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「あの、聖騎士セアはいますか」
おずおずと顔を出した少女に、一番に破顔したのは金色の髪が鬣と見まごうばかりの巨漢だった。彼の後ろには数人の騎士がいるが、間違いなく頭一つ分はゆうに大きい。少女の二倍近い身長があり、見合うだけの肩幅や、筋肉のついた太い腕をしていた。が、笑った時の目じりにできる皴のせいか、どことなく優しげだった。少女が男を怖がる様子はない。
「おう、聖女レー。こんなところに珍しいな」
「騎士団長ガイ。まあその、諸事情あって……」
「悪いが、セアはおらんぞ。あまりにもひどい顔色でな。仕事を免除して帰らせた。なに、急ぎはなかったからな。見回り程度だが、あれじゃいてもいなくても変わらん」
目に見えて、レーは肩を落とした。せっかく調べたのに、という呟きは、耳のいいガイにはしっかり拾われてしまった。
「なんだ、用事があるなら、伝えておいてやるぞ」
「……いえ。結構です」
「そういうな。若い男と女が二人、なら相場が決まっている……と、言いたいところだが、事情は違うようだな。お前さんも、あいつばりに顔色が悪い」
「……」
遅すぎるとはいえ、とっさにレーは俯いた。顔色が悪いのは当たり前だ。さっきからお腹のあたりがきりきりと痛むし、昨夜は全然眠れなかった。言い訳するのも疲れるほど、今のレーは精神も体力も限界だ。
やれやれ、とガイは内心でため息をついた。思い詰めているのが分かりやすい。小さな頃から知っているからこそ、余計に。
どうせ、朝も昼もろくな食事をしていないだろう。下手をすれば、夜もこのままだ。
「聖女レー。来るか?」
差し出した手を、躊躇われるようになった。迷って迷って――ゆっくりと伸ばされた右手に、少し目を細める。
手の甲を軽く触れ合わせる。
すっと青白い文様が浮かんで、すぐに消えた。
「ほら、行くぞ」
「うん」
ゆっくりとした大股の歩みは、レーの三歩分はある。置いていかれもせず、いつも通りに歩けるのは、ガイがきちんと計算しているから。
あまり人の通らない通路を抜けて、食堂の裏側に出た。目だけで留め置かれて、ガイが厨房の中へ入り、すぐに紙の包みを手にして出てきた。もう一度、今度は腕を取られて歩き出す。目的地は、たいていいつも同じだ。
建物から離れた一角、神殿を囲む森との境界に、テトルの大樹がある。
常緑の大木の根元は、いつでもレーとガイの隠れ場だった。
包みを渡した後、ガイは木陰に寝そべった。すぐそばに、レーも座り込む。ガイは片手で持っていた紙包みは、思いのほか大きかった。両手に余る。中には、おにぎりと蓋をされた木の器、温かい汁物が入っていた。ちゃんと匙もついている。
「で、なにがあったよ?」
「……うん」
ちびちびとかじりつつ、質問を受け流す。ガイはレーの横顔を見ながら、これはしゃべらないな、と諦めた。
「……もどらなければ、よかったんだけど」
「は?」
独り言だったので、レーは首を振った。聞かせたいのではない。
そう、正気に戻らなければよかったのだ。
あの、時。ありえないほど取り乱して叫んだのは、ほとんど初めての事だった。だからというわけではないけれど。
正気に返らなければよかった。
混乱したままなら、そのままで。記憶もすべて定かにならないまま、状況も分からないまま。きっと聖騎士セアも、その方がよほど助かったに違いない。
湯を浴びていたのだから、当然、服は着ていないわけで。
そんな状況でも「聖則」を発動すれば、当然聖騎士は従うわけで。
結果として、レーは……まあ、全裸を見られてしまった上に、あまつさえ……
止めよう、と慌てて首を振った。思い出していいことは一つもない。
頭が、痛い。何をどうしていいのか、わからない。
もちろん、聖騎士セアは悪くない。誰が悪いかといえば、間違いなく自分自身で。言い訳をさせてもらえるなら、悪気は全くなかった。
が、はっと気が付いてしまったのだ。
あの、状況に。
間違いなく、顔は真っ白になって真っ青になって、最後は羞恥で赤くなった。
なぜ分るかといえば、同じ状況に陥った相手の顔色が目の前にあったからだ。
その後ひたすら気まずいまま神殿に到着し、数日たっても顔や姿を見るたびに走って逃げたくなる今、罪悪感と焦燥感にかられながら毎日を過ごすのは、とっくに限界になっていた。
毎度毎度、セアも同じく顔をこわばらせ、日ごとにやつれているのを見ていれば。
とにかく、なにかを変えなければ。と、決心した。それはいい。
けれど、まず面と向かうのが難しかった。
逃げたいのだ。とにかく、顔を見れば背けたい。視界の端にいるだけで頭の中はぐっちゃぐちゃで、真っ白になってしまう。
他の人であれば、たかが裸を見られたぐらいで、と鼻で笑われそうだけれど。
レーにとっては、一大事だった。
ううう、と声にならずに呻くレーに、やれやれ、とガイは内心でため息をついた。にっちもさっちも動けないのは、はたで観察していれば十分に伝わった。手伝えるとすれば。
手を広げて、聖女レーの頭に置く。黒い艶のある、肩までの髪。指を通して何度か梳いてやれば、ゆっくりと振り返った。
「聖女レー」
「……うん」
「見張っててやるから……寝ちまえ」
「でも……」
「お前さんは優しすぎる。セアの事にしろ、明日の盾の事にしろ」
この場合、盾は聖女とともに仕事をする騎士を指す。聖女を守るもの、としてよく使われる言い回しだった。
明日の盾、と聞いて、レーは棚上げにしていたもう一個の問題も思い出した。
相談はしていないけれど、どうやら耳に入っていたらしい。気まずくなって俯きたくなったけれど、大きな手が許してくれなかった。
「俺に言えばいい。だが……しないと決めちまったんだろ」
「優しくなんて、ないよ。それに頼ってばかりは、良くないって」
「誰に言われた?」
「……」
否定は返ってこない。けれど口を開くそぶりもなかった。ふう、とガイが息をつく。とにかく、とガイはレーを引き寄せた。
「ずっと眠れてないんだろ。今は……寝ろ」
大きな金色の目につられるように、レーはこっくりと頷いた。二度三度と瞬く合間に、ガイの姿がゆるゆると変わる。
ヒトから――大きな獅子へ。
小さな頃は、前足の間に入って眠ったけれど、今はさすがに無理だった。代わりに、上下する腹を枕に、前後の足にくるまれて丸くなる。
黒く湿った鼻面を寄せられて、手でそっと撫でた。
聖騎士たちを束ねる長は、その実、人ではない。
大の大人の三倍はある、金色の獅子がその本性だ。聖獣とも、神の使者とも呼ばれる。
人は、ガイを畏れることもあるし、敬うこともある。いずれにせよ、たいていは遠巻きにして近づいてこない。
けれど、レーにとっては、誰よりもどこよりも安心できる相手だった。人が周りに来ない分だけ、なおの事。
「あの……」
「全部後にして、寝ろ」
ぼすり、と太い足が顔につく。柔らかいのか固いのか、不思議な感触の肉球だけで、レーの顔とほぼ同じ大きさだ。同時に、仄かに温かさも感じる。
後にしろ、と言われた。
レーは瞼を閉じる。それだけで、すぐに眠りは訪れた。




