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 聖女にはいくつか日課がある。神殿での礼拝は、三日に一度がルーチンワークだ。ただ、場所は人々が拝礼する大神殿の講堂ではなく、もっと奥にあるやや小ぢんまりした礼拝堂で行う。東西南北、各方位にある礼拝堂に、朝、昼、夜の三回を、交代で神への祈りをささげる。

 有体に言ってしまえば、習慣化された儀式だけれど、レーは一人で聖句を唱え、跪拝を行うこの仕事が、嫌いではない。

 静かで、平穏な分、好きだと言ってもいいくらいだ。

 目を閉じて、静寂に耳を澄ませていれば、自分の中からすべてが溶け出して、取り巻く空気と一緒になってしまいそうな錯覚さえ、起こしそうだった。

 それを少し怖いと思うけれど、同時にそれもいいなと考えて……かつん、と聞こえた靴音に、はっとして目を開けた。

 一歩ずつ間違いなく近くなった音が、今度は扉が動く音になった。出迎えようと思っていたのに、と残念になりながら、レーは立ちあがって振り向いた。

「聖騎士セア」

 はい、と少し遠くで返答をしたセアが、ちょうど朝の柔い日を後光のように受けて立っていて、踏み出そうとしていた足が――止まった。

 なぜって……あまりにも、美しくて。

 セアは、聖騎士としての正装をしていた。やや青みがかった、白地の上着に、金糸と銀糸が神殿の象徴であるツタの文様を飾っている。

 帯剣をし、胸には聖騎士を表す徽章があって、それだけでも十分にまばゆいけれど。

 鋭さのある怜悧な容貌は、光に輪郭をかたどられて、一層神々しい。

 なにより……宝石に勝る濃紺の瞳に、横から金の光が微かに差せば――さらに真っすぐにレーを射抜いていれば、全部忘れて魅入られてしまう。

 歩み寄る聖騎士にただ見惚れながら、前もこんなことがあったな、と思い出す。

 あれは確か、最初に彼を見かけたときだ。

 あの時は、聖堂で行われる年中行事――いくつかあるけれど、確か春先のもの――で、赴任した新しい聖騎士の披露目だった。

 日の光を、柔く受けて。銀の髪が、きらきらしていた。

 聖堂の壁際にいたせいで、見えたのはほんの一時だったのに……忘れられない絵になった。

 比べると今は、信じられないくらい近くに聖騎士セアがいた。

「聖女レー?」

 どうなさいました? という問い掛けと一緒に、額に手が伸びてきた。

「熱はないようですが……具合でも?」

 何を言って……と訊く前に、やけに顔が熱いことに気付いた。だからつまり……

「あ、……」

 顔が、赤い。そう気づいた。ものすごく今更に。

「聖女レー?」

「――っ」

 なんでもない、の一言が出てこない。額の手が、今度は頬に触れている。白い手袋は、生地がいいのか柔らかいけれど、包まれた指の固さをちゃんと教えてくれる。

 片方だった手が、いつの間にか両方になって、レーはセアの手にすっぽりと覆われていた。少し仰向いたままセアを見上げていれば、濃紺の瞳がまた少し近くなった気がして。

 まずい、と直感した。呆けている場合じゃない、と。

「あ、あの…だ、いじょうぶ、です!」

 目をきゅ、と閉じて半分叫ぶようだった。肩をすぼめれば、すぐにセアの手は離れて行った。

「失礼いたしました。お答えがないので、無理を押して礼拝の儀をなさったのかと」

「そ、そんな真面目じゃないですよ?」

 くすりと笑う気配がした。あれ? と見上げた時には、いつもの生真面目な顔つきだ。聞き間違い……だったかもしれない。

「それで、今朝はどのようなご用件でしょうか」

 あ、とレーは顔をしかめた。聖騎士セアを初めて「呼び出し」したのには、もちろん理由があった。

 セアと会うのは、三日ぶりだ。前回は、またしてもうっかり外で寝てしまったのを、回収して部屋に運んでくれたのはセアだと聞いて、慌てて上着を返しに行った時。

 てっきり騎士団長ガイの物だと思ったら、入るわけねえだろそんな細いの、と突き返されて青くなった。

 仕事では、バネスの一件以来、騎士を伴う案件がなかったため、レーはいつも一人だった。

 この後も、そう。

 だから、いつもなら空いた時間にセアを探せば済んだのだけれど、今回はセアがしばらく出張してしまうことと、レーの朝課と出発が被ってしまったため、ちょっと無理を押すために「呼び出し」したのだ。

「あ、あのですね。大したことじゃないんですけど――って、時間。時間大丈夫ですか?」

 自分がボケていたせいで、さっと会って済ますつもりがとんだ無駄を出している。慌てて祭壇の水時計を確認しようとして、転びそうになったところを……セアに支えられて事なきを得た。

「落ち着いてください、聖女レー。ご心配には及びません。出発は、午後からになりましたから」

「あ、そうなんだ……」

 ほっとしながらも、レーはセアが厳しい顔つきになったのを見逃さなかった。

 彼の仕事は、隣国の儀式に出席する聖女の供、つまりは護衛だ。担当はあの聖女イレーネで……。

 あー、とちょっと天井を仰いだ。

 多分……というか、十中八九、予定が遅れたのは彼女のせいで、あまりまともな理由ではなさそうだ。

 まあ、レーは助かったとも言えるけれど。

 礼拝堂には、数は少ないけれど儀式のときに信者が座れるように長椅子が用意されている。その一つに、二人は腰かけた。

「聖騎士セア。騎士バネスが謹慎処分になったこと、知っていますか」

「ああ……処分が通知されておりました」

 それがなにか? とセアは怪訝そうだった。

「いえ。ただその……お礼が言いたくて」

「お礼?」

「ええ。だって、きっとあの上申訴状のおかげだと思ったので。私じゃ絶対にあんな訴状は出せなかったから……」

 なにしろ細かくて時期も最初から最後まであって、とにかく分厚かった。レーは絶対にあんな訴状は書けないし出せない。挫折するのが目に見えている。

 神官たちが無視できない分量だった。だからきっと、処分が下ったのだ。

 しばらくはバネスの顔を見ないで済むなんて、本当に清々するし……正直、ほっとしたのだ。

「ありがとうございました、聖騎士セア。全部、貴方のおかげです」

 考えれば、自然と笑みが浮かぶほどだ。

 そんなレーを、少しの間無言で見つめてから、セアは軽く目を伏せて固く答えた。

「当然のことをしたまでです。聖女レー」

「……」

 そういうだろうな、と分っていた。生真面目で堅物な聖騎士は、務めを果たしただけだと主張すると、もちろん予想が出来た。

 なのに、心のどこかが落胆するなんて、絶対に気のせいだと思いたい。

「そうですね。お仕事、ですよね……」

「聖女レー?」

 ぽそりと呟いた声は、聞こえなかったのか問い返された。首を振って誤魔化す。

「いえ……ただ、とても嬉しくて。だから聖騎士セアに、お礼がしたいなって思ったんです」

「……」

「助けてもらってばかりですから、大したことが出来るわけないんですけど。もし私が役に立てそうなときは、ぜひ、教えてくださいね」

「……」

 セアは、困惑しているようだった。無表情に近いながら、醸し出す雰囲気は間違いなく戸惑っている。

 馬鹿なことしちゃったかな、とレーは後悔した。

 お礼をしたいと言いながら、こうして仕事間際のセアの時間を取っているのだから、邪魔以外何物でもない。

 けれど、バネスがいなくなった今、レーはセアと一緒にいる理由がない。

 もともと、レーにとって都合のいい事ばかりだった。

 信奉者じみた言動は、変えられないかもとすでに諦めが入っている。

 でも、セアは「あの一件」は忘れて、ちゃんと眠れるようになっているみたいだし、「ではこれで、はいさようなら」と別れたっていいような気さえする。

 追い払うだけでなく、罰まで下してもらったのだから、レーはちょっともらいすぎな気もしているから、お礼なんて言いたくなったのかもしれない。

 どこまでも、自分勝手だとは思うけれど。

 じゃあ、とレーは立ち上がった。いくら出発が遅くなったとはいえ、いつまでも聖騎士セアを引き留めているわけにはいかない。

「なんでもいいので、考えておいてください」

「……なんでも、ですか?」

「私が出来る範囲で、ですけど。あの、お戻りになってからでいいですから」

 それじゃまた、と終わるつもりだった。聖騎士セアに、腕を掴まれなければ。

「なに、か?」

腕にあった手が下がって、レーの右手を取った。引かれて、また座りなおす。利き手の甲を、指先が撫でた。白い手袋の内側は、レーのよく知る騎士の手だ。この人も鍛錬を重ねているのだと、仕事をこなすうちに知った。二度三度と親指が甲の上をゆっくりとなでるのは、少しこそばゆい。

ふう、と大仰なため息が聞こえた。不思議そうに首をかしげるレーと、薄く苦笑いを浮かべたセアが見合った。

「貴女は、尊い御方です、聖女レー」

「えと……」

「触れても?」

 疑問符を浮かべて、レーはセアを見返す。今、すごく変なことを聞かれた気がした。聞き間違い……をするには、距離が近すぎる。この前の馬に同乗したときと、ほとんど変わらないくらいなのだから。

「っは、い…?」

「いけませんか?」

「え、え? えと……」

「聖女レー?」

 触れるってなんだもう手が握られてるし、とかぐるぐる纏まらないうちに、畳みかけられて――レーはぎこちなく頷いた。

 すい、とセアの目が細くなった、気がした。なんとなく怖くて、上目遣いに前髪の間から聖騎士を覗き見る。手の甲をもう一度、指がなぞったのに気を取られた、時。

 セアの口元には、レーの指先があって……温かい感触が、指の先をかすめた。

「――っ」

 レーの顔が、さっと赤に染まった。息をのんだおかげで、叫び声は出なかった。

 もう一度。今度は爪に近い位置。

 もう一度。白い手の甲へ。

 もう一度。小指の先にだけ。

 いや待って、と止めたいのに、のどが動いてくれなかった。羞恥なのか緊張なのか、ただ慣れないせいなのか。

 レーだって知っている。聖女への忠誠の証に、聖騎士がするキスだ。

 儀式で見たことがある。春の披露目の時にだって聖女――相手が誰だったか忘れた――に、彼は同じことをしていたのだから。

 でも、セアが――聖騎士が跪いて聖約を交わす相手は、自分じゃなかった。

 絶対に、あり得なかった。

 それに。

 指の関節が……違う感触をとらえた。唇よりも、もっと温かい。

 伏せた濃紺の瞳が、レーをとらえて離さない。胸が痛くて、息が苦しい。顔も、誤魔化しようのないほど熱くて赤い。耳の奥は鼓動の音でいっぱいだった。

 ありえないほど、近い距離にいるせいなのか、いつもの人形じみた無表情が、まったく別人のようだった。

 毅然と立つ聖女と、傅く聖騎士がいた、儀式とは違う。

 セアはレーよりも座高が高くて……ずっとレーを見下ろしている。

 指先にキスをしながら、顔を合わせるなんてありえない。

 手を引けばいい、とわかっている。

 セアは敏く察して、直ぐに解放するだろうとも。

 でも。なのに。

 動けない。

 夜空と同じ色が、レーの目の前にいっぱいに広がっているような感覚だった。

 ふ、と微かに息がかかって、セアの口元からレーの手が離れた。指はまだ、レーをとらえたまま、ずっと甲をなぞっている。

 は、と呼気が漏れた。ようやく、レーの中にあった息が外に出ていった。苦しかった胸が、ほんの少し楽になったけれど。

 鼓動は、収まりようもなくて。

 顔が赤いのはレーだけで、混乱しているのもレーだけだ。

「あ、な…え……?」

 息を吸えても、ちっともまともな言葉にならない。セアが、口の端を少し上げてほほ笑んだ。

「触れてよい、とお許しをいただきましたので」

 平然とした、いつもと変わりない口調は……目の前の表情が違うだけでまったく別の言葉に聞こえた。

「私があなたのものだという、証です」

「――聖騎士セアは、聖騎士セアのものでいてくださいっ」

 呆然としたまま、危うく流されそうになって、慌ててレーは息を吸い込んでから叫んだ。せっかく楽になったはずなのに、めったに見れないセアの微笑に、また心臓がうるさくなった。

「では、御心のままに」

 やっぱり、意識改革は諦めないほうがいい、と恭しく再度指先へ口づけを落とした騎士を見ながら、レーは天を仰いだ。

 わかってない。ちっとも、欠片もわかってない。

 これじゃ身が持たないよ、誰とも知れずにそっとこぼした。






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