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サツキ

作者: 戸塚 海

 このトマトは母からのもらいもの。このホウレン草は昨日スーパーで。

 朝の空気は、8畳一間にキッチンがあるだけのワンルームを、清潔な香りで満たしてくれる。

 かんなは、キッチンのカウンターにころころと転がっている野菜たちのなかから、朝食のためのものを選んでとんとんと切っていく。

 ああ、こっちの玉ねぎは畑のおばあちゃんがくれたんだ。もう何度もいただいているのに、名前も聞いてないっけ。

 そんなことをぼんやりと思いながら、薄く切った野菜を食パンに広げ、ハムとチーズをのせていく。

 トースターに入れたところで、時計に目をやった。朝は何かと時間が気になる。出かける時間が近づいているのを確認して、支度をする手を早めた。

 マンションの駐車場に出ると、すぐにかんなの車が見える。近づいて、思わず「もう」と声を出した。

 またいる。

 かんなの車の真下に、もしゃもしゃの茶色の毛をたくわえた猫が、丸まってすやすや寝ている。いつもはたいてい、かんなが近づいていくと、気配を感じるのか、むくっと起き上がってどこかへ行くのだけれど、この日は違った。近づいても、まだくうくうと眠っている。どうしてか、よりによってこの場所が好きらしい。

 かんなはわざと大きな足音を立ててみる。反応なし。車のドアを乱暴に開け閉めしてみる。まったく気づかない。

 参ったな。

 かんなはため息をつく。ふと、ある考えがかすめて、青ざめる。

 眠っているとばかり思っていたけれど、まさか。

 かんなはタイヤの隙間から顔をのぞかせて、じっと目をこらして見てみる。茶色の毛玉が静かに上下しているのを確認して、ほっとする。

 よかった、眠っているだけだ。いやいや、よくはないだろう。時間がない。

 かんなは、これだけよく眠っているなら、と車に乗り込んだ。ゆっくり、まっすぐ車を発進させれば、大丈夫なはず。かんなは慎重に車を動かす。すると、何かを踏んづけたような大きな音が響いた。かんなは思考が止まって頭が真っ白になる。

 どうしよう。まさか、本当に。

 ふるえる手をおさえて、車を下りる。おそるおそる車の周辺を見ていくと、つぶれた空き缶が転がっていた。

 え、とかんなが呆然としていると、視界の端で、悠々と歩いている茶色のかたまりがある。かんなはやっと状況が見えて、「もう」と再びつぶやく。あの猫、確信犯じゃないだろうか。しかし、眠りから覚めて、駐車場をひょうひょうと周遊しているその姿を見ていると、なんだか憎めない。

「さつき」

 遠くから声が聞こえた。

 かんなが振り返ると、あの畑のおばあちゃんがこちらに向かってやってくる。おばあちゃんがもう一度、さつき、と呼ぶ。誰かを、探しているようだった。

 かんなはおはようございます、とあいさつをする。

「あれ、おはようございます」

 おばあちゃんがにこにこと笑う。かんなは野菜のお礼を言ってから、さつきさんって、と聞いてみる。

 すると、かんなの足もとを茶色のものが横切って、おばあちゃんのところへ駆けていく。おばあちゃんは、ああ、いたいたと穏やかに言う。

「さつきはこの子なんだけどね。名前が人間みたいで不思議がられるけどねぇ。睦月さむさむ、如月ゆくゆく、と歌っていたら、皐月のところで振り向いたもんだから、それからさつきになってね」

 そういえば、よく見ると、首のところに紐のようなものが巻かれている。飼い猫だったのか。さわやかな名前なのに毛むくじゃらのさつきを見ているうちに、ずっと心にあった言葉が浮かんだ。

 名前。そうだ。

 かんなは、長いあいだ聞こうとして、聞けないでいたことを聞くときだということに気づく。唐突に、

「あの、お名前は」

 と、口にした。「ずっと聞いていなかったから」と付け加えた。おばあちゃんは、そうだね、そうだったと自然に受けとめる。

「いやだね、この年になると自分の名前を言うのが恥ずかしくなっていけない。わたしはふみ。あなたは」

「わたしはかんなです」

「あれあれ、平仮名でかんなさんかね」

 かんながうなずくと、おばあちゃんはもう一度、あれあれ、と笑う。

「じゃあ、わたしらみんな月の名前だね」

 あ、とかんなも気づく。本当だ。

 何気なく視線を移すと、駐車場のすぐ横にあるおばあちゃんの畑が見える。かんなの車の位置からちょうどよく見える。

 整然と列になって静かに並ぶ若い芽たち。雑草すらどこか規律があって生えているような気さえする。

 ああ、朝のあの澄んだ空気はここから流れていたのかと、今さらのように思う。この会話のあいだにまたふらふらとどこかに姿を消していたさつきが、気づくと戻ってきていて、ミャーと鳴いた。

 さつきのおかげでおばあちゃんと名乗りあえたのだから、感謝しなければいけない。この憎めない猫のさつきに。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ほのぼのとした日常ドラマで、とても良いと思います。
2015/01/31 11:26 退会済み
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