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声が聞こえる。
気遣いの声。叱責の声――なりません、がまるで口癖のようになっていた人。かつて自分の隣にいてくれた人。もう、いない人。
別れはいつだっていきなり襲ってくる。
故郷もそう。あの人もそう。
ある日突然、レーはたった一人神殿で神殿へ行くことになった。
ある日突然、病気を理由にその人はレーのもとへ来なくなった。
なりません、と高い声が響く。鋭くもないし力もない。怖かったことは一度もないけれど、優しいと思ったこともなかった。
その人が優しかったと思い知ったのは、彼女がいなくなってからだ。
これは夢だと理解していた。
これもダメ、あれもダメだと指さす姿はおぼろげなのに、声だけは届いてきて。
輪郭がさらにぼやけた後、はっきりとした像が、今度は騎士服を着ていた。
息を、はっと飲んで、体が硬くなった。
ぐらぐらとするのは、視界のせいか、それとも纏まらない思考のせいか――
「…ちゃん、レーちゃん、風邪ひくよ?」
「――ん」
「だから、風邪ひくって、こんなところで居眠りしてたら」
「……ジェニ?」
「そーだよ? てかガチ寝? ここで、マジに?」
「……ジェニ、お嬢様が台無し」
「あーうん。気にしないでね。ちょっと酒場帰りで、言葉がうつってるから」
肩をゆすっていたジェニを、眠いままに見上げる。固まった関節が動かしづらい。ジェニの言うとおり、これは「ガチ寝」だった。起こされなければ朝までこのまま寝ていたし、どちらかというならまたやったな、という感想しかない。
食堂は暗かった。レーが来た時から暗かったが、人気が全くない分、より一層闇が濃い気がした。手燭はレーではなくジェニの持ち物だ。
ちょっと遊びに行っていたらしいジェニは、町娘と同じ恰好だった。新鮮な気分で観察していたら、ふざけてスカートを持ち上げたりする。くすっと笑えば、向こうもニカリと歯を見せた。顔も赤くないが、ノリは酔っ払いのそれに近い。
「で、レーちゃん。こんなところで寝てた理由は?」
が、どうやら全然酔っていないらしい。さすが、と変なところに感心した。
「……べつに、ちょっと散歩に出ただけなんだけど」
「疲れちゃったの? 最近忙しそうだったよね」
「う、ん。どうだろ?」
確かに一日二件も三件も仕事に出ている日が続いていた。だからと言って疲れているのか、と問われても、いつも通りのつもりだった。
どれだけ力をふるっても、疲労を感じたことなんてなかった。慣れているし、これが日常だ。
そう、いつも通りの、日々だ。
こまごまとした嫌がらせは、セアが現れなくなって途端に鳴りを潜めた。
余計な刺激を避けるため、買ってある真新しい衣服も、ひとまず手に入れた木箱にまとめて入れたまま、蓋を開けていない。
セアが結局新調した寝具はそのまま使っているが、これに気づいた人はいないだろう。
代わり映えしない日々。静かで、どこまでも起伏のない平穏さ。
望んでいた、はずなのに。
なぜだかざわついて寝付かれず、さらにはふかふかになった寝床のせい余計に苦しくなって、部屋を出てくる羽目になっていたのだけれど。
黙り込んだレーを、ジェニは辛抱強く待っていた。はっとして、何でもないと首を振った。
「あの、ちょっと眠れないだけだよ?」
「ここでがっつり寝てたじゃん。言い訳無駄」
「うう……」
「ジェニ様には話せないのかな?」
「そうじゃないけど……」
「なら、聞こうか――どうしたの?」
椅子を引いて、ジェニはレーの隣に腰かけた。ん? と覗き込む緑色の目が、あんまりにも優しいから、合わせられなくなった。ちょっとだけ高い肩口に、軽く額を当てる。
「聖騎士セアに……」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「いや、ここんとこ見かけないなって」
「……もう来ないでって言ったから」
「そっかぁ……」
もう一度やっぱり、が付きそうなジェニの口調に、実は最初から見透かされていたかもと、今更に気づいた。あれほど毎日のようにレーの側にいたのだから、当然ジェニとも顔を合わせていた。それがぱったり出会わなくなれば、気づくのは当然だ。
レーとは対照的に、ジェニがそれを気にしたところはない。
「別にいいんじゃないの? 拒むのも受け入れるのも、聖女次第なんだし。仕事は気の合う相手としたいし、面倒の原因は遠くにいた方がいいんだし」
「……」
確かにその通りだ。何かと細かく口を出されるのは苦手だし、いるだけで目立つ相手は余計な騒ぎを起こす。
「……そう、だけど」
「だけど?」
「……ひどいことを言った、から」
真っ青になっていたセアを思い出すと、のどの奥から苦いものがせりあがってくる。あの時飲み込んだ「何か」と、同じくらいに苦しかった。
固く目を閉じて縮こまったレーを、ジェニは腕の背中に回して抱きしめた。ぽんぽん、と軽くたたく。羨ましいくらい細い体は、今は少し頼りない。そのまましばらく、小さい子供みたいにあやしていれば、少しずつレーの体から力が抜けた。
落ち着いたらしいレーが、そっと体を起こす。目は赤くなかったけれど、何度も瞬きをしながら。
「ありがと、ジェニ」
「はいはい。どーいたしまして。あのねレーちゃん」
「なに?」
「レーちゃんが、やりたいようにしていいと思うんだよね」
「……」
「だって、結局はレーちゃんと聖騎士セアだけの問題だよ。で、選ぶのはレーちゃんの方だから」
どうしたいの? と黒目をそっと覗き込む。ほんの少し濡れながら、力なく視線が揺れた。
「わたし、は」
体を起こして、レーはジェニと向き合う。
「ただ……元に戻りたかったの」
かすれた声で小さく告げられて、ジェニは苦笑した。ささやかな希望に見えて、ずいぶんと大きな望みだ。
「だから……離れてって、言ったのに。そしたら、元に戻るだけでしょう?」
なのに、とレーがまた顔を伏せる。当然なのに、なかなか気づけない。悩む渦中の人はそんなものかもしれない。
「レーちゃん、あのね」
ぐす、と鼻をすする音がしたのは気づかない振りで、ジェニはそっと囁いた。
「時間は、戻らないんだよ」
「でも」
「確かに聖騎士セアとはもう会わないで済むかもしれない。だからって、レーちゃんが全部忘れて今まで通りに過ごせたわけじゃない」
でしょ、とちょんと肩をつつけば、図星なレーが途方に暮れた顔でジェニを見上げる。
「知らない人に戻ったんじゃない。会えなくなった人になっただけ」
「……」
レーがまた泣き出しそうな表情に戻る。今まで堪えていたけれど、今度こそ涙が盛り上がっていた。
「だって、じゃあどうすれば……」
「だから、やりたいようにすればいいんだって」
「元に、戻れないのに?」
「本っ当に、戻りたいのレーちゃん? 心の底から誓って?」
聖女の望みは世界を動かす奇跡の力だ。嫌というほど知り尽くした力が手の中にあると踏まえて、それでも望めば――あるいは、全部を曲げて「奇跡」が起こるかもしれない。
レーは黙った。
目まぐるしいぐらいの日々で、なのに鮮やかに記憶がよみがえる。いいか悪いか、を問われれば、胃が痛かったり困ったことの方が多かった気もするのに。
消えてなくなったら、と本気で考えると――身がすくんだ。
答えが出たことに、ジェニはちゃんと気づいた。ね、とレーの頭をなでる。
「難しいことはナシで、考えてみて。でも……今日は遅いからちゃんと休んで、明日からね」
ほら、と促されるままに部屋へ戻った。今度はあっけなく、闇と眠りが訪れた。




