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 いつもと違う、と感じたわけではない。

 言うこともやることも変わらない。過保護で、困るほど丁寧で、その上心配性を重ね付けして上から砂糖をまぶして作ったお菓子のように甘い。

 真面目な顔をしているのに、なぜだかいちいち心臓がうるさくなるようなことをさらりとやってくれる。

 出会い頭に微笑まれて、馬車に乗る時も降りるときも手が添えられる。討伐が終われば、怪我を気遣われながら、手放しで称賛された。

 たぶん、他愛ない一言だった。

 聖女イシュリアのようだと。

 世界の危機を救ったという、一番最初の聖女の名を挙げられて褒められた。

 現れた魔王を勇者とともに倒し、その後は世界の浄化のために一生をささげたという聖女。

 勇者は初代国王で、彼女は王妃にと望まれ応えたけれど、王宮にとどまることなく、世界の穢れを掃うために歩み続けたと伝わる。

 反論はしなかった。

 ただ、夜遅くなってしまったせいで人気のない食堂で座り込んでしまうぐらいには、疲れていた。

 ――そんなに、偉くないし。

 レーはレーだ。ただただ、力を与えられた、一人の人間にすぎない。自分だったら、魔王なんて怖いやつには立ち向かいたくないし、そもそも浄化の旅は出来っこない。

 幻だ。セアが見ているのは、どうしたって「聖女」の幻。

 けれど、それでもレーは「聖女」なのだ。そこだけは事実で、否定できないのが、どうにも苦しい。

 ――心酔なんて、してほしくない。

 レーをただ、レーとして扱って欲しい。

 どこかが何かおかしい、となんとなく気づいているけれど、正直な今の気持ちだった。

 だから、疲れる。

「悩み事ですか、聖女レー」

 机に突っ伏していたら、名前を呼ばれて驚いた。体を起こせば、ずっと年上の――母親に近い年齢――女性が燭台を手に立っていた。

「い、いえ……大丈夫です、聖女カリナ」

 慌てて否定する。まさか誰かいるとは思っていなかった。

 聖女カリナが、ほんの少し目を細めた。普通の聖女と違って、彼女もレーと同じく、引退せずにずっと神殿にいる。レーよりも「聖女」の時間が長いのは、もしかしたらカリナだけかもしれなかった。

 そして、耳に痛いことをしっかりはっきり告げる人でもあるため、ちょっと苦手にもしていた。そんな先輩に、ぐったりしている所を見られてしまい、顔が赤くなる。

「……本当に?」

 念を押されると弱いが、レーはぎこちなく首を振った。

「……なにも、ありません」

「では部屋にお戻りなさい。明日も仕事でしょう。体調は万全にして臨むものです」

「はい」

 さあ、と促されて立ち上がる。入り口で分かれ、部屋の方へ向かう途中で、慣れない羽織りものを忘れてきたことに気が付いた。

 聖騎士セアと一緒に買った、青い生地の上着。

 立ち止まって少し考えてから、踵を返した。

 たたた、と小走りに食堂へ戻って、座っていた席の隣にあったのを見つけて持ち上げると――半分が、床の上に落ちた。

「……」

 暗いが、触っただけで分かった。きっとこれは着られないと。ささくれだった糸は柔らかいから、レーの手は傷つけないが、ボロボロになっているのは、はっきりしていた。

 息を、吸う。

 大きく一回。それから、もう一回。

 ただの布になってしまった床のそれを拾って、一応あたりを見回した。声はしないし、人の気配もない。どこかで見ているかもしれないが、それだけなら無害だ。

 予想は、全くしなかったわけじゃない。

 ただ、なぜだかいつもよりも手痛い気分だった。

 これ以上追い打ちは貰いたくなかったので、さっきと同じように早足で部屋へ向かう。

 疲れた。とにかく、とても疲れた。

 だから早く寝てしまおうと急いでいたのに、部屋の前で急停止することになった。

 聖騎士セアが、いたから。小さな光源は、おそらく魔術だろう。ぽわぽわと宙に浮いて、妙に幻想的な雰囲気になっていた。

 一瞬、見入ってしまったせいで、とても残念なことに逃げようと背中を向けるよりも、相手が気づく方が早かった。

「聖女レー。遅くに申し訳ありません。明日の予定をお伺いするのを失念して……」

 相変わらず、この聖騎士はとても鋭かった。抱えていた元・上着に、目を止めたのがしわの寄った眉間で伝わる。

「聖女レー。そちらはどうなさったのですか」

「……別に、なんでもないです」

 バレた。バレてしまった。騎士デュアンの言ったとおり、本当にあっという間だった。

 誤魔化しようもないし、口をついたセリフは耳に空虚に響いた。

 お願いだから放っておいてほしい。頼むから何も言ってくれるな。心の中なら何度でも繰り返せるけれど、出てきてはくれない。

 横をすり抜けて行こうとしても、お待ちくださいと阻まれる。腕をとられれば抵抗する気も失せた。近くで見れば、上着の惨状も明らかだろう。

「なぜ……いや。いつこんなことに?」

「……」

「聖女レー?」

 返事をしなければ、聖騎士セアが覗き込んでくる。質問はされたくないし答えたくない。いつ、はついさっきだし、なぜ、に対しては聖騎士セア(そちら)のせいだと言わなくてはならなかった。

 身をよじって腕から逃れる。鍵の開いていた扉を押し開けて、とにかく部屋へ入った。

 何もないから、服の残骸は机の上に置いた。

「聖女レー」

 気遣ってか、さすがにセアは中に入ってこなかった。声が遠くなったことに、少し安心する。

「……気にしないでください」

「出来ません」

「明日は一人で行きますから。どうぞ戻ってください。遅くなってしまいましたし」

「明日については了承しました。ですが、戻れません」

「……」

「教えてください。こんなひどいことをした人間を、放っておくわけには……」

「いいえ」

 先は聞きたくなかったから、遮った。揺れる光が濃紺の瞳を映す。はっきりと、聖騎士セアは怒っていた。怒りを覚えている、その彼に、レーは座り込みたいほど虚脱感がした。

「何もしなくていいんです」

「聖女レー!」

「これからは気を付けます。もう忘れないようにすればいいんですから」

「そういう問題ではありません。他人の私物に勝手をしていいはずがないのですから」

「終わったことを、とやかく言いたい気分じゃないんで」

「でしたら私が」

「聖騎士セア」

 静かに呼べば、相手は黙る。命じてもいないのに、彼が従ったような気がした。レーは、確かにセアに黙って欲しかったから。

 無性に、いやになる。

「何も、しないでください」

「……」

 はっきりと告げれば、ややあってかすかにセアの表情が歪んだ。どんな言葉であれ、レーが望まないなら彼は動けないから、こうすれば何もしないだろうし、何もできないだろうと踏んでいた。

ただ、ぽつりと。

「……あなたは、もっとお怒りになるべきです」

「……」

 こぼされた呟きが、刺さった。諦めてなかったことにしようとする、レーを咎める一言が、痛かったさっきの心に、さらに違う痛みを与える。

諦めるのは得意だし、仕方ないと思うのはよくあることだ。理由はたくさんあった――浄化が出来ないから。上級じゃないから。

 誰を呪ったって、次々出てくるんだから終わりっこないし、だったら、平穏を求めてあきらめた方がいい。

 ――心を殺さなければ、生きていけない。

 だって、行き場なんてどこにもないのだ。レーの故郷は、冷たい雪が一年の半分の覆うあの村は、本当にただの野原になってしまったから。

 今回は、原因がはっきりしているだけましだった。昔から、ずっと変わらない。たとえ聖騎士セアがいてもいなくても、なにかと嫌がらせはあったのだから。

 キリがないのだ、本当に。

 一歩、聖騎士セアがレーの方へ踏み込んだ。

「どうしても、なりませんか」

「……」

「あなたにご迷惑の掛からない形で収めます。このまま聖女(・・)への冒涜を許しておけませ――」

「そうですね」

 心の、底から。

 全部がどうでもよくなった。そうですよね、と呟いて出てきた声が、遠くに聞こえる。無機質で冷たいのは、気のせいではないはずだ。

 セアが、ひどく驚いているから。

「じゃあ、どうぞご自由に」

「せい……」

「報告もいらないです」

 だから、と続けるのに、一呼吸必要だった。

「もう、関わらないでください」

「――っ」

 明らかに、聖騎士セアの全身がこわばったけれど、レーは自分のこともセアのことも、とにかくすべてを考えたくなかった。

 そのためには……元に、戻るしかない。

「早く言えばよかったです。だってそちらは仕事が増えるだけで。私は……」

 続きはぐるぐると渦巻く何かで、言葉にはならなかった。ただ飲み込んで、のどの奥の、さらにその下に押しやった。目を閉じて、ずっと下っていく感覚をやり過ごす。

 瞬いてから視界を開けば、聖騎士が青白い顔で固くなっていた。

 揺れる光が髪と瞳の色を波立たせる。綺麗だと思う。思うから、レーは彼に触れてはいけない気持ちになる。

「私は、自分のせいで苦しむ人がいなくなればよかったんです。それだけでよかったんです。違うことをしたから。だから……今苦しいんですよ」

「お待ちください、聖女レー」

 止めるために伸ばされた手を、レーは掴んだ。手袋越しに、聖紋が浮かんでいないことを確かめる。

「夢はもう、見ないですよね?」

「それは……」

「ちゃんと眠れますよね? ならもう、あなたが私に『罪』を償う必要はないです」

 もともと、あるかどうか、レーには分からない『罪』だった。彼の贖罪は、そもそも不要だとさえ考えていた。

 だって、レーはレーなのだから。

「これからもどうぞ安らかに眠れますように。お祈りしてますから」

 だから。

「私の側に、波風を立てないで」

「……」

「て言っても、意味わからないでしょうけど」

 顔を背けて、軽く息をつく。それが侮蔑や軽蔑に聞こえたかもしれなかった。セアが、明らかにさらに顔色を悪くしたから。

 仕方ないことだ。心のどこかで、ずっと思わずにはいられなかったことだから。

 気づいていたなら、理解できる人なら、もっと違う行動に出ていたはずだ。例えば、あれでいてものすごく空気読むのが上手いデュアンとか。

 彼は絶対に、人目のあるところでいきなり声をかけてきたりしなかった。

「……」

「大っ嫌いでした。その無頓着なとこ」

 ふらりと後ずさった、その目の前で、レーは手を振り払って扉を閉めた。








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