パリの空、ちゃんこの湯気
第一話 エッフェル塔を望むテラスで
六月のパリは、夜の九時を過ぎてもなお、昼の名残のような淡い青空が空の端に張り付いている。
セーヌ川の川面を渡る風は冷涼で、エッフェル塔が鉄の骨組みを夜の闇へと溶かし込みながら、黄金色のイルミネーションを輝かせ始めていた。
その塔を真正面に望む、海鴎山たちの宿泊先ホテル。その最上階にある高級フレンチレストラン『ル・シエル・エトワレ』のテラス席に、場違いなほど巨大な男が座っていた。
現役の大相撲力士、海鴎山。身長百九十一センチ、体重百七十八キロ。仕立ての良い特注の着物を着こなしているものの、その太い首と丸太のような腕は、洗練されたパリの街並みの中で圧倒的な異彩を放っている。
「素晴らしい眺めですね、海鴎山関」
対面に座る人物が、ボルドーワインのグラスを傾けながら微笑んだ。
連城冴。パリを拠点に活動する私立探偵である。
仕立ての良いスリーピーススーツをまとった細身の女性で、細縁の眼鏡の奥には鋭い知性が光っていた。
「ああ、綺麗だな。だけどよ、連城さん。俺は観光に来たわけじゃないんだ」
海鴎山は、繊細なクリスタルグラスを大きな手で壊さないよう慎重に持ち上げ、ミネラルウォーターを喉に流し込んだ。
「分かっています。親方からのご依頼ですね。『日仏文化交流相撲興行』の開催を目前に控え、貴方の体調管理、ひいては相撲部屋伝統の『ちゃんこ』のレシピが外部に漏洩、いや、何者かに『改ざん』されようとしている……と」
「そうなんだよ」
海鴎山は深くため息をついた。その巨体が揺れるたび、テラスの床がわずかに軋む。
「俺たちの部屋のちゃんこは、ただの料理じゃない。先代から受け継いだ秘伝の”出汁”がある。それを今度のパリ公演のレセプションで、フランスの政財界のVIPに振る舞うことになってるんだ。だけど、ここ数日、厨房の様子がおかしい。昨日なんて、仕込み中の一升瓶の中身が、本みりんじゃなくて白ワインにすり替えられてたんだ」
「白ワイン、ですか」
連城は興味深そうに眉を上げた。
「単なる嫌がらせにしては、少々手の込んだ、そしてフランスらしい悪戯ですね」
その時、タイミングを見計らったように、ギャルソンが前菜の皿を運んできた。
運ばれてきたのは、フォアグラのテリーヌに、トリュフを添えたコンソメのジュレ。
「こちらは、副料理長のジャン=ルカが仕立てた一皿でございます」
ギャルソンの後ろから、白いコックコートを着た若い男が姿を現した。細身で、頬はややこけている。まだ三十歳前後に見えたが、客の反応を見つめる目には、若さに似合わない強い自負があった。
「日本からいらしたお客様に、ぜひ味わっていただきたくて」
ジャン=ルカは丁寧に一礼した。だが、その視線は連城ではなく、海鴎山の前に置かれた皿へ向いていた。
「鶏の旨味を、可能な限り澄んだ形に仕上げています。煮込むだけのスープとは、少し違いますが」
「煮込むだけ、ねえ」
海鴎山が小さく眉を動かした。
「ジャン=ルカ」
厨房の奥から、年配の男の低い声が飛んだ。
「失礼しました。どうぞ、ごゆっくり」
そう言い残して立ち去った。
海鴎山はナイフとフォークを器用に使い、一口でそれを平らげた。その瞬間、彼の目が驚きに見開かれる。
「……おい、連城さん。これ、おかしいぞ」
「お味に不満でも?」
「違う。このコンソメのジュレ……焦がした根菜の甘みが、俺たちの部屋のちゃんこにそっくりだ。鶏ガラの引き方は少し違うが、土台の考え方は同じだ」
連城もジュレをひと口取り、ゆっくりと舌の上で溶かした。
「確かに。焦がした根菜の甘みと、鶏の旨味の重ね方はよく似ています。ただし、出汁の澄ませ方や深みは別物です。ちゃんこの技法を、見よう見まねでフランス料理へ移したように感じられます」
連城の目が、眼鏡の奥で一瞬にして鋭くなった。
「なるほど。どうやら敵は、思ったよりも近くにいるようですね」
第二話 失われた「ソップ炊き」の秘密
翌朝、連城は海鴎山が滞在しているパリ市内のホテルへと向かった。
今回の相撲興行のため、ホテルの厨房の一角が、特例として力士たちのちゃんこ場(調理場)として開放されている。
ちゃんこ場に足を踏み入れると、巨大な寸胴鍋から鶏ガラの濃厚な香りが立ち上っていた。大相撲では、四つ足は手をつく姿を連想させるため、二本足で立つ鶏が縁起物として好まれる。今回のレセプションで披露されるのは、鶏ガラを炊いた部屋伝統のソップ炊きだった。
「連城さん、これを見てくれ」
ちゃんこ番の若手力士を下がらせた海鴎山が、一つの小さなノートを差し出してきた。表紙には「ちゃんこ秘伝帳」と書かれている。
「これが先代から伝わるレシピノートだ。分量や火加減、独自の隠し味が書いてある。だが、このページを見てほしい」
連城がノートを開くと、ソップ炊きの仕上げについて書かれたページが、無残にも破り取られていた。
「醤油とみりんの割合だけじゃない。鶏ガラの臭みを消して、根菜の火入れと、旨味を澄ませるための手順も書いてあった。うちの部屋でも、ちゃんこ番以外には詳しく教えてねえ」
「つまり、外へ漏れてはならない秘伝の核心ということですね」
連城はピンセットで、ゴミ箱から回収されたという小さな紙片を掲げた。そこにはフランス語でこう書かれていた。
《La véritable beauté ne réside pas dans les bouillons troubles de l’Orient. Seul le raffinement de la cuisine de cour peut conduire à la perfection du goût.》
『真実の美は、東洋の泥にまみれたスープにはない。宮廷の洗練こそが、至高の味を完成させる』
「ずいぶんとプライドの高い犯行声明ですね」
連城はそう呟いて、ゴミ箱から見つかった紙片をもう一度、光に透かした。
「妙ですね」
「何がだ?」
「この紙、秘伝帳のものではありません」
海鴎山が眉をひそめた。
「破られたページとは紙の厚さが違う。こちらは厨房で料理名を書き留めるオーダー用紙です。それに、端に赤い罫線がある」
連城は、隣接するフランス料理の厨房を見た。
「この紙を使っている持ち場を調べれば、書いた人物はかなり絞れます。海鴎山関、このホテルの総料理長は、どんな人物ですか?」
「オーギュスト・ルノーという男だ。フランス料理界の重鎮で、エッフェル塔の三ツ星レストランで腕を振るっていたこともある天才らしい。ただ、俺たちが厨房を使うのを、最初から苦々しく思っていたみたいだ。伝統ある自分の厨房に、褌一丁の男たちが上がり込んで、大鍋でスープを煮出すのが気に入らない、とかなんとか」
「なるほど。動機としてはじゅうぶんですが、いささか短絡的すぎる気もします。オーギュスト氏ほどの料理人が、他人のレシピを盗む、あるいは破り捨てるような真似をするでしょうか」
連城はちゃんこ場を見渡した。床に落ちたわずかな水滴、調味料の配置、そして寸胴鍋の蓋の裏。
「海鴎山関、少し実験をさせてください。この寸胴から、スープを一杯」
海鴎山が器にスープをよそう。連城はそれを口に含み、目を閉じた。
「素晴らしい。鶏の旨味が凝縮されていながら、後味が驚くほど澄んでいる。ですが……少し塩気が強い。それに、白ワインの酸味と、かすかなタイムの香りがあります。これは、最初からですか?」
「いや」
海鴎山は顔をしかめた。
「さっき味見した時は、もっとまろやかだった。おかしいな、ちゃんこ番にはまだ味付けをさせる前だぞ」
「ええ。ですが、昨夜のコンソメのジュレには使われていました」
海鴎山が顔を上げた。
「そういや、あの皿を作ったのは……」
「副料理長のジャン=ルカ氏です」
連城は寸胴鍋の表面を見つめた。
「昨日のジュレには、ちゃんこの出汁と同じ焦がした根菜の甘みがあった。そして今日は、ちゃんこの鍋に、あのジュレと同じ白ワインとハーブが加えられている。二つの料理の味を、同じ人物が近づけようとしているように思えます」
連城はわずかに目を細めた。
「やはり、犯人は今も、このちゃんこを『破壊』しようとしています。ただ台無しにするのではなく、彼らの言う『洗練』へ近づけるために」
連城は器を置くと、寸胴鍋の周囲をゆっくり見回した。
調味料棚の塩の瓶が、わずかに斜めを向いている。隣には、厨房では見慣れない細身の容器が置かれていた。蓋を開けると、乾燥させたハーブの青い香りが立った。
「これは、ちゃんこ場で使うものですか」
「いや」
海鴎山が首を振った。
「少なくとも、うちの部屋じゃ使わねえ」
連城は指先で容器の底を確かめた。
「底がまだ湿っています。つい先ほどまで、冷蔵庫か冷えた調理台の上に置かれていた。つまり、誰かが別の厨房から持ち込んだものです」
「フレンチの厨房から?」
「おそらく。そして犯人は、ただ塩を増やしたのではない。ハーブまで加えている。ちゃんこを壊すのではなく、自分の知る料理へ作り替えようとしているのでしょう」
第三話 エッフェル塔の下の対決
その日の午後、連城が最初に確認したのは、前夜の料理の仕込み表だった。
フォアグラのテリーヌに添えられていたコンソメのジュレ。その担当者の欄には、ジャン=ルカの署名がある。
犯行声明に使われた赤い罫線入りのオーダー用紙も、ジャン=ルカが取り仕切る前菜部門で使われているものだった。
「ですが、それだけでは、ジャン=ルカ本人が書いた証明にはなりません」
連城は紙を仕込み台へ戻した。
次に、ちゃんこ場へ通じる業務用通路の記録を調べた。秘伝帳のページが破られたと考えられる時間帯に、そこを通った料理人は二人。総料理長オーギュストと、ジャン=ルカだった。
だがオーギュストは、その時刻には宴会場で興行関係者との打ち合わせに出席していた。複数の証言もある。さらに今朝、鍋の味が変わったと考えられる時間帯にちゃんこ場へ入った料理人は、ジャン=ルカだけだった。
続いて連城は、フランス料理側の調味料庫を調べた。ちゃんこの鍋から感じられた白ワイン、岩塩、タイム。その三つが同時に使われていた料理も、前夜のジュレだけだった。
ちゃんこの技法をジュレへ移し、ジュレの味をちゃんこへ移す。
偶然ではない。
「ジャン=ルカさんは、二つの料理を同じ味にしようとしている」
連城は穏やかに結論づけた。
連城は海鴎山を伴い、夕暮れ時のエッフェル塔の真下へと向かった。
鉄骨が編み目のように広がるエッフェル塔の下は、観光客でごった返している。その一角にあるセーヌ川沿いの遊歩道に、一人の青年が佇んでいた。コックコートを着たままのジャン=ルカである。
「美しい塔ですね、ジャン=ルカさん」
連城が背後から声をかけた。青年はびくりと肩を揺らし、振り返った。その目の前には、夕日を背に、巨大な岩のようにそびえ立つ海鴎山がいる。青年は恐怖で息を呑んだ。
「な、何の用ですか。私はこれから、レセプションの準備が……」
「そのレセプションで、あなたが演じようとしている悪戯について、少しお話しを」
連城は穏やかに微笑みながら、歩み寄った。
「あなたは、海鴎山関たちの秘伝帳から、ちゃんこのレシピが書かれたページを破り取った。そして、みりんを白ワインにすり替え、スープに白ワイン、岩塩、ハーブを加え、日本の伝統の味を『フランス風のコンソメ』へ強制的に書き換えようとした。違いますか?」
ジャン=ルカは青ざめたが、すぐに鼻で笑った。
「証拠でもあるのか? 私はただ、師匠であるオーギュストの厨房を守りたかっただけだ。あんな野蛮な男たちが作る濁ったスープをVIPに飲ませたら、ホテルの名誉は丸潰れだ!」
「野蛮、か」
海鴎山が重々しい声で一歩踏み出した。地響きがするような威圧感に、ジャン=ルカは思わず後ずさりする。
連城は冷静な声で続けた。
「証拠はあります。あなたが昨夜作った、コンソメのジュレです」
ジャン=ルカの表情が止まった。
「あのジュレには、海鴎山関の部屋で使われているものと同じ、焦がした根菜の甘みがありました。偶然似た味になっただけなら、それだけでは証拠になりません」
連城は一歩、ジャン=ルカに近づいた。
「ですが今朝、ちゃんこの鍋には、あなたのジュレと同じ白ワイン、岩塩、タイムが加えられていた。ジュレにはちゃんこの技法が移され、ちゃんこにはあなたのフランス料理の味が移されていたのです」
「それが、私だという証明にはならない」
ジャン=ルカが、絞り出すように反論した。
「前夜のジュレを担当したのは、あなたです。そして秘伝帳が破られた時間帯に、ちゃんこ場へ通じる通路を通った料理人も、オーギュスト総料理長とあなただけだった。総料理長には宴会場にいた証人がいる」
ジャン=ルカは何も答えなかった。
「あなたはまず、みりんを白ワインへすり替えた。そして昨夜、盗み見た技法でジュレを作り、ちゃんこの味を自分の料理へ近づけようとした」
ジャン=ルカの唇がわずかに動いた。
「けれど、ジュレにちゃんこの技法を取り入れたことを、海鴎山関に一口で見抜かれた。あなたは、見よう見まねでは本物の技法を再現できないと悟った。だから昨夜、正確な手順を知るために秘伝帳のページを盗んだ。そして今朝、その手順を知ったうえで、ちゃんこの鍋に白ワイン、岩塩、タイムを加えた。二つの料理が同じ味になれば、フランス料理の方が洗練されていると証明できると考えたのでしょう」
「くっ……」
「さらに言えば、あなたが”野蛮”と評したあのソップ炊きのちゃんこ。あれこそが、近代フランス料理の祖であるオーギュスト・エスコフィエによって体系化された『コンソメ・ド・ヴォライユ(鶏のコンソメ)』と、非常によく似た工程をたどる料理だと言ったら、どうしますか?」
ジャン=ルカは目を見開いた。
「な、何を馬鹿なことを!」
「うちのちゃんこは、何時間も鶏ガラを煮込んで、アクも脂も何度だって取る。濁ったまま出してるわけじゃねえ」
海鴎山が言った。
連城がその言葉を引き取る。
「何度も濾して生まれる、澄んだ黄金色のスープ。それは、あなたがたの誇るコンソメと根底では同じです。形式は違っても、旨味を極限まで引き出そうとする情熱に優劣はありません。オーギュスト総料理長は、だからこそ彼らに厨房を貸したのでしょう。本物の料理人として、その技術に敬意を表したからです」
ジャン=ルカは、エッフェル塔の巨大な鉄骨を見上げた。その近代建築の結晶のような塔の足元で、自分がいかに狭い世界でプライドにこだわっていたかを突きつけられ、がっくりと膝をついた。
「私は……ただ、師匠に認められたかった。師匠が最近、日本の出汁(DASHI)ばかりを絶賛するから、フランス料理が負けたような気がして……」
海鴎山は、膝をついた青年の前に歩み寄り、その大きな手を彼の肩に置いた。
「負けや勝ちじゃねえんだよ、料理は。お前がフランス料理を愛してるのはよく分かった。だったら、俺たちのちゃんこも、ちゃんと味わってみてくれ。土俵の上じゃねえんだ、お互いの良いところを認め合おうや」
その言葉には、横綱を目指す力士ならではの、大きな器と優しさがあった。
最終話 黄金のスープ、響き合う二つの伝統
二日後。ホテルの大宴会場で、日仏文化交流相撲興行のレセプションパーティーが華やかに開催された。
会場にはドレスやタキシードに身を包んだパリのVIPたちが集まり、エッフェル塔の夜景を背景に歓談している。
会場の中央には、特設のちゃんこブースが設けられていた。
大きな寸胴鍋の前に立つのは、海鴎山。そして、その隣にはコック帽を被った総料理長オーギュストと、驚くべきことに、ジャン=ルカの姿があった。彼はレセプション担当から外されるはずだったが、オーギュストと海鴎山の判断で、監督付きの下働きとして参加を許されていた。
「さあ、連城さん。特製の『日仏親善ちゃんこ』だ。食べてくれ」
海鴎山が笑顔で差し出してきた器には、伝統のソップ炊きスープが注がれていた。
しかし、具材には日本の白菜や鶏団子だけでなく、フランス産のカブや、鴨のコンフィが美しく添えられている。仕上げには、ジャン=ルカが刻んだ繊細なシブレットが散らされていた。
連城はスープを口に運んだ。
鶏ガラの深みのある出汁と、フランス料理の洗練されたハーブの香りが、口の中で見事な三役揃い踏みを果たしている。
「素晴らしい」
連城は感嘆の声を上げた。
「これはまさに、パリの空の下でしか生まれ得なかった、最高のちゃんこですね」
オーギュスト総料理長が満足そうに頷き、ジャン=ルカもまた、誇らしげに微笑んでいた。
「ごっつぁんです、連城さん」
海鴎山は嬉しそうに笑い、エッフェル塔に向かってグラスを掲げた。
パリの夜空に、黄金色に輝く塔が、まるで巨大な軍配のようにそびえ立っている。
東洋の伝統と西洋の洗練が、一つの鍋の中で完全に融和した夜、セーヌ川の風はどこまでも心地よく吹き抜けていった。
(完)




