱を引いていた。
「せい――」
「聖騎士セア。あそこ、騎士団長ガイですよね」
「は?」
指さされた場所に、すぐに目標を定められなかった。緑の藪しか見えない。
「ちょっと行ってきます。待っててください!」
「え。いやその、お待ちをっ」
止める言葉よりも早く、レーはセアの腕を抜けていた。わずかに反動をつけてリュシュから飛び降りる。危ないと叫ぶよりも着地の方が早く、さらに迷わず駆け出して行った。
呆気に取られたままの、セアを置いて。
一体どこに、あの金をまとう巨漢がいるのか。再度目を凝らして分らなかったのに、レーが「騎士団長ガイ!」と呼べば、むくりと人影が現れた。
迷いなく駆け寄ったレーを、揺るぎなく受け止めたのは、確かにガイ以外に有り得ない。
言葉を交わしあう二人が、同時にセアの方を向いた。いつもの「おう」という挨拶が聞こえそうな首の動きに、慌ててセアも下馬して一礼を返す。
声は聞こえる距離ではなかったが、なんとなくここまでの経緯を話しているのだろう、と察しは付いた。
遠くに二人を見ながら、ふと今日の早朝の記憶がよみがえった。
目が覚めた時。
ここ数日のうちで最もよく眠れたことを、セアは実感した。文字通り、夢も見ず、暗闇から浮上し、朝日の眩しさを感じた。
直前の記憶は、聖女レーが微笑を浮かべた瞬間までだ。手を差し伸べられたようにも思うが、はっきりとしない。
広い寝台。カーテンが開かれたままの掃出し窓。誰もいないのは当然で――むしろレーがいたらデュアンを間違いなく殴りにかかっていた――同時に、ひどく空虚だった。
あれほど騒がしかった昨晩が、まるで嘘のようで。
セアは頭をふってありもしない空想を振り払った。
レーの言葉通り、夢は見なかった。そうあれと、彼女が望んだからだ。
命令では、なかった。命じられていたなら、少しは構えることが出来たかもしれない。
けれど一方で、己の矜持をもって従わず、冷静になれた――とも、断言ができない。
あれほど見事に、掴まれてしまっては。
聖約時の聖女の言葉が騎士を従属させる、というのは、嘘でもないが真実でもない。若干の拘束力と抵抗感はあっても――セアも、何度か経験している――無理に頭を下げさせるような、強制力はない。
だからこそ、聖女レーの他愛ない一言にあっけなく意識が沈んだのは、セアにとってもひどく驚くことだった。
レーとガイはまだ話している。表情はさすがにはっきり捉えられなくても……不意に伸びたガイの手が、無造作にレーの頭をかき回せば、それをレーが甘んじて受けていれば、関係はおのずと知れる。
――あの位置に、立ちたい。
あの距離と、信頼を寄せたレーが見上げる先に、自分が。
誰かに対して、強い羨望を抱いたのは、初めてだった。
得体が知れない、と理性が冷静に判断を下し、距離を置くべきだという考えは、セアの中に確かにある。ただ、あるということをセア自身が知っているだけの、小さな思考の欠片に過ぎなかった。
選択肢では、ない。
レーがガイに手を振り、今度はこちらに向かってきた。見送る騎士団長が、セアに目を止めたため、再度一礼をする。
顔を上げれば、もうその姿はなかった。代わりに、レーが少し息を切らして目の前にいる。
「申し訳ありません、お待たせしました」
「お気になさいませんよう。もう一度、お乗りになられますか?」
「あ、はい」
返事をしつつ、レーが太陽の位置を確認する。朝よりも昼に近い、そんな時間。
「あの、戻りながら話を聞いていただけますか?」
「承知いたしました」
差し出された手を、今度は躊躇わずに取った。