第六話 何も知らなかったことにする
帰り道の景色の記憶は、ところどころ途切れていた。
どう電車に乗り、どう改札を抜けたのか。意識は確かに前を向いて歩いていたはずなのに、記憶だけが穴だらけだ。思い出そうとすると、頭の中にはあの路地裏の闇と、黒い影の輪郭ばかりが浮かび上がってくる。
自宅のマンションの玄関の扉を閉めた瞬間、海斗の膝から力が抜けそうになった。靴を脱ぐ動作はひどくぎこちなく、つま先がもつれて段差につまずく。足の裏に冷たい床の感触が伝わったとき、ようやく家に帰ってきたのだと遅れて実感が胸に落ちてきた。
家の中は暗く、物音ひとつしない。当然リビングの方からテレビの音だったり出かける支度をするような気配もなく、夜の冷えた空気だけが静かに溜まっている。
海斗はリビングへは足を向けず、そのまま自室に入った。
電気のスイッチは、すぐそばにある。しかし、それを押す気分にはなれず、服を着替えることもせずにベッドに仰向けになって倒れ込む。天井を見上げると、白い面がぼんやりと視界に広がり、体の重さだけがはっきりと残った。
胸の奥で、心臓が忙しなく跳ねまわる。鼓動は速いのに、体は鉛のように重く、指先まで力が入らない。
意識を逸らそうとしても、駄目だった。この数時間で何度目か分からない、あの路地裏の光景が、頭の中で繰り返し再生される。目を閉じても、まぶたの裏に焼き付いた映像は消えてくれない。
黒い狼のようなヘルメット。光を吸い込むような漆黒の刀。瞬きを挟む暇もない一閃。次の瞬間に、地面に崩れ落ちる男たち。そして、鎧が消え去ったあとに、静かに立つ黒いスマートウォッチをつけた……。
――義姉さんがしていたのは、夜の仕事ではなかった。
胸の奥に、ほんのわずかな安堵が灯る。だが、その安堵はすぐに押し潰される。代わりに、もっと冷たく、形のない不安が海斗の胸いっぱいに広がっていく。
あのあと、月子は黒い車に乗って去った。運転席から降りた男が周囲を一度だけ見回し、後部座席のドアを開けて月子を迎える。月子はそれに対していつもの無表情で近づき、慣れた様子で無言で乗り込んだ。ドアが閉まる音は乾いていて、次の瞬間には車体が夜の流れに溶けるように走り去っていた。
――あれはきっと、夜の仕事以上に危ない仕事だ。
あの場で、月子はたしかに銃で撃たれていた。乾いた銃声が路地に反響し、弾が彼女の身体に当たった瞬間、火花のようなものが散ったのを海斗ははっきりと覚えている。彼女の纏っていた黒いボディスーツは、銃弾を弾くほどの硬さを持っているようだった。だが、それが衝撃や痛みまで完全に遮断できるとは限らない。
もし、あの弾が装甲を貫いていたらどうなっていたのか。もし、一発でもそれが心臓や頭のような致命的な場所に当たっていたら――。
想像しただけで、背筋に冷たいものが走った。
――義姉さんはいったい、何の仕事をしているんだ?
考えても、答えは出ない。
出るわけがない。
分からないままでいることは、恐い。けれど、この件に関しては、知ってしまうことも同じくらい恐ろしかった。
夜の仕事なら、理由を聞いて、話し合えばよかったのかもしれない。だが、目の前で見たのは、銃声と刃が飛び交う日本とは思えない光景だった。
ただ言葉を交わすだけで、どうにかなるようなことではないように思えた。
どちらを選んでも、今まで送ってきた静かな生活には戻れない――そんな予感だけが、重く沈殿するように胸の底へ溜まっていく。
時間の感覚が曖昧になる。時計は確かに進んでいるのに、その針の音が遠く感じられた。自分だけが時間の流れから取り残され、別の場所に立ち尽くしているような錯覚に包まれる。
そのまま海斗は、何もできずに横たわり続けた。喉が渇いても水を飲みに行かない。腹が鳴っても気にしない。体は確かにここにあるのに、心だけが歌舞伎町の裏路地に置き去りになっている。
玄関の鍵が回る音がしたのは、午前三時を少し過ぎた頃だった。静かな家の中に、その音だけが不自然にはっきりと響く。
月子が、帰ってきたのだ。
海斗は反射的に全身を強張らせた。布団の上で息を止め、耳だけを澄ます。廊下を進む足音が近づき、続いてリビングの照明が点いた気配がした。
声をかけるべきだと、頭のどこかで分かっている。けれど、もし口を開けば、あの路地裏の映像がそのまま言葉になって溢れ出てしまう気がした。それを月子に向けてしまった瞬間、今まで保ってきた距離も、平穏も、取り返しがつかなくなるだろう。
海斗は布団を頭まで引き上げた。布の匂いが鼻と口を塞ぎ、息が詰まりそうになる。それでも、外へ出て月子と顔を合わせるよりは、ずっとましだった。
――見なかったことにする。
――今日のことは、何も知らなかったことにする。
それが自分を守るための嘘だと分かっていても、今の海斗には、それ以外の選択肢が思いつかなかった。
しばらくして、廊下のほうで小さな物音がした。足音は静かに遠ざかり、やがて風呂場へ向かったのだと分かる。続いて、水の流れる音が、奥から小さく響いてきた。
海斗は布団の中で、ぎゅっと目を閉じる。眠れるはずがないと思いながらも、ただ意識が途切れてくれることだけを願った。
やがて、その水音が子守歌になったのか、疲労に引きずられるようにして、浅い眠りがようやく訪れた。




