消失
視界が真っ赤に染まった。
鋭く振り下ろされた剣と共に宙を舞った血液がぴちゃ、と俺の顔に着陸したのだ。
どろり、としたその液体に吐き気がして、その赤い視界で見る光景に絶句した。
「ぜ、ろ…………!」
「ゼロ!」
ちびっ子の悲鳴が、どこか遠くに聞こえた。
俺を庇って鼻男の剣を受けたゼロが、地に濡れた床に力なく横たわっていた。
崩れ落ちるようにしてしゃがみこむと、つんとした鉄臭い匂いが鼻を突いた。震える手で傷を確かめる。
切り裂かれたのは右胸から腹にかけての部分。身体を横断するような大きな傷から、どくどくと血が溢れていた。
失血で死に至るのはおよそ半分の血液を失った時だ。こんな小さな身体で、これほどの血を失うのは、明らかに危険な状態だった。
ゼロが死ぬ。ゼロが――――死ぬ?
――――嫌だ。
「死なせるかっ……!」
ほとんど反射的に、傷に両手をかざしていた。
アーリアさんにやられたおっさんの時は、“毒”に対して“薬”を選んだ。
ゼロが負ったのは“傷”、ならば――――。
「“癒”、“治”、“治癒”!!」
ありったけの魔力を傷に注ぎこむように意識を集中させた。両手が薄い青色に発光し、光が傷に流れ込んでいく。
みるみるうちに端のほうから閉じるようにして傷はふさがっていき、その面影すら残すことなく姿を消した。
だというのに、ゼロは意識を取り戻さないままだ。
(なんで、傷はふさいだ――――)
焦りで頭がうまく回らない。もしかして毒があったのか、それとも血が足りないのか。
足りない。知識も冷静さも経験も何もかも。いったいどうすればいい。どうしようもない、のに。
「へえ、それが噂の古代語ってヤツ? 初めて見たなあ」
倒れているゼロなど目に入らないように、しげしげと俺を見て笑顔すら浮かべる鼻男。ゼロの横には、ちびっ子が俺と同じようにひざまずき、顔を蒼白にしてゼロの名を呼んでいる。周りには、沈黙を守ったままの茶髪男と、仏頂面のテオドロさん、その横に立つガイストさん、エルベール、そしてゴミのように床に転がる二つの死体。
今、この場で、ゼロが死のうと、死のうとして、こいつ、こいつが殺そうと、こいつが殺した。
こいつが殺した。
くらり、と眩暈のような感覚が俺を襲った。
赤黒い感情に押し流されるようにして、白刀の柄に手をかけた。瞬時に刀を抜き、鼻男めがけて突きを放った。
「“雷”!」
紡がれた古代語と俺の魔力に反応して、真っ白な刀身が透き通るような金の輝きに覆われる。バチバチと音を立てて迫った殺意に、鼻男は――――嘲るように笑った。
「なにそれ。子供の遊び?」
渾身の一撃は、笑みさえ浮かべて見せた鼻男の剣の一振りで弾かれた。
血に染まったままの剣を握った、だらりと下げられた腕を軽く跳ね上げる。鼻男がしたのは、たったそれだけの動作だった。
しかし、その衝撃は白刀をつたい、俺の腕が痛いほどだった。ジィンと、筋肉まで震えるような感覚を振り払うように、強く手を握り締めた。
心配そうな顔をしてこちらを見つめるちびっ子が視界の隅に入る。
俺は鼻男を睨みつけた。しかし、鼻男はそんなもの気にも留めずにこちらを見ていた。
「ああ、ごめんねえ。ちょっとイラついちゃったもんだからさ、悪いね。その子、死んじゃったか」
「……死んでねえよ」
「ぴくりとも動かないのに?」
微塵も悪いと思っていないような表情で、鼻男は見下すように俺を見た。
「古代語を使えば助かると思った? 甘いよね、その感覚。反吐が出そう」
鼻男はおどけたように肩をすくめた。
「死ぬもんは死ぬんだよ。そこには運命もなにもない。分かるでしょ? 誰だってそうなんだから、さ」
俺はふと、鼻男の様子に違和感を覚えた。さっきまで俺を見下してひょうひょうとしていたのに、今だけは吐き捨てるようにして言葉を口にした。
なぜなのかなんてさっぱり分からない。でも、俺は口を開いた。
「でも、お前はそれに納得していないんだろ?」
――――初めて、鼻男が驚いたような顔をした。目を見開き、こちらを凝視している。
「、何言ってんの? お前が一体俺の何を知って、」
「少なくとも、俺は納得してない」
動揺しながらも冷静を装って鼻男がいった言葉を思いっきりさえぎって、叩きつけるように言葉を発する。
「だから、ゼロは助ける。俺の仲間は殺させない。俺も、死なない。誰も殺さない!」
「っなに絵空事を言ってんのさ! そんなことが出来るわけ、」
「出来る! いや、俺はやる!」
「お待ち下さい、規則を破るということは――――」
「そんな規則糞くらえ!!」
突然前に進み出てきたエルベールに高ぶった感情のままに叫んだ。
いまだぐったりとしたままの軽いゼロの身体を右手で抱えあげる。立ち上がって、ちびっ子を真っ直ぐに見つめた。
「ちびっ子――――いや、キール。俺たちは行く。お前は、どうする」
俺はこの場から居なくなる。逃げたといわれようがどうでも良い。俺は俺のしたいように、やる。
俺には何のしがらみもないからだ。この世界に、家族も地位も権力も無い。友人だって数えるほどだ。だが、キールは違うのだ。
王族。神の瞳。王位継承権。父である国王と、母もこの国に居るのだろう。この国から出たことが無いであろうキールにとって、この国は鳥籠であると同時に身を守る盾でもある。
俺には、キールに家族も何もかも捨てて一緒に来いなんていえない。
当ても無い。どうなるのかもさっぱり分からない。コレが最悪の道かもしれない。
俺は選ぶ。でも、キールに強制することは出来ない。俺だけでなく、誰にも。
決めるのは、いつだってキール自身だけだ。
キールへ、左手を差し出した。
「お前が――――決めろ!」
キールは、何かに耐えるように目を強く閉じて歯を食いしばった。
幼いこの少年にのしかかる、重責。
それは俺には想像すらつかないものだけど、それでも、キールはそれに耐えうる強さを持っているのだ。
キールは目を開いて、俺を真っ直ぐに見た。
そして――――手を伸ばした。
「――――連れて行け!!」
止めようとする鼻男も、何かを叫ぶエルベールも、全てを振り払うように。
俺は、キールの手をつかんで、その言葉を放った。
「“転移”!!」
――――次の瞬間、俺たち三人の姿はエルベール宮から消えていた。