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ヤタノツカサ  作者: 苗奈えな


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第四話 起きてたの?

 帰り道、何度もスマートフォンを取り出しかけては、指を止める。写真を見ようとするたびに胸の奥がざわつき、結局もう一度開く勇気が出ないまま歩き続けた。

 家に着くと玄関は暗く、明かりは一つもついていない。靴を脱いで上がると、家の中はしんと静まり返っている。生活の気配が薄く、リビングを覗いても月子の姿は見当たらなかった。

 誰もいないことを確かめるように一瞬だけ立ち止まってから、海斗は自室へ戻った。机の前の椅子に腰を下ろし、背もたれに体を預けると、張りつめていた息がようやく少しだけ漏れた。

 スマートフォンを机に置き、深く息を吸う。ゆっくり吐いて、もう一度。胸のざわめきがほんの少しだけ落ち着いたところで、ようやく覚悟を決めるように画面を手に取った。

 写真のサムネイルが並ぶ中で、海斗は一番新しいものを指でタップする。

 画面いっぱいに、夜の街の景色が広がる。

 派手な看板の光が雨上がりの路面に映り込み、赤や紫、白の色が溶け合って揺れていた。人の影が行き交い、写真越しでも騒がしさが伝わってくる。

 高校生の日常からは明らかに切り離された、夜の大人の街の空気が、画面越しにも伝わってくる。

 その雑踏の中心に、月子の姿があった。

 いつもの学校の制服でも、家で着ている私服でもない。暗い色の上着に細身のパンツという、落ち着いた服装だ。人混みの中にいても浮かず、夜の街に自然と溶け込んでいる。髪は結んでいないのに乱れはなく、歩くたびに静かに揺れていた。手首には、見慣れた黒いスマートウォッチが巻き付けられている。

 そして、月子のすぐ横に、見知らぬ男の姿が写り込んでいた。

 背は、月子よりも高い。派手な髪色でもなければ、装飾の多い服装でもない。きちんと体に合ったスーツを着こなし、夜の街の中でも清潔感が際立っている。顔立ちは整っているが、特徴が強いわけではなく、視線を外せばすぐ人混みに溶けてしまいそうだった。

『先輩は、ホストじゃないかって言ってた』

 男子生徒の言葉が、頭の中でよみがえる。けれど、写真に写る男からは、そうした雰囲気は感じられなかった。

 まあ、そもそも男子高校生である海斗に、ホストの実像など知る由もないのだが。

 それでも一つだけ確かなのは、その男が、海斗の知っている「月子の世界」には存在しない種類の人間だということだった。

 海斗は指で画面をなぞり、写真を拡大する。

 画質は荒く、輪郭も少し滲んでいる。それでも、看板の端に写り込んだ文字の一部は読み取れた。Mapアプリにその店名を打ち込むと、表示された場所は歌舞伎町。サッカー部の二人が言っていたことが嘘ではないと、証明されてしまう。

「……どうしたんだよ。義姉さん」

 無意識に声に出してしまい、海斗は自分の喉を押さえた。静まり返った部屋に掠れた声が遅れて残り、胸を締めつける。

 月子が、こんな場所に行くはずがない。そう思いたい気持ちが強いほど、写真に写る現実は重くのしかかり、簡単には受け入れられなかった。

 両親の葬儀の日、黙って海斗を抱きしめてくれた月子の腕の感触がよみがえる。家ではほとんど言葉を交わさなくなっても、それでもあの頃の優しさはいつまでも海斗の中に残っていた。

 その月子が、夜の歌舞伎町の雑踏を歩いている。

 家の中で見てきた月子の姿と、画面の中の夜の街が、頭の中でどうしても重ならない。静かな家の記憶と、騒がしい歌舞伎町の景色がぶつかり合い、現実と記憶が噛み合わず、思考だけが宙に浮く。

 海斗はゆっくりと画面を閉じ、椅子の背にもたれた。天井を見上げると、白い面が滲むようにぼやけて見える。

 ――ただのバイト仲間?

 ――年上の友だち?

 ――ナンパされていただけ?

 ――まさかパパ活?

 考えれば考えるほど答えは遠ざかり、代わりに、確かめようのない可能性だけが次々と頭に浮かんできた。

 月子のことは、家にいてもほとんど分からない。会話を交わそうとしても、返ってくるのは一言二言だけで、それ以上踏み込ませない壁がある。

 気が付けば十時を回っており、時間だけが静かに過ぎてしまっていた。

 月子は、まだ帰っていない。確かめるようにリビングへ行ってみたが、やはり誰もいなかった。ソファは整ったままで、テレビも消えたままだ。

 海斗はその場に立ち尽くしたあと、力が抜けたようにソファへ腰を落とした。スマートフォンを握ったまま、何度も写真を開いては閉じる。

 見るたびに胸の奥が重く沈む。画面を閉じても、その感覚だけが指先から離れず、体の内側に残り続けた。

 宿題に手をつけても、文字は頭に入ってこない。風呂に入って湯に浸かっていても、ふとした拍子にあの写真が浮かぶ。気を紛らわせようとテレビをつけたが、作られた笑い声が耳につき、すぐに電源を切った。

 結局、リビングの明かりもつけないまま、海斗は何度も玄関の方へ視線を向けていた。帰ってくる気配がないか、そればかりを気にしながら。

 零時を過ぎる頃、ようやく海斗はベッドに潜り込んだ。

 けれど、目を閉じても意識は冴えたままで、眠りが訪れる気配はない。暗闇の中で、天井を見つめたまま、呼吸だけがやけに大きく聞こえる。

 カチリ、と鍵の回る音がしたのは、二時を少し過ぎた頃だった。

 海斗は布団の中で、はっと目を見開いた。眠れずにいた意識が、一気に現実へ引き戻される。

 玄関の扉が静かに開き、靴を脱ぐ控えめな音が聞こえる。続いて、バッグの金具が触れ合う小さな音がする。

 海斗は反射的に起き上がりかけて、すぐにその動きを止めた。

 月子に会っても、なんて言えばいいのだろう。

 写真を見たと打ち明けるのか。歌舞伎町に出入りしている理由を問いただすのか。隣を歩いていたあの男は誰なのか聞くのか。

 どれも、口にした瞬間に引き返せなくなる言葉ばかりだった。

 だからといって、家族として何事もなかったふりをすることもできない。

 海斗は短く息を吐き、足音を殺すようにして静かに廊下へ出た。薄暗い廊下の先で、リビングのあかりがついているのを確認する。

 一歩ずつ距離を詰め、そっとリビングへ足を踏み入れる。

 そこに、月子がいた。髪はきれいにまとめられているが、顔色はわずかに青白い。目の下には、うっすらとした影が落ちているにも見える。それでも背筋はしっかり伸び、立ち姿に乱れはない。

「おかえり。義姉さん」

 海斗が声をかけると、月子は一瞬だけ目を細めた。驚いたようにも見えたが、その表情はすぐに引っ込み、いつもの感情の読めない顔に戻る。

「起きてたの?」

「いや、ちょっとトイレに」

 嘘だと分かったかもしれない。それでも、月子は追及しない。ただ、上から下まで海斗を静かに見渡す。

 海斗は心臓が早鐘を打つのを感じながら、はやく何か言わなければと口を開きかける。

 今日、学校で何があったか。噂のこと。写真のこと。言葉になりきらない思考が次々と浮かび、喉の奥までせり上がってきていた。

「義姉さん、こんな時間までなに――」

 言葉は、最後まで形にならなかった。

 月子の目が、すっと細まり、わずかな動きの中で鋭さを帯びる。

 正面から向けられたその視線に、逃げ場はない。廊下の暗さの中で、その目だけが不自然なほどはっきりと浮かび上がる。

 そこにあったのは怒りというより、踏み込ませないための明確な拒絶だった。これ以上言葉を口にするな、と声にせずとも突きつけてくる、揺るぎのない意思を含んだ目だ。

 海斗は思わず息を詰め、続けようとした言葉を喉の奥へ押し戻した。

 問いかけは行き場を失い、宙に浮いたまま、音もなく落ちていった。

「お風呂入ってくる。あなたは寝なさい」

 月子はそう言うと、海斗の横をすり抜けていった。

 すれ違う瞬間、ふっと微かな匂いが鼻をかすめる。香水の甘さではない。冷たく澄んだ、どこか金属を思わせるような匂い。

 海斗はその場に立ち尽くし、足を動かすことも声をかけることもできないまま、月子の背中が扉の向こうへ消えていくのを見送るしかなかった。

 扉が閉まる乾いた音が、夜の静けさに重なり、耳の奥にいつまでも残った。

 結局、何も聞けずに終わった。それでも、胸の奥に沈んだまま動かない感覚が、一つだけある。

 ――義姉さんは、僕になにかを隠そうとしている。

 海斗は誰もいない廊下を引き返し、静かに自室へ入った。床が鳴らないよう足を運び、物音を立てないよう布団に潜り込む。

 灯りを消した部屋で、眠れないまま天井を見つめ続けた。視界のほとんどは闇に沈んでいるのに、白い天井だけがぼんやりと浮かび上がり、秒針の進みを意識させるように、時間だけがゆっくりと流れていく。

 葬儀の日、言葉もなく抱きしめてくれた月子の腕の温もりを思い出す。それがなんだか急に現実感を失い、遠い昔の出来事のように感じられたまま、海斗の意識は浅い眠りへと落ちていった。

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