第七話 フラれちゃったかー
とあるビルの一角にある、窓のない部屋。
壁際には大小さまざまなモニターが並び、青白い光が絶え間なく部屋を照らしていた。外の時間帯も天候も分からない密閉された空間で、机の上にはキーボードと、無造作に絡み合った配線の機器が積み上がっている。
デスクの上には、いくつもの空になったエナジードリンクの缶が無造作に並べられていた。中には飲みかけのまま放置されたものもあり、床にも何本も転がっている。
モニターの前の椅子に腰掛けているのは、一人の女性だ。白衣を無造作に羽織り、丸い眼鏡の奥からモニターを見ている。
茶色い髪は後ろで適当に束ねられ、ところどころ寝癖のように跳ねていた。表情は眠たげなのに、瞳は冴えている。モニターの端から端へと滑るように視線を走らせ、キーボードを叩く指先と一緒に休みなく動いていた。
モニターには、数字と映像、そして複数の波形が絶え間なく流れていた。数値が刻々と更新され、なにかしらの映像がウィンドウで再生されている。彼女はそれらを順に追いながら、必要な情報だけを拾い上げるようにキーを打ち続けていた。
その背後で、扉が静かに開く。白衣を着た別の女性が部屋に入り、腕に抱えた紙と、小さなUSBメモリを落とさないよう胸元に引き寄せている。
「久我さん、お疲れ様です。タイプ:黒狼の戦闘データ、来ましたよ」
「ありがとー」
久我と呼ばれた女性は、椅子を回して振り返った。その拍子に足元の空き缶を蹴ってしまい、缶は軽い音を立てながら床を転がっていく。
差し出されたUSBを受け取ると、久我はそれを指でくるりと回した。癖のような仕草で、表面を一度だけ確かめてから、次の動作へと意識を切り替える。
「この辺りの缶、回収しちゃいますね」
「ほんとに? いつも助かるよー」
女性は足元に転がる空き缶を拾い集めながら、ポケットから取り出したビニール袋に手際よく入れていく。屈んでは拾い、まとめて袋に放り込む。
「久我さんに部屋を綺麗にしてもらうのは、もう諦めました」
軽く肩をすくめてそう言いながら、視線だけは机の上へと向けられる。モニターの下に積み上がった空き缶と機材の山を、一度だけ確認するように見渡した。
久我はちょっとだけ気まずそうに笑い、頬を指で掻く。
「久我さん、いつから帰ってないんですか? 私、来るたびにいますけど」
「んー。いつだろ?」
久我は天井を一瞬だけ見上げ、それから小首を傾げる。
「たぶん、半月くらい?」
「本当ですか」
女性は思わず、といった様子で手を止めた。缶を拾おうとした手が空中で止まり、そのまま久我のほうを振り返る。
「さすがに、そろそろ休んだ方が良いんじゃないですか?」
半ば呆れ、半ば心配するような声だった。
「そうしたいんだけどね。第三世代はいつ完成するんだーって、上から言われちゃって」
久我はモニターの隅をちらっと見て、口元だけで苦笑した。視線を戻すまでの一瞬で、画面の内容を把握してしまう。
そこに表示されていたのは、スマートウォッチの設計図だった。部品ごとに色分けされた線が重なり、横には細かな注釈と数値が並んでいた。左上には、作業中のラベルのように「Version 3.0」と記されている。
「自分達じゃなにもできないくせに……。目途はついてるんですか?」
女性の声には、苛立ちと心配が同じくらいの重さで混じり合って滲んでいた。
「いや、全然」
対して、久我はあっけらかんと言い切る。
机の上に置きっぱなしになっていたエナジードリンクを掴み、残っていた中身を一息に飲み干した。喉を鳴らし、空になった缶を女性が広げているビニール袋の中へ放り込む。
「誰も試験に付き合ってくれなくてさ」
「この前、盛大に事故起こしてましたもんね」
「そうなんだよ」
「それで、みんな恐がっちゃってて」
「それは……まあ、仕方ないですね」
少し間を置いて、女性はそう答えた。袋の中の缶が触れ合い、かすかな金属音が鳴る。
第三世代の試験を行ったときの光景が、彼女の脳裏をよぎっていた。想定外の負荷、制御を失ったスーツ、そして被験者が担架で運ばれていく姿。全治二週間のけがで済んだのは、幸運と言っていい。
「最悪、うちがやるしかないかなって」
久我の声は冗談めいて軽い。だが、その言葉の示す真意を理解する女性は、声を強めて否定する。
「それはダメです。久我さんがいなくなったら、チームが崩壊します」
「んー」
久我はわざとらしく唸り、口元を緩めた。冗談の続きでも言うような、軽い調子だ。
「じゃあ、佐藤ちゃ――」
「絶対に嫌です」
言葉が終わる前に、被せるような即答だった。考える余地すら与えない拒絶だ。
「それじゃあ、失礼しますね。あまり力になれない身で言うのもなんですが……あまり無理はしないでください」
佐藤は深く一礼し、足早に部屋を出た。逃げるように閉められた扉の向こうで足音が遠ざかり、部屋には再び、機械の低い稼働音だけが残った。
「フラれちゃったかー」
さして残念そうでもなくそう呟いて、さっき受け取ったUSBを、久我は慣れた手つきでパソコンに差し込む。
少し操作すると画面が切り替わり、映像が再生された。
暗い路地。逃げる男たち。追う黒い影。ヘルメットの視点で撮られた映像は、揺れが少なく、まるで映画みたいに滑らかだった。刀が抜かれる瞬間だけ、音が細く立つ。次の瞬間には、敵が倒れている。
映像の横には、数字が並んでいた。心拍、速度、衝撃、装甲の状態。戦闘中の体の情報を、機械がまとめたものだ。
久我は画面を見ながら、頬杖をついた。
「白石さん。最近、黒狼ちゃんに仕事させすぎじゃないかな。今日だけで何件仕事させてんのさ」
呟きは独り言だった。誰に聞かせるでもない。けれど、その声には少しだけ心配が混じっている。
次の瞬間、久我は肩をすくめ、キーボードを叩き始めた。
「まあ、うちからしたら、データが取れるから嬉しいけどね」
彼女にとって「データ」は、現場の出来事を数字で確かめる材料だ。何が良くて、何が危ないのか。強さの裏にある負担はどれくらいか。そういうことを、嘘のない形で教えてくれる。
「んー?」
映像の一瞬で、久我の指が止まった。胸の奥に小さな引っかかりが残る。彼女は映像を停止し、タイムラインを指先で引き戻した。再生速度を落とし、秒単位で確かめていく。
路地の奥。倒れた男たち。黒狼が半歩退き、わずかに首を振って周囲を掃く。左腕のウォッチに触れる――その瞬間。
画面の端で、暗がりがほんの少し揺れた。
ゴミ箱の陰。黒い縁の向こうから、頬の白が一瞬だけ覗き、すぐに闇へ引っ込む。光の揺れではない。人の動きだ。
久我は眉を上げ、口元を小さく歪めた。
「あちゃー。見られちゃってたか」
彼女はすぐに映像を拡大する。画面いっぱいに引き伸ばされた瞬間、解像度が落ち、映像は一気に荒れる。普通なら、この時点で輪郭は潰れ、使い物にならなくなるはずだった。けれど、画面は違った。崩れかけた部分が自動的に補正され、欠けた情報が埋め戻される。まるで、上から丁寧に塗り直されていくように、映像が少しずつ形を取り戻していく。
写っていたのは、足元とズボンの一部だけだった。顔は横顔がわずかに映っている程度で、表情までは読み取れない。これだけを見れば、個人を特定するには普通は情報が足りない。
「でも、これだけの情報でも分かっちゃうんだなー、これが」
久我は独り言のように呟き、指先を走らせた。
歌舞伎町周辺の防犯カメラ網へアクセスし、断片的な情報を次々と入力していく。処理が走り、数分程の待機のあと、画面に一人の人物が浮かび上がった。
顔がはっきりしたところで、久我は別の操作をする。
画面に枠が出て、顔の位置が固定された。次に「検索中」という文字が現れる。
数秒後、結果が表示されてきた。
写真。名前。住所。家族関係。学校名まで。人の生活が、一覧になって並ぶ。
「報告、面倒くさいなー」
久我はぼやきながらも、指は止めなかった。キーボードを叩き、マウスを滑らせ、一覧の末尾へとスクロールしていく。画面の白い光が眼鏡のレンズに反射した。
けれど、名前の欄を目にした瞬間、指が止まった。久我の口がわずかに開き、呼吸が一拍遅れる。
「……およ?」
相澤海斗。
画面に浮かんだその名前を見た瞬間、久我の指が止まった。どこかで目にしたことがある。思い出そうとしても輪郭は掴めないのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
彼女は眉間にわずかな皺を寄せ、名字をもう一度なぞるように目で追った。
久我は椅子を少しだけ引き、別のウィンドウを開く。画面に並ぶタブを素早く切り替え、情報を漁っていく。
やがて、黒狼の装着者データベースを呼び出した。
登録項目が整然と並び、心拍や稼働履歴の欄が流れるように目に入る。その中で、彼女の視線だけが一点に吸い寄せられた。
久我は息を止めるようにして、「登録者名」の欄へ視線を落とした。
相澤月子。
「もしかして、この子……黒狼ちゃんの家族?」
久我は一覧を開いたまま、家族関係の項目を辿った。並んだ名前の中に、さっき表示された「相澤海斗」がある。さらに、黒狼の装着者データに登録されている「相澤月子」と、同じ欄に紐づいている。
偶然の同姓同名ではないだろう。続柄まで一致している。久我は息を吸い、画面をもう一度だけ確認した。
間違いなく、家族だ。
久我は思わず画面を二度見し、それから口の端をゆっくりと吊り上げた。驚きが先に来て、その次に、研究者の好奇心がじわりと顔を出す。




