第八話 興味はないかね?
週明けの放課後。
海斗は校門を出て、いつもの帰り道を歩いていた。
西日がアスファルトを焼き、湿った熱気が肌にまとわりつく。遠くでセミが鳴き続け、息を吸うたびに熱い空気が胸に入ってきた。制服の襟元は汗で張りついて重く、海斗は指先で布をつまんで、首から少しだけ離した。
学校では、相変わらず月子の噂が出回っていた。
そのせいで、帰り道の今も、海斗の胸の奥はざらついたままだ。歩いているだけなのに、学校にいる間に聞いてしまった声が、汗ばむ肌の裏側で何度もよみがえる。
昼休み、海斗はただ用を足しにトイレへ行った。鍵を外し、扉を押して出ようとした瞬間――入口のドアが開いた。数人分の足音がタイルを乾いた音で鳴らし、手洗い場のほうへ向かってくる。
「相沢月子、パパ活もしてるらしいな」
「お酒飲んでるの見たって言ってたぞ」
「そんなに金欲しいなら、俺らにエロい写真くれれば金くらいあげるのにな」
下劣な話題と短い笑いが、タイルに小さく反響する。個室の中からそいつらの顔も見えないのに、声だけが無遠慮に入ってくる。
はじめは「歌舞伎町で見た」――それだけの話だった。けれど、たった数日で、話は勝手に下品な形へ膨らんでいった。誰かが笑いながら口にすれば、別の誰かが面白がって足していく。噂はそうやって、口から口へ、軽い調子で増えていく。
――違う。
――義姉さんは、そんなことをしていない。
――そんなことよりももっと……。
大通りを抜け、住宅街の細い道へ入る。ブロック塀と植え込みが続き、エアコンの室外機の唸りが遠くで鳴っている。
人通りが消えると、足音がやけに響いた。自分の靴が乾いたアスファルトを叩くたび、音が背後へ跳ね返り、誰かの足音が重なったように錯覚する。海斗は無意識に歩幅を狭めた。
そのときだった。
前方で、白い車がゆっくりと路肩へ寄り、すっと減速して止まった。熱で揺れる空気の中、タイヤが路面を擦る低い音がして、ブレーキランプの赤が一瞬だけ濃く灯る。
次に、ハザードが規則正しく点滅し始めた。橙の光がブロック塀の角をちかちかと照らしては消える。外にいる海斗に聞こえるのは、低く続くエンジンのアイドリングくらいだった。
海斗は反射的に立ち止まり、視線を車に固定した。
――なんだろう?
後部座席の窓が、ほんの数センチぶんだけ下がった。黒いガラスの奥に人影がゆっくり浮かび、こちらを確かめるように目が覗く。輪郭は影に溶けているのに、視線だけは真っ直ぐで、海斗と目が合った。
少しして、後部座席のドアが内側から押し開けられた。
降りてきたのは、一人の女性だった。
年齢は二十代後半か、三十代に見える。派手な化粧はしていないのに、目元だけが妙に印象に残る。白いシャツの上に薄いコートを羽織り、足元は歩きやすそうな靴。そして、丸い眼鏡。
「やあやあ、君が相澤海斗くんだね」
声は、驚くほど軽かった。
女性は海斗の顔を一度だけ見て、確かめるようにフルネームを口にした。まるで、担任の先生が初めて生徒の名前を呼ぶときのようだ。
海斗が一歩下がると、女性は両手を軽く上げてみせた。敵意はない、と言いたいらしい。
「怖がらないでくれたまえ」
「……誰ですか」
女性は場を和らげるように笑ったが、海斗は眉を少しだけ寄せた。怖がらないでと言われても、知らない人が自分の名前を知っていたらそれも無理な話だ。
「まあ、無理はないか。そんなに身構えなくていいよ」
女性は、肩を軽くすくめるように笑う。眼鏡の奥の目は探るというより、面白がるように海斗を見ていた。
そして、彼女は言う。
「君のお姉さんが何の仕事をしているか、興味はないかね?」
その一言で、海斗の体温が一段下がった。




