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「私、弱いんです」


 弱い、と小さくセアが繰り返す。夜と同じ色の目は、今は不思議と温かかった。レーの独り言をじっと聞いていた、リュシュに似ている。

 レーを支える腕も、魔術を操る技術も、頑丈な身体も自分にはない。あるのは、天から気まぐれのように授かった力だけだ。セアのように、努力を積み重ねた訳ではない。

レーの中にあるのは、かすかな故郷の記憶、後は近いようで遠い、神殿で出会った大人。騎士団長ガイだけが、テトルの大樹と同じ、最後の寄る辺だった。彼を頼るのは、レーの中で眠りの中へ逃げる事と同じだ。

 レーがしてきた努力は、耐える事だ。理不尽にも、寂しさにも、悲しみにも。

 人と闘う強さは、ない。

 拙い説明の間、セアは黙っていた。


「正体なんて知りたくないです。怖い人には会いたくない、酷いことはされたくないです。だから逃げて……逃げてきたんです」


 ずっと、とレーが小さく加える。そっとセアを伺えば、湖面に似た静かな両目がすぐ上にあった。レーを責めることも、慰めることもしない静けさに、少し安堵する。


「でも……」


 逃げている、とわかっていた。それが悪い事だとは思わない。ただ……手立てが一つではないことは、もちろん知っていた。セアの言うとおり、声を上げて、振りかざされた手に、反旗を翻すことは、決して不可能ではない。けれど、躊躇いと戸惑いがある。

 振り上げた手を下ろせるのか。翻した反旗を、根元から折られてしまわないか。

 絶望を覚悟して、挑まなければならない行動だと、頭の中の警鐘が鳴るのだ。聖女の絶望は、すなわち死に直結する。


「私は、生きていたい……聖女でいたいんです。出来るだけ長く」


 だから、逃げてきた。目をつむり、耳をふさいで。

 さあっと風が髪をさらった。


「だって、そうじゃないと魔物と戦えない。聖女としての、力がないと」


 北にあった故郷は、魔物に消された町だ。レーだけが、生き残った。父親も母親も、誰かれもが飲み込まれた。もう、十年も昔。騎士団が来て、魔物を倒したのだと言う。あまりにも悲惨な出来事だったせいか、レーの記憶はない。

 ただ、喪失感だけが胸の中にある。例え北へ続く道をたどっても、絶対に故郷はないと知らされた時に心に空いた穴だけが、レーと故郷をつなぐ唯一だ。

 この力が、もっと早くあれば。レーがきちんとした聖女だったなら。

 決して戻らない命の代わりに、失われる前の命を救いに行く。毎日は、その積み重ねで、レーはそれ以上、何かを望む気はない。


「聖騎士セア、だからお願いです。犯人は捜さないでください。私は……私は知りたくないです。これ以上、何も――」


 目の前が暗くなった。浮遊感がして、体中が温かく包まれて、身動きが取れない。よく似た感覚を知っている。獅子のガイが、レーを囲い込んで丸まった時と同じ温かさだ。けれど――もがきようも逃れようもない所だけが違う。

 手の指に、布地の感触があって、よすがにすがって握りこんだ。


「せ……」


 なにも、と遮られた。呼ぼうとしたレーと同時に、セアが囁く。


「今だけは何も……おっしゃらないでください」

「……」


 声が苦しそうだった。セアが傷ついているのが分かる。どうしてと訊きたかった。どうして彼が、ひどく痛みを堪えて体を震わせなければならないのか。

 レーはただ、セアは悪くなかった、ただの自分のわがままだと伝えに来たはずなのに。事態は一層悪化したようだった。

 腕をどうにか伸ばして、背中の方へ回した。広くて、レーの貧弱な腕では、決して届かないとしても。セアは悪くないと伝えたかった。

 記憶の中で、優しく背を叩いたのは、誰だったろうか。手のひらをそっと持ち上げて、ゆっくりと下ろす。ただそれだけを繰り返してくれたのは。

 レーの体にまつろう熱が、いっそう熱くなったのは、気のせいか、はたまた現実か。


 リュシュの足音がした。合わせて体が揺れる。すぐに止まって、また体が浮いた。ようやく景色が見えたのは、テトルの木の根元に下ろされた時だった。いつもの大樹ではない。幹は細く、十年前後の若木だった。周囲より小高くなったそこは、草原と小さく見える神殿の建物を一望できた。

 セアは、少し離れた場所にリュシュをつないでから、レーの元のへ戻ってきた。


「ご無礼をいたしました、聖女レー」


 どうぞ、と白い布を広げたのは、平たくなった岩の上だ。促されて、腰を下ろせば、レーの前に膝をつく。


「申し訳ありません。いささか……手綱さばきが不安になったもので、ご案内させていただきました」


 馬上にいられないのだと察した。が、まだ疑問は残ったままだ。尋ね方を迷ううちに、再度セアが申し訳ありません、と重ねた。

 濃紺の瞳に、どこにも影がないことを、レーは気づいた。声にだけにじんだ揺らぎは、わずかの間に隠されてしまった。


「……あの、どうして、聖騎士セアが謝るんですか? 今日は私が、謝りに来たはずでして」

「私が、あまりにも無知だったからです」

「無知?」

「ええ。あなたを取り巻く環境について……私の想像を超えておりました」

「それは」


 当然だろう。レーは何も言わなかった。セアがそばにいる時に、要望として伝えたこともないし、立場が違うのだから、環境が異なるのは必然でもある。


「いいえ……とにかく、私が浅慮に過ぎたのです。申し訳ありません。あなたのお考えを、優先すべきだったと、今ならわかります」


 浅はかでした、セアが付け加える。白い手袋の指先が、風に乱れたレーの髪をそっと整えた。


「私も、あなたを傷つけたのでしょう」

「聖騎士セアは、いつも優しかったです。優しさをちゃんと受け止められない、私がいけないんです」


 頭では、ちゃんとわかっていた。セアの言い分は正しいと。けれど、彼の言葉はまっすぐで、力が強すぎて、レーは置いて行かれて、引きずられて傷を作った。報復のように拒絶したけれど。


「あなたを傷つけたままなのは、嫌だな、って。ジェニが言ってたんです。元には、戻れないんだって。知らない人じゃなくて、会えなくなった人になっただけだって」


 このままさよならと手を振って、二度と会わない、なんてできそうにない。いつかと同じだ。否応なく、レーはセアの事ばかり考えてしまう。

だから、謝りに来た、続くはずが、声が出なかった。セアが浮かべた、美しい微笑に、言葉が吹き飛んでしまった。


 氷の美貌、ではない。人形でもなかった。

 あたたかくて、ひどく幸せそうだと、ぼんやりと思った。

 ありがとうございます、と告げた声が、自分に向けられたものだと気づいて、慌てて小さく首を振る。ですが、とセアは続けた。


「聖女レー。あなたが嫌だと思ったのなら、それはあなたにとって間違いなく、嫌なことなのですよ。いくら私が善意を持っていたとしても」


 はき違えてはいけません、と、穏やかで優しい声が、レーを諭す。

 今更――そういえば彼は、レーよりも相応に年上で大人だったと気が付いた。


「あなたは私に、嫌だと拒絶していい――いいえ、しなければならないのです」

「でも……それが本当に理不尽じゃないって、どうすればわかるんですか?」

「あなたはご自分を疑うことをご存知です。本当に理不尽なことをおっしゃるとは思えませんが」


 どうだろう、とレーは自問するが、自信はなかった。基本的に、レーは神殿の中で過ごし、それ以外の価値観も考え方も知らない。人との衝突は避けてきたし、当然、経験もない。

 沈黙をどう取ったのか、では、とセアがレーの指先を取った。


「私にもう一度機会をいただけるのなら……言葉を尽くすよう努力いたします。お互いに、となりますが」

「……お互いに?」

「ええ。そうです」


 繋がった指に力を籠めれば、同じように負荷がかかる。


「他愛ない我儘なら、聞いて差し上げたい。ですが、無理を通そうとする我欲であるなら、諫めて差し上げましょう」


 なんだろう、とレーは不思議に思った。ずっと隣にいた人だった。同時に、別世界の人のようだった。セアの言葉、行動の端々からにじむ、差、壁、そんなものがいつもあった……はずだった。

 今日は目の前にいる、その距離の分しか、離れていない気がした。

 意識改革をしなきゃ、と意気込んだのは最初の頃だ。だが、やろうにも手立てが無く、結局そのままとなった。だから、レーは何もしていない。

 していないのに、セアが変わった。それも、レーの思惑とはまた違った意味で、だ。

 会わなかった空白の間に、何かあったのか。

 いかがでしょうか、と再度問われて、ハッとする。


「し、ごとの話、ですよね」

「もちろんです」

「聖女と、騎士として」

「はい」


 ですが、と跪くセアの声が、変わる。


「機会をいただけるのなら、それ以外でも」

「……」


 見えない視線が、レーをからめとっていた。顔が勝手に赤くなる。聞いてはいけない気がするが、曖昧に流しては、もっとまずいと直感する。


「あ、あの……つまり」


 白い手袋がそっとレーの手の甲を撫でた。そのまま、中指の爪に、口づけが落ちる。何もない右手を見つめる視線が、怖いくらい熱を帯びていて、そのままレーをまっすぐに射抜いた。


「身命を賭して、お守り申し上げます、レー様。あなたが、健やかなるときも、病める時も……聖女であっても、ただ人であっても」

「え――」


 なにかが違うと、気づいていた。何が違うのかが、分からないままに。


「私を、お選びいただきますよう、お願い申し上げます」





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