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 声をかけられるのは珍しかった。敬遠されているのは知っているし、身分や立場を考えれば仕方がない。事務的なやり取り以外を求めたこともなかった。

 それが平民出自の騎士であればなおさら。

「なあ、聖騎士さんや」

 振り返った先には、黒い髪に白髪の目立つ、壮年の騎士がいた。騎士に定年はないが、彼より年上の仲間を探すのは難しいくらい、ベテランの相手だ。

 もちろん、名前は憶えていた。聖女レーの、「仕事相手」ならば、当然だ。

「騎士イアネ。なにか?」

「……そう睨まんでくれるか。別に喧嘩を売りに来たわけじゃあない」

 やや間が空いた後、力ない声で言われれば、無意識に入っていたらしい肩の力がふっと抜けた。同時に、鋭いと指摘される目線も一度落としておく。

 セアとしても、別に喧嘩を売ったつもりはなかった。ただ……ことが聖女レーに関わるため、身構えてしまう。

 これではいけない、とは思っている。

 イアネがふっと息を吐いた。手が荒っぽく頭をかくのは、癖なのかもしれない。

「……あんたがいりゃ、安心っちゃ安心だがな……」

 横向いて吐き出された低いつぶやきは、聞かせるつもりのない独り言らしいが、地声が大きいせいでしっかりセアにも聞こえていた。が、正面を向いた時には、落ち着き払った騎士がそこにいた。

「聖騎士セア。あんたはきっと、あの子を……聖女レーを主にって望むんだろうが……」

「それは……」

 まだ何も、と答える前に、手がセアを止めた。

「いや。答えが欲しいんじゃない。俺には聖騎士に課される重圧も制約も分らんし、あんたたちにあるっていう『忠誠の(さが)』なんて、まるで理解できないからな」

「……」

「ただ……」

 先が、揺れながら切れた。イアネは息を吸い、のどを唾で少し湿らせた。この人間離れした聖騎士が、どんな反応をするのか、見当もつかないせいだ。

 呼び止めたのは、ほとんど勢いだった。

「ただ……あの子は、向いてねえと思う」

 ぴくり、とセアの肩が揺れる。怒りはない。感情が動いた気配もなかった。そのことに、イアネは少し安堵して、言葉を重ねる。

「知識もあんまりねえし、メテナ語も上手くない。騎士が付くような仕事は、そもそも多くない聖女だ」

「……」

「まあ、ちょっとばかし間が抜けているんだが、基本は、押さえているし討伐の経験も長いし、強い。だから」

 だから、つまり。

 ただ平穏を望むだけの聖女レーは。

「一人でなんでも出来るようになったんだよ。あの子は」

 小さな子供は、手を引かれて歩いていた時期を終えて、今は誰かの手を借りずとも歩んでいる。ずっとつかず離れずの距離にいた騎士イアネには、その成長がどこか誇らしく、そしてうれしかった。

 自分に出来る精一杯を、聖女レーは十分にやっている。

 なのに聖騎士が付けば、どうなるか。

 魔物ではなく――人が。

 時に敵となるような場所へ行くことになる。

 それは、きっと。優しすぎる少女には向いていない。

 ぶつ切りな語り口の意見を、セアは黙って受け止めていた。騎士イアネは間違いなく聖女レーを心の底から案じていたし、十分に一理ある話だった。

 十分、過ぎるくらいだった。

「だから……まあ、なんだ。聖女レーのこと、よく考えてやってくれ」

「……肝に銘じます」

 セアは、話を切り上げるイアネに、最後には頭を下げた。面食らって、顔をしかめた後、もう一度イアネは考えてくれ、と告げて、背中を向けた。

 小さくなっていく後姿を見送る間――体の奥が痛かった。

 分かっていた、はずだった。

 幾度も、経験し、噛み締めてきた。

 聖女レーに、騎士は要らない。

 守ることも戦うことも、すべてがすべて、聖女レーが一人で背負っている。まるで添え物のようだった自分を、忘れたわけではない。

 今日とて、レーは一人で討伐に向かい、さっさと帰ってきている。

 約束は、他愛ないつながりは、今もかろうじて保たれていたけれど、バネスがいなくなった今、レーはあまりセアに連絡をすることは少なくなっていた。

 騎士バネスは許し難い存在だが、同時にあの男がいなければ、縁が続かなかったのは複雑な気分になる。


 脳裏に、笑顔が浮かんだ。苦笑じみていた時、ちょっと困っていた時、心の底から安心しきった時。

 ――見たい。

 幻でも記憶でもない、本物の聖女レーに、会いたかった。

 すでに時刻は夕刻だ。仕事は完了し、夕食も済んでいるだろう。以前と違って、何か部屋を訪れる理由もない。

 それでも。

 騎士の集まる隊舎から、主神殿へと向かう。大広間や大礼拝堂を抜け、さらに奥が聖女たちの主な居住区になる。渡り廊下は迂回しているため、気の急いたセアは中庭を横切って抜けようとした。道らしい道はないが、方向さえ間違わなければ近道になる。

 叩き込まれた神殿の図を思い出さずとも、足は勝手に進んでいった。

 速足で通り抜けかけた、その時。

 見慣れた影が、視界を掠めた。とっさに、足を止めて振り返る。

「……あ、」

 今まさに、手を伸ばして呼び止めようとしたらしい、聖女レーと目が合った。あまりのタイミングの良さに、レーは少し驚いてから……くしゃりと笑った。

「聖騎士セア。そんなに急ぐと転びませんか?」

「……。いえ、経験はありません」

 とっさに、目を伏せて答える。驚いているのはセアも同じだった。思いがけない場所に現れたレーに、どうしていいかわからなくなる。

 ――会いたかった。

 ただ、それだけで、その後、どうするかなんて考えの外だった。

 今日のレーは、いつもの支給着の上に、見覚えのある薄い青の上着を羽織っていた。先日、町へ出かけた際に買い求めたものだ。

 目線に気づいて、これ? とレーが袖を引っ張って広げる。

「一枚あると、やっぱり全然違いますよね」

「当然です。寒くはありませんか。今日ですと、もう少し厚手のものでもよかったのでは」

「そんなことないですよ。私、もともとずっと北の方で生まれたからか、寒いのには強いんです。これで十分。風邪もひきません」

「ならよいのですが……」

「聖騎士セアのお見立てですけど……どうですか?」

 上機嫌なレーが、くるりとその場で回ってみせた。はしゃぐレーは珍しい。無防備に笑う姿も。

「お似合いです」

「またまたぁ。どう見ても服がきれい、なだけですよ」

「そのようなことは……」

「いいんですよ。だって、自分もうれしいんです。嬉しいんだって初めて知りました」

 腕を伸ばして、目じりを下げて上着を見つめる。袖口の色は紺に近い青から、肩口は青、裾に向かって徐々に薄くなる。素材は軽いし薄いから、全体の色味は淡い。白の支給着とは折り合いがよかった。

 レーの黒髪も、よく映える。

 似合うと、思う。

 だが、セアを惹きつけてやまないのは、夕刻の日差しの中で、かすかにほほ笑むレー自身。けれど、伝える言葉がセアの中で泡のように膨れては消えてしまう。

 もどかしく見つめていれば、気づいたレーが怪訝そうに視線を返してきた。それから、あ、と思い出した顔で近づいてくる。

「聖騎士セア」

「はい」

「これ、ありがとうございました。買いに行って、よかったです」

 満面の笑みが、夕日の光のせいだけでなく、セアの目に眩しい。答えようとした矢先に、イアネの後ろ姿が浮かんで、一瞬体が硬くなる。

「……お役に立てたなら、光栄です聖女レー」

 堅苦しい挨拶じみた答えに、我ながら嫌気がさすが、レーが気にした様子はなかった。


 物語なら。

 子供のころ、寝かしつけのために聞かされた、美しい童話の中でなら。

 騎士の忠誠は、ただ喜びとともに聖女に受け入れられて。

 騎士は美しい聖女の傍らで、彼女を守り。

 最後は二人が手を取り合って幸せになれた。

 差し出す手をためらう必要もなく、聖女のためにはただ側にいて尽くせばよかった。

 それが夢物語だと、現実は違うのだと突き付けられたのは、ずいぶんと前のことで、痛感するのは今更にすぎる。

 イアネの指摘した『忠誠の性』が本当にあるのかどうか、聖騎士であるセアでさえ知らない。ただ、古い歴史書に記述があるだけで、実在するのか確かめた人間はいないし、そもそも確認は難しかった。

 聖約を課される騎士は、主と決めた聖女を一身に守り抜く性がある、などと。その性ゆえに、膨大な魔力を得ることができる、とも。

 どちらも、主観で判断することも、客観的に見抜くことも容易ではない。そもそも、魔力は生まれついた才能に差もあるし、潜在性が高いから、実際に魔術師と呼ばれる人間でも年を経てから使える術が変わったという話は珍しくない。

 ただ、イアネの懸念は、セアも汲み取っていた。

 もし、植え付けられた性があるなら。

 胸の痛みと苦しみは、誰のもので、誰のせいなのか、判然としないまま聖女レーを苦しめることになる なら。

 側に、いてはならないはずだった。

 けれど。

「聖女レー。そろそろ、日が落ちますので……」

 お戻りを、と促そうとして、慌ててその体へ手を伸ばす。いきなり、レーが後ろ向きに倒れたせいだ。その上、意識がない。

「……」

 唐突なことに呆然としてから、仕方なくまた部屋まで運ぶことにする。

 ――必要と、されたい。

 たとえレーが一人で生きると決めていたのだとしても、少しでもいい。いつでもこうして、手を差し出せる位置にいたかった。



 翌朝を聞いたことには、デザートに出たケーキに酒が多めに含まれていたとのこと。全く記憶がないと謝罪するレーは、あの屈託のない笑顔ではなく、申し訳なさを身を縮めて訴えていた。

 ほんの少し残念だと思ったのは、間違いなくセアの心だった。






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