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仕事に行きたくないな、とセアは生まれて初めてそんな埒外な考えを抱いた。

真面目だ堅物だと言われ続け、事実その通りだと自負している。

が、今は目の前で赤くなった頬を必死に手であおいで冷まそうとするレーのそばから、とても離れがたい。

出来るなら、ずっと触れていたかった。

壊れそうなほど、細い指。小さすぎる桜色の爪。

後付けで強引に許しを得るなんて、今までの自分なら絶対にしない。

けれど。

柔らかな微笑が、感謝とともに向けられて。

あっさりとセアの望みを尋ねて。

その上身を投げ出すような言葉さえ放られて。

堪えられなかった。堪えられなくなった。

腕をつかんだのは衝動だった。こみ上げてくる感情は、そのままレーを引き留めていた。

どうして、と。疑問を抱かずにはいられない。

聖女レーでなければ、ならなかった。セアの騎士としての唯一の主は、もうレー以外に考えられなくなっているのに。

なぜこの主はこれほどに、自分自身の価値を低く見るのか、と。

望みはある。心に抱くことさえ、許されないはずの数々が、レーが「なんでもいい」と告げた瞬間に、己の中に生まれていた。

あの利き手の甲に浮かぶのは、常にセア自身の聖約文様であればいい。

隣に立つのも、背中を押すのも、向き合う瞳に映るのさえ。


セアがレーの所有物(モノ)であれば。


レーが、聖騎士セア(じぶん)所有物(モノ)であれば。


浮かびあがったすべての望みを沈めたかった。聖約のキスは、そのためにした、はずだった。

ようやく落ち着いたらしいレーの隣で、セアの口からため息が零れた。

気付いたレーが、セアをうかがう。手を伸ばさないように、そっと手のひらを握りこんだ。

赤く熟れた頬と、潤んでいた瞳に、あっさりと「忠誠」は投げ出された。間違いなく、最初以外のキスでは、忠誠の意思は隅に追いやられていた。

己の愚かさと、未熟さが……この短い時間に嫌というほど突き付けられている。

一年を聖騎士として過ごし、この先もおそらく地位は変わらないはずだ。

優先すべきは聖騎士としての自分で、他を表に出してはならないのに、いつもなら息をするのと同じくらい簡単なことが、レーの側では途端に難問になる。

聖女レーの傍らに立つには、もっと鍛錬が必要だと、気を引き締めた、その時。

「おーい、逢引?」

ふざけた声が割って入ってきた。「あいびき!?」 と驚いたレーが立ち上がって振り向いた、その先には。

「騎士デュアン」

「おう、レーちゃん。しばらくぶり」

はあ、と間抜けな返事をレーがした。いきなりの闖入者に、セアも苦々しい思いと……やや救われたとも頭の隅で考えて、余計に口の中が苦くなった。

「な、なんっで……逢引なんですかっ」

「だあってレーちゃんがセアさんを『呼び出し』たって言うから」

「呼び出し掛けたら逢引なんですか? 誰ですかそんな馬鹿な使い方してるのっ」

「ええっとねぇ…確か」

「あ、やっぱりいいです、言わなくて」

余計な情報だった、とレーが先を拒絶する。

ええ~と不満そうなデュアンだが、ニヤニヤ笑ってもいるから半分は演技らしい。

「で、やっぱり逢引なの?」

「ぶっ飛ばされたいんですか、騎士デュアン。その気があるなら騎士団長ガイにお願いしておきますけど」

「聖女レー。差し支えなければ、この場で私が」

「全力で遠慮するんで、セアさん剣抜かないよ?」

すでに手が柄にかかっていて、白刃が見えていたセアを、デュアンが押しとどめる。たとえ切られても、レーにすればただの自業自得だ。が、礼拝堂で喧嘩はまずいと、思った矢先。

「逢引じゃないのかぁ……ここじゃ確かに色気ないよな」

またしても余計な一言に、セアのこめかみに青筋が浮かんだ。反対に、レーはがっくりと肩を落とした。

「なくていいんですよ、そんなの」

「そーお? でも二人っきりってのはいいよな、セアさん」

「黙って消えろ」

この覗き魔、と胸の内で吐き捨てた。妙にタイミングがいいと思ったら、恐らくはかなり前から立ち聞きしていたのだと当たりが付いた。付くような言い方をしている。

こいつは、とセアはデュアンを睨む。

正体がわからない。目的も、その意図も不明だ。

「そんなこと言わんで。花とか菓子とかあれば、それっぽいよ」

「だから要らないんですって! どうしてそこから離れてくれないんですかっ」

「俺的においしい」

「……やっぱりぶっ飛ばされたいんですよね?」

いいよね答えは訊かなくても、とレーは半分本気で考えた。ガイに会いに行く道と時間まで予定を組んだ。

「えー。でも、二人は『恋人』なんだろ? それっぽい事しといたほうが、バネス戻ってきたときにいろいろ牽制になると思うぜ」

「……」

いきなりまともな指摘をされて、レーは目を白黒させた。というか。

「戻って、くるんだ……」

当然と言えば当然だ。なんだか罰が下って勝手に満足していた。

けれど、それは気が重い。別にどこにいてもいいし、顔を見るくらいならなんともないが、前と同じように絡まれるのは嫌だった。

「だろ。セアさんも動いておいた方がいいぜ?」

「いやでも……」

「ご心配なく。もとより、貴方には指一本はおろか、影さえ踏ませるつもりはありません」

レーの横で、ひどく真剣になった聖騎士セアが、断言する。

「ですので、お好きな花と色を教えてください」

「いや意味わからないですからっ」

なんで乗っかるんだ、とレーは叫びたくなった。どう見たって、騎士デュアンはレーとセアをおもちゃにして遊んでいるのだから。

「だめです困りますっ…どこにも飾れないし!」

「では菓子にしましょう。城下に有名な店舗がございますので、明日の朝、届くように手配してから仕事に向かいます」

「だってさ。良かったなレーちゃん。甘いもの、好きだろ」

「お菓子はす、好きだけど……」

問題はそこじゃない、と言いたい。恋人云々を、誰かにアピールする必要はないのだ。ほんの一時、過ぎたあの時さえ乗り切れれば、レーはそれでよかったのに。

いつの間にか、あのふざけた依頼を延長することになっている。

こうなると、いきなり現れたデュアンのせいな気がしてならない。

「ていうかなんで騎士デュアンはここに?」

「あ、俺、呼び出し係にされちゃって。聖女イレーネ、そろそろ行けるってさ」

「……承知した」

短く答えれば、じゃあ伝えたから、とデュアンは二人に背を向けた。ええええ、とレーが驚く間に、さっさと――逃げるようだとちょっと思った――礼拝堂から出て行ってしまう。

セアは、その後姿が完全に消えるまで睨みつけた。正体の分らない、騎士。今はまだ敵とも味方とも判断がつかない。

「どうかしました、聖騎士セア?」

黙り込むセアが心配になったらしい。気遣う声音に、苦笑しそうになった。

聖女なら……他の聖女なら、絶対に、こんなことをしないのだ。

だからこそ。

「尊い御方」

だからこそ、セアの主はレーでなければならない。

「貴方は、軽々しくなんでも、などと口になさらないでください」

「……あーと」

身に沁みていればいい。気まずい顔で目を逸らす聖女レーは、明らかにやらかしてしまった事を理解している。

「もっとご自身を大切になさってください。あなたは優しすぎるのです」

「やさしい、ですか?」

どこが? と続けそうなレー。

「たかが謹慎処分になった程度で、あの男をお許しになるのでしょう?」

「それは」

「私はまだ、なぜあの者が生かされているのか不思議でならないのですが」

「……」

えーと、とレーは黙り込んだ。セアの台詞を反芻する。耳がおかしくでなければ、かなり物騒なことをさらっと告げたような。

「騎士位の剥奪もなく、未だのうのうとこの世に居座っているとは」

「あのっ。この世にはいてくれていいんですよ?」

間違いじゃなかった、と慌ててレーが口を挟んだ。さすがに死んでほしいとまでは思わない。

「ではせめて、この神殿より放逐すべきです」

「そ、うですか?」

「当然です。二度とあなたに会わないよう、未来永劫、蟄居していればいいのです」

審議会に意見書を出します、と断言するセアに、本気だ、とレーは慄いた。だって目が据わっている。桁外れの美人がすごむと、迫力が半端なかった。怒りがレーに向かっていなくても、なんだか狼狽えてしまうし、同時にやっぱり相変わらず、セアにとってレーは清廉で美しい「聖女」なんだな、と実感する。

手が差し出されて、御手を、と言われれば反射で応えていた。

「私が戻るまで……貴方の手を、白いままでいてくださると、お約束いただけますか?」

話せば、呼気を感じるほど近く、指の先が唇の側へ。

これがレーの言い出した「お礼」への回答なのだと、気づくまでにしばらくかかった。

ぎぎ、と音がしそうなぎこちなさで、レーはゆっくりと頷いて、顔を戻した、時。

聖騎士セアは、頬を染め、いたく満足そうに笑みを浮かべていた。

人形、ではありえない。濃紺の双眸も、白磁の肌も――人だけが持つ熱と、雰囲気と、惹きつけられてやまない、美しさが溢れていた。

レーはただ、見惚れるしかなくて。

身体を引き寄せられたのにも、気づけなかった。

すっぽりと腕に囲まれて、肩口までの黒い髪をセアの手で梳かれる。地肌に触れ、髪の間を通る指の感覚は、よく知っているはずだった。

時折、同じように騎士団長ガイが、レーに触れるのに。

なにも、違わないはずなのに。

頬が熱くなる。心臓の音は、またどんどん早くなっていって。

息が、苦しい。

「行って参ります。約定を、お忘れになりませんよう」

耳元に、声と息で別れを告げられても、レーは返事が出来なかった。セアがそっとレーを長椅子の上に座らせてから、踵を返して礼拝堂を出て行くのを、ただ見送って。

一人残されたまま、しばらく動けなかった。けれど、目に入った水時計が示す時間に、はっとする。朝の日課の時間はとうに過ぎて、昼が近かった。

「か、帰らないと……」

一歩踏み出した、はずだった。

足と腰が、砕けなければ。

「~~~」

力の入らない体の、原因を思い出してしまって、また顔が赤くなるし、心音も勝手にひどくなった。

こんなんじゃ。

「身が、もたないっ……」

本日二度目のつぶやきが、丸い天井にこだました。








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