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おーいレーちゃん、と声を掛けられた。
こんな呼び方をするのは一人だけだ。足を止めて振り返ろうとしたところで、視界が反転した。
あれ、と思うよりも早く、薄暗くなってパタン、と扉の閉じる音がして、次の瞬間には足の裏がきちんと床に付いていた。目の前には、騎士デュアンがいる。
聖女ジェニと別れて、今度はレーの方からセアを探しに行く途中だった。神殿は広い。ひとまず心当たりとして、騎士たちの集まる一角――控室や会議場、さらに奥には訓練場がある――へと向かっている所だった。なので、デュアンに会うのは何らおかしくない。
おかしいとすれば、いきなり物置じみた小部屋に連れていかれたことだろうか。
「あの……なにか?」
「べーつに? ちょっと小話聞いてほしくて」
「笑いは必要としてませんけど」
「そーゆー小話じゃなくて……どっちかっつうと、内緒話?」
はあ、とレーは曖昧に返事をした。他人に秘密にしなければならない話なんて、と思ったけれど、よく考えなくても昨夜の件を言いふらされては困る。
「あのですね、できれば昨日の件は……」
「あー。そっちは心配しなくていい。俺も揉め事を起こしたいわけじゃないし」
意外と話の通りがよかった。助かった、と胸をなでおろす。
「そうですか。で、あとなんかありましたっけ?」
んー、とデュアンが考えるそぶりをした。切り出しを迷っている、という感じはない。どちらかというと――試されている。
「レーちゃんはさ……本当に『盾』が欲しいの?」
「……」
目の色は黒だったんだな、と今さらにレーは知った。つまり、それだけ近くにデュアンがいる。ちなみに髪の毛はこげ茶色だ。肌も少し浅黒い。別の大陸の人か、その血を受け継いでいるんだろうな、と思う。
はあ、と抑えもせずにレーはため息をついた。
「騎士デュアンも、聖騎士セアも、たしかここ一年ほどでしたね。神殿に来たのは」
「んあ? そうだな、俺の方が若干早かったぐらいか、な」
いきなり飛んだ話に、それでもデュアンは付いてきた。
「聖騎士セアはともかく……騎士デュアンも、以前はそれなりの身分の人でしょう?」
「いや俺、平民の出身だけど?」
「じゃあ、実力で相応の地位に就いたとか?」
「ええーと、レーちゃん? それはどういう……」
「実は聖騎士になる手続きか試験だかを受けてないってだけで、あなたは騎士デュアンのままなんでしょう?」
ねえ、と見上げれば……驚きで目が丸くなったデュアンがいた。ややあってから……ニヤリと笑う。
「そーいや、レーちゃん的には俺とセアさんがやり合ったら、泥仕合になるんだったか」
「多分、軍配は騎士デュアンに上がりそうですけど」
「おやどーして?」
「さあ。勝ちに汚そうだから?」
ぷっとデュアンが吹き出す。なるほどねーと納得したのかしてないのか、うんうんと頷いていた。
「で、この前ふりはどう俺の質問とつながるのかな?」
「……」
高い身分出身の騎士は、大抵、上級聖女に就く。もちろん例外もあるけれど、聖騎士など言わずもがな、だった。
「それを説明するのは結構難しいんですけど……まとめると、あなた方の知っている『聖女』に、私は当てはまりません、てことです」
「ふうん?」
上級聖女たちが、自分自身をどう思っているかなんて、知らない。
けれど、レーは清廉でも清楚でもないし、自分の綺麗だと思ったことなんてない。ましてや――神の御使いだとも。
「そりゃ、力はありますから、立場は聖女ですけど……でもそれだけです。無条件に尊敬されたり、崇められるような人間じゃないですし」
「だから?」
「……だから、聖騎士セアの態度は、勘違いもいいところっていうか」
むしろ迷惑、とは言わなかった。けれど、心の一部ではまごうことなき本音だった。
尊敬なんてしないでいいから、子供の裸を見たと思ってごめんと謝って、ただそれだけで終わってくれればいい話だった、はずだ。もしかしたレーは不満を抱いたかもしれないけれど、自業自得とそのうち忘れられる話に……ならないから、困ってしまったのだ。
自分が悪いなんて言いながら、なんてひどいと――なじられて当然なのに。
罰することの出来るセアは、ただただレーに頭を下げるばかりで。
「『盾』をお願いしたのは、恋人ってことで一緒にいれば、私が『聖女』じゃないって、そのうち分かるかなって思ったからです。あとは、若干こっちの事情もアリですけど」
「ついでに今までの事も水に流せるかもって?」
「分ってるんだったら言わないでくださいよ。とにかく、寝不足になるような悪夢を見ないようになれば、それだけでもいいんです」
「『夢も見ずに眠れるように』なる?」
「……聖則が発動したの、分ったんですね」
「いや? そうかな、とは感じてたけど」
引っ掛けか、とレーは瞑目する。やっぱり全然酔ってなかったな、と鋭いデュアンに完敗だった。
故意にやったのではなくても、レーとしては気まずかった。
聖約は、騎士に聖則を課す。言い換えるなら、騎士を聖則で縛る行為だ。約定を交わす間、聖女の言葉は騎士に対して、ある程度拘束力があり――聖女は騎士よりも上位の立場にある。
ただ、完全に服従させるような力ではないと聞いていた。レーも聖約を交わすことなんて滅多にないため、どんな言葉がどう作用するのか、知らなかった。
まさか、眠ってしまうなんて思わなくて。
けれど、これでいいと……これはいいと、思ってしまった自分もいて。
現在またしても、セアに対する悩みが増えてしまったと葛藤している所だった。
「なるほどなー」
「あの、本当に分ってます?」
「わぁかってるって。多分、レーちゃんよりいろいろ把握してるぜ? むしろ、レーちゃんは全っ然分かってないってことが、今発覚した」
「……」
そうですか、とレーは脱力した。ダメダメ、とデュアンが苦笑する。
「気の抜けた顔しないんだぜ? 許されてるって勘違いさせる」
「はあ」
間の抜けた返事だな、と我が事ながら他人のようにレーは思う。なにしろ、目下の状況は今まで絶対にありえなかった。
騎士に壁際に追い詰められて、両腕で囲われる、なんて。
あまりにもいきなり体勢が変わって、驚く以外に何もできない。
「こんな薄暗いところで、男と二人っきりになっちゃいけませんって、学校で教わらなかったか?」
「……」
近い。ああ映っているな、と、デュアンの黒目に自分がいることが見えるくらいに。
騎士デュアンも、セアほど目立たないけれどかなりカッコいい。誘い込むように、何もかも分かった素振りで笑いかけられれば、靡かない女は少ないに違いなかった。
レーは臆さず、じっと見つめた。
ただ、まっすぐに。
「あいにく、学校は通ったことがないので、知りません」
「……」
「騎士デュアンならご存知かと思ってたんですけど。私、孤児で、子供の頃から神殿にいるので」
「……」
「学校って、こーゆ―事も教えてくれるんですか?」
ひょい、と手を伸ばせばデュアンが身じろいだ。一か所だけ跳ねていた髪を引っ張ると、今度はその手を上から握られた。
「……あーうん。俺が悪かったデス」
天井を仰いでから、デュアンがレーから離れる。天然の悪魔だ、とかすかに呻いたけれど、レーには聞こえなかった。
手の甲を、長い親指がざらりとなぞった。
訓練を積む騎士の手が、武骨なのは知っている。ずっと小さいころから、レーは騎士の側にいたから。
かつて良くしてくれたのは、大抵年かさの騎士だった。筆頭は、あの変わらない騎士団長で。
無邪気に甘えられていたのは、いつまでだっただろうか。大きくなる分、少しずつ何かが変わっていった。
それは、当然の変化で。
レーに近づく「騎士」が変わったのもその一つなのだろう、とぼんやりとは感じていた。昔、頭を撫でてくれた手も、今デュアンがレーの右手を握る手も、温かさは変わらないのに。
つながる手が、組みなおされた。指の間に長いデュアンの指が入り、レーの手のひらをすっぽりと覆っていた。
レーの意識を引くように、強めに握られる。
「レーちゃん」
「はい」
「なんか、俺に言うことない?」
「……聖騎士セアがどこにいるか知りませんか?」
「……うん、マジでごめん」
何に対する謝罪なのか、レーが首をかしげたところで、右手が解放された。
「前途多難……いや、難しかないから前途全難、かな? ……セアさんには難易度高すぎだな」
ぼそぼそ呟いているのを、ひとまずレーは流すことにした。
「騎士デュアン。ところで、ここどこですか? 控室に行きたいのですけれど」
「はいはい聖女様。とりあえず、そこまでお供しますよ。あと、今度俺とも仕事してね」
「忙しいのに無理しなくていいんですよ。休むときは、ちゃんと休まないと」
知り合った手前、気を使ってくれなくても、別に仕事相手には困らない。扉を開けてレーを促すデュアンは、ちょっと遠い目をしていた。
「あ~……ホント無茶苦茶、難敵だわ」
「貴方の敵になった覚えはないのですが」
「じゃ、そのうち味方になってくれんの?」
「さあ?」
彼が不正をした時にかばってくれ、とか言われたら困るので、例によってあいまいに返事をした。なんかまた違うこと考えてない? と訊かれたので、多分顔に出たのだろう。
味方になってよ、さあ? の押し問答をしながら、レーは控室に向かった。