第五話 なんだよ、あいつ
数日後、週末が来た。
土曜日の夕方。窓の外はまだ明るく、沈みきらない夕焼けの色がカーテン越しにリビングへ差し込んでいる。
月子はいつもと変わらない手つきで、淡々と支度をしていた。黒いジャケットを羽織り、細身のパンツの裾を整える。黒いスマートウォッチを手首に巻き、バッグの中へ必要最低限のものを順に入れていく。その動きには、迷いもためらいも見えない。
海斗はリビングのソファに腰を下ろし、背もたれに体を預けたまま、気配を殺して月子の様子を窺っていた。
声をかける勇気はなかった。聞けば、またあの拒むような目を向けられるだけだと分かっている。
それでも、放っておくことはできない。胸の奥に沈んだ不安が、じっとしていることを許さない。そうして迷いを重ねた末、海斗は一つの決断を下したのだった。
月子が玄関の扉を開け、外へ出る。隙間から夕方の風が一瞬だけ家の中へ入り込み、外の匂いを運びながらカーテンを静かに揺らす。
玄関の外の足音と気配が完全に遠ざかったのを確かめてから、海斗も音を立てないよう、そっと靴を履いた。
――さて、行くか。
ただ、確かめるだけ。
そう自分に言い聞かせながら、海斗は月子の後を追って家を出た。
家の外には、まだ夕方の気配が色濃く残っていた。空は夜へ向かう途中で足を止めたように、オレンジと青が溶け合い、その境目が住宅街に広がっている。昼間の熱を含んだ空気が、じわりと肌にまとわりつき、息をするたびに重さを感じさせた。
少し先を歩く月子の背中が、街灯の明かりの下に浮かんでいる。距離は、数十メートルほど。
海斗は意識して歩調を落とし、その距離を保った。近づきすぎれば、気づかれる。離れすぎれば、見失う。人のいない住宅街では足音をなるべく立てないようにし、角を曲がるときにはわざと一拍遅れて進む。胸の奥で心臓が不規則に跳ね、気づかれるのではないかという不安が、喉のあたりまでせり上がってきた。
――義姉さんがなにをしているか、確かめるだけ。
知らないままでいるより、知っていたほうが絶対に良い。この数日間、何度も考えた末に出した結論だ。月子にばれれば、今以上に距離を置かれるかもしれない。それでも、何もせずにいれば、あの写真と噂は、これから先もずっと頭の中に残り続ける。そう思うと、もうやるしかなかった。
駅へ向かう道に出ると、一気に人の流れが増えた。買い物袋を両手に下げた家族連れ、談笑しながら歩く部活帰りの学生、休日出勤らしい大人たち。さっきまでの静かな住宅街とは別の空気が、駅前には満ちている。月子はその雑踏の中に紛れ、流れるように改札へと向かっていた。
海斗はすぐには続かず、人の波が一度切れるのを待ってから改札を通る。視界の端で月子の姿を捉えつつ、同じホームへと足を向けた。
やがて電車が滑り込んでくる。扉が開き、人々が一斉に乗り込む。海斗は二つ後ろの扉から乗り、距離を取る。視線が合わないよう、窓の外に目を向け、夜へ沈みかけた街の景色を追った。
駅をいくつか過ぎるごとに、景色が変わっていく。住宅街の穏やかな明かりが減り、建物の密度が増す。窓に映るネオンの色が、だんだんと派手になっていく。
電車が止まり、月子が降りる。海斗も人の波に紛れ、少し遅れてホームに足を下ろした。
彼女が降りた駅は、新宿。
改札へ向かう人の数は、これまでとは比べものにならない。
東口を抜けると、視界が一気に開けた。行き交う声は大きく、笑い声やナンパの声が混ざり合う。巨大なネオン看板が空を覆い、赤や紫の光が昼のように路上を照らしている。少し歩いたその奥に、赤い門が見えた。
歌舞伎町の入口だ。
噂で聞いた光景が、現実として目の前に立ち上がる。
看板の光が幾重にも重なり、まるで昼間のように通りを照らす。音楽とキャッチの声が混ざり合い、足を踏み出すだけで空気が肌にまとわりつくようだった。
月子は足を止めることなく、その賑やかさの中へ自然に溶け込んでいく。派手な服装でも、強い化粧でもない。高校生が一人で歩くには、あまりにも大人びた場所。それでも、すれ違う人の視線は、無意識のうちに彼女のほうへ引き寄せられていた。
ホストかスカウトだろうか。派手な声で言葉を投げかける男たちが、次々と月子の周りに並ぶ。だが、彼女は視線すら向けない。歩調を変えることも、表情を崩すこともなく、最初からそこに誰もいないかのように、ただ前だけを見据えて進んでいった。
巨大なゴジラの頭が突き出た映画館の前を通り過ぎると、月子は人の流れに身を任せるように、通り沿いを歩き続けた。周囲の喧騒に溶け込みながらも、その姿だけは不思議と埋もれない。
やがて、通りに面した一軒の店の前で、月子は足を緩めた。派手な照明に縁取られた入口。その看板と出入りする男女の姿が、ここがキャバクラであることをはっきりと示している。
一瞬の迷いもなく、月子は扉に手をかけた。店内から漏れ出す音楽と煌びやかな光が、扉の隙間から外へ流れ出す。月子はそれを気に留めることもなく、落ち着いた所作で中へと入っていった。
しばらくの間、海斗はその場を動けなかった。視線だけが、月子が消えた扉に縫い止められている。
すると、突然背中にどんと衝撃が走った。
「邪魔だよ」
吐き捨てるような声に、はっとして我に返る。自分が人の流れの中、道のど真ん中に立ち尽くしていたことに、そこでようやく気がついた。慌てて頭を下げて、謝る。
そのまま人混みから逃げるように、月子が消えたビルの裏へと身を滑り込ませた。通りの喧騒すぐ背後にあるのに、壁一枚隔てただけで空気が変わる。明かりは落ち、通行人の気配もない。
女性がキャバクラに入っていったのなら、やることは一つだろう。
――なんで、義姉さんはこんな場所で働いているんだ。
胸の奥で、言葉にならない疑問が渦を巻く。
金に困っているとは思えない。生活費は親戚からもらっていると言っていたし、それで足りない様子もなかった。だから、生活のため、という理由はどうしても当てはまらない。
なら、自分で選んだのか。そう考えかけて、すぐに首を振る。月子が、この世界を好んで選ぶとは思えなかった。静かで、無理をしない生き方をしている人だ。派手さや危うさを求めるようには見えない。
では、実は生活費が足りていないのか。けれど、高校に入って生活費のためにアルバイトをすると海斗が言ったとき、月子ははっきりと「そんな理由ならしなくていい」と言っていた。
理由が、分からない。もし本当に金の問題なら、ここで義姉を働かせるくらいなら、海斗だって一緒に働く。
背中を冷たい壁に預け、そのまま力が抜けたようにしゃがみ込む。通りから届く音は遠く、 答えの出ない考えだけが、頭の中を行き来し続けていた。
どのくらい、そうしていただろうか。時間だけが静かに流れ、見上げた空は、いつの間にか夕焼けのオレンジを失い、夜の黒に塗り替えられていた。
不意に、金属が擦れるような乾いた音が耳に届いた。
――なんの音だろう?
反射的に顔を上げる。
次の瞬間、裏口の扉が内側から押し開かれた。
飛び出してきたのは、男が二人だった。
どちらも体格ががっしりしている。黒いスーツに身を包み、いかにも夜の街にいそうな格好をしている。だが、顔にははっきりと焦りが浮かび、肩で荒く息をしていた。足取りは乱れ、服装も崩れ、余裕はどこにも見当たらなかった。
海斗は反射的に、近くにあった大きなゴミ箱の陰へと身を滑り込ませて隠れる。
「くそっ……! なんだよ、あいつ……!」
「なんでバレてんだよ!」
「俺が知るか!」
男たちは足元も確かでないまま、路地を抜けようとして通りのほうへ走り出した。
その背中を追い立てるかのように――もう一度、裏口の扉が開いた。
そこから姿を現した人物を見た瞬間、海斗の喉がひゅっと鳴る。
黒いヘルメット。狼の頭を思わせる形で、色は一切の混じり気のない黒。ネオンの光を受けても、ほとんど反射しない。目の部分だけが細く淡く光り、その奥にある視線は、こちらからは読み取れなかった。
体を包んでいるのは鎧にも似たようなボディスーツだった。つやを抑えた黒で、無駄な装飾は一切ない。動きやすさだけを考え抜いたような造りで、その細身の輪郭が、異様な鋭さを際立たせている。
そして、手に握られているのは漆黒の刀。刃は光を返さず、ただ闇を吸い込んでいるようだった。そこにあるだけで、周囲の空気が一段重くなる。
黒い人物は、躊躇いなく男たちへ向かって駆け出した。
速い。
地面を蹴る音が耳に届く前に、距離が詰まる。影が滑るように、現実感のない速さで、その間合いが一気に消えていった。
黒い人物が、腰元の刀に手をかける。その動きはあまりにも静かで、構えと呼ぶほどの予備動作すらなかった。
「うわあ! 来るな――」
男の言葉が、途中で途切れた。
耳に届いたのは、金属がぶつかる派手な抜刀音ではない。
スッ――と、空気が細く裂けるような、短い音だけ。
刀は一瞬だけ鞘から抜かれ、直線を描くように走り、すぐに何事もなかったかのように戻っていく。
男の体が、少し遅れて崩れていく。足がもつれ、踏ん張ろうとした力が抜け、その場に膝から落ちた。殴られた衝撃とは明らかに違う。まるで意識の糸を断ち切られたかのように、力なく倒れ込む。
「ひっ……! く、来るんじゃねえ!」
もう一人がその光景に目を見開き、喉の奥で短く息を詰まらせた。震える手で懐からなにかを引き抜く。
――銃だ!?
両手で必死に構え、黒い人物へと向ける。普通なら、銃を持つ側が圧倒的に有利なはずだった。だが、男の顔からは血の気が引き、引き金にかけた指さえも震えを止められずにいる。
引き金が引かれる。乾いた破裂音が狭い路地に反響し、二発、三発と立て続けに響く。
それでも、黒い人物は歩みを止めない。弾が当たっているはずなのに、衝撃を受けた様子はなく、身体は微動だにしなかった。
ただ、間合いを測るように、静かに半歩だけ踏み込む。
また、空気をなぞるような短い抜き。瞬きの間に終わる一閃。そして、すぐに納刀。
男は逃げ出すことすらできなかった。前へ倒れるでもなく、頭から落ちるでもない。体の芯を抜かれたように、力を失い、横へと崩れ落ちた。
通りの喧騒はすぐそこにあるはずなのに、この場所だけが切り取られたように静まり返っている。音が消えたわけではない。ただ、世界から取り残されたような感覚だった。
海斗は影の中で、指先からじわじわと熱が失われていくのを感じていた。声を出そうとしても喉が強張り、うまく動かない。呼吸の仕方さえ分からなくなり、胸の奥が浅く上下する。
黒い人物は、倒れ伏した二人を一度だけ見下ろすと、すぐに視線を周囲へと滑らせた。
海斗は咄嗟にゴミ箱の後ろへ身を引き、口を手で押さえる。
――ばれたら、僕も同じ目にあうかもしれない。
呼吸の音がやけに大きく感じる。喉の奥で空気が擦れ、胸の奥で鳴る心臓の音が、耳の内側にまで響いてうるさい。
それでも、いくら待っても足音は聞こえてこなかった。意を決してそっと覗くと、黒い人物はすでにこちらの方を見ておらず、左腕をなにやら操作している。先ほどの混乱の中では気づかなかったが、手首には黒いスマートウォッチが巻かれていた。
――義姉さんと同じ色だ。
海斗がそう思った直後、ウォッチの画面が淡く光った。
強い光ではない。それでも、暗い裏路地の中では、その存在がはっきりと浮かび上がる。
次の瞬間、黒い人物の姿が、まるで瞬きを挟んだ隙に書き換えられたかのように消えた。
音も、光も、変化の過程すらない。スーツも、ヘルメットも、手にしていた刀も、一瞬前までそこにあったはずの存在が、まとめて世界から切り取られたように失われる。
次の瞬間、そこに立っていたのは一人の少女だった。
背は高く、無駄のないすらりとした体つき。力を抜いて立っているだけなのに、姿勢は自然と整っている。後ろでまとめられた黒髪が肩に触れ、白い肌がネオンの残光を淡く映していた。
その表情は穏やかで、さきほどまでの出来事を微塵も感じさせない。戦闘の直後とは思えないほど、静かで、落ち着き払った立ち姿だった。
その光景を前にして、海斗の思考が完全に止まる。驚きという言葉さえ、遅れてやってくる。
海斗は息を吸うことすら忘れ、目の前の現実を理解できないまま、その場に縫い止められたように動きを失ってしまう。
見間違えるはずがない。
そこに立っていた少女は、義姉――相澤月子だった。




