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 おーい、という声に振り向いてはいけなかった。

 半身をよじっただけで、すぐにセアは前を向く。出来るだけ速足になりながら距離をとった、はずだったのに。

 がしり、と腕が肩に回った。酒瓶が顔のすぐ近くに突き付けられる。

「ひでーなせあさん、逃げんなよぉ」

「……放せ」

 完全な酔っ払い口調に、すげなく返して腕を払う。払っても、また回ってくる。三回繰り返したあたりで向き合った。キリがないため、殴ろうと思ったのだが。

 存外、素面な顔に、眉をひそめた。

「ちょおっと、付き合わね?」

 酒の匂いはするが、デュアンはいたって正気だった。だからこそ、違和感を覚える。ここは、ただの神殿の一廊下に過ぎないのに。

 千鳥足で――これも演技に違いなかった――案内されたのは、神殿のはずれにある中庭の一つ。テトルの大樹が目に付いた。一日の終わりに、星が瞬く時刻だ。周りには誰もいなかった。

 レーに、拒絶されてから、十日は過ぎていた。その間、この騎士デュアンにも会っていないし、セアはつい先ほど、長期の出張仕事から戻ってきたばかりだった。

 神殿には、留まれなかった。一人で居れば、心はどうしてもざわめいてしまう。

 折よくというか、常に出かける仕事はある。そればかりを選んでいるのは、職務についていれば冷静な思考が回るからだ。

 今は、まだ。

 時間が過ぎれば過ぎるほど、制御できない感情がセアを占める時間が長くなる。時が解決するどころか、理性的にいられる時間がどんどん短くなっていた。

 名前も声も姿も、どこかにあるだろうと――神殿にいれば、常に五感がレーを探す。どうしようもなかった。

 絡むことが多かったせいか、聖女レーとすぐに結びつくこのデュアンも、あえて避けていたのかもしれない。目の前のへらりと笑う男を、やや眼を細くしながら、様子をうかがった。

「用件は、騎士デュアン」

「いや~……レーちゃんに振られた感想をちょっと――って、嘘、嘘だから!」

 即刻踵を返したセアを、素早くデュアンは引き留めた。やはりさっき一度殴っておけばよかった、とセアは後悔した。理由なんて後からいくらでも湧いてくるのだから、理性より本能に従っておくべきだった。

「なんのつもりだ」

「ほんのじょうだ……悪かったってもう言わねえから、睨むのやめようか?」

「……話がないなら戻る」

 最後の警告のつもりで口にすれば、デュアンは肩をすくめた。全然堪えた様子はないが、もう酔った振りもしていない。

「なあ、聖騎士セア。あんたはここ五日ばかり、神殿にはいなかった」

「そうだ」

 確認するまでもないはずだ。騎士同士、ある程度予定は把握されている。あえて断言させたことに、何か意味があるのかとセアは訝しんだ。いつも通り、どこか崩れた笑みを浮かべているのが、やけにうっとうしい。

「その間に……レーちゃんは十二回、討伐に出てる」

「――」

「全部、騎士なしの一人で、だ」

「……」

「あんたなら、どんな『仕事』だったか、ピンとくるもんがあんだろ?」

「馬鹿なっ」

 反論にもならないかすれた否定が、意味をなさないのは百も承知で、それでも口を突いて出た。胃の底が冷えるような感覚があった。

「聖女一人が一日に複数件の討伐をこなさねばならないほど、依頼は増えていないっ」

「そー言ったって、仕事に行ったのは事実だ。あんたの指導のおかげで、あの子は真面目に報告書上げるようになったからな」

 

 全身をこわばらせたまま、空を睨むセアを、だから内容を知るのも、簡単だと騎士デュアンが笑った。


「神官たちは何を考えている」

「さあなあ? でも、誰に文句を言える話じゃあない。つーかどう考えても……」

「神殿のすべてが、黙認していると?」

 言葉を先取りすれば、 うっそうとデュアンが笑みを深くする。相手は「誰か」ではない。この「神殿」そのもので、多くの神官が関わっていなければ、現状を看過するのは不可能だ。

「なあセアさん。あんたの大事なレーちゃんは、どう考えたってヤバい。だろ?」

 真正面からぶつかる黒の目が、星の合間にある闇でさらに色が濃く見えた。明らかに、思惑のちらつくデュアンの言葉に、すぐには頷かなかった。それでも、デュアンはどこか満足気だ。表さなくても、沸騰しそうなセアの怒りを読んでいた。

「……騎士デュアン、狙いはなんだ」

「狙いねえ……俺はただ、レーちゃんとセアさんには、この前みたく仲良くしててほしいだけさ」

「ふざけるな。誰の手先だ? この神殿で何を探っている」


 セアはデュアンの「前職」を知っている。

 平民でありながら、すでに王宮を守護する第一部隊の長に就いていた男だ。ゆくゆくは王立騎士団の団長とさえ囁かれていた。

 だが何の気まぐれか、数年前に職を辞して姿を消した。まさかこの神殿でもう一度まみえるとは想像もしていなかった。

 へらりへらりとした表情は、硬い無表情よりもよほど底が知れない。

「なあセアさん。俺はあんたが思っている通り、本当のことはほとんど喋れねえよ」

 ふっとデュアンが真顔になった。だけどな、と続ける眼光は、真剣味を帯びて鋭い。

「今、一つだけ真実を言えるとしたら……俺はあのレーちゃんが死んじまうところなんざ、見たくねえんだよ」

 黒い目と、本当の意味で真正面から向きあったのは、初めてかもしれない。いつでもデュアンはどこか人の言葉を流し聞いているようだった。嘘だとは思えなかったが、だからと言ってわざわざ本当かと聞き返すのは躊躇われた。

「討伐の件だけじゃない。気づいたんだろ? あの子がここで、どんな理不尽な目にあってんのか」

「……服が、破かれていた」

「俺の時は水をぶっかけられてたぜ」

「馬鹿な……」

 あり得ない。そんな事態は――起こってはならないはずだ。

 神の御使いは、世界の救済者だ。聖女達によって人々は魔物の脅威から解放される。どれほど優秀な軍隊を差し向けようと、ただ一人には敵わない。

 ゆえに、敬われ、大切にされる――それが「常識」だったはずだ。


「セアさんよ」


 ふざけた物言いをする男だと思っていた。自由で気ままな――自堕落ともいえる――相容れない生き方をしている人間だと。


 すべてが「嘘」なら。

 デュアンがほんの一瞬、顔をゆがめた。


「死んじまうぜ、あの子」

「……」

 声を落として漏らされた言葉が、ひどく重かった。






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