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ヤタノツカサ  作者: 苗奈えな


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第三話 なにしてんだよ

 その日は、なにかがおかしかった。

 教室に入った瞬間、海斗の全身に視線が刺さる感覚があった。

 ――なんか見られてる?

 最初は気のせいかと思ったが、しばらくして気のせいではないことに気がつく。

 いつもなら、登校直後の教室は眠気と雑談で満ちている。机を引く音、欠伸混じりの声、笑い声が重なり合うはずの時間帯だ。だが今日は、そのざわめきの奥に、説明のつかない静けさが混じっていた。

 海斗が教室に足を踏み入れ、自分の席へ向かうまでのわずかな距離。その間だけ、誰かの会話が途切れ、声の調子が一段低くなる。視線を感じて顔を上げると、目が合う直前で、示し合わせたように視線を逸らした。

 海斗は、わざと何も気にしていないふりをして席に着いた。鞄を机の横に掛け、中身を整理する動作で時間を稼ぎながら、周囲の気配に神経を向ける。空気が、いつもより重い。

 近くの席の女子が、声を潜めて囁いた。

「……ねえ、それ本当?」

「本当だって。写真も回ってきてたし」

 そこまでしか聞こえなかった。海斗が顔を上げてそちらを見ると、その後の言葉は喉の奥に飲み込まれてしまう。

 授業が始まると、ひとまず露骨な視線は減った。皆が前を向き、教科書を開く音が教室に広がる。海斗も黒板を写しながら、頭の中で理由を探した。自分の行動を一つひとつ思い返してみても、誰かに嫌われるような、はっきりとした記憶はない。

 昼休み。いつもなら、仲の良い友人たちとくだらない話をしながら弁当を食べる時間だ。だが、今日は違った。友だちは弁当を開けたまま箸を止め、海斗の様子を窺うように視線を向けては、すぐに逸らす。何かを言いかけては口を閉じる、その動作が何度も繰り返された。

「……ねえ、海斗」

「なに?」

 海斗が顔を上げると、相手は一瞬だけ言葉に詰まる。

「あ。いや、別に……」

 それ以上、続く言葉はなかった。友人は箸を持ったまま視線を伏せ、そのまま黙り込む。別の友だちも同じように何か言おうとして口を開き、結局何も言わずに視線を落とした。

 他のテーブルから聞こえてくる笑い声や会話が、やけに大きく耳に入った。周囲はいつも通りの昼休みなのに、自分たちの席だけが取り残されたように感じられる。

 海斗の胃の奥が、少しずつ固くなっていく。はっきり言ってほしい気持ちはあったが、その言葉を聞いてしまえば、触れるのも恐い。だからこそ、海斗も何も言わずに弁当へと視線を戻すしかなかった。

 午後の授業も、同じ調子で過ぎていった。教師の声は聞こえているし、黒板の文字も理解できる。それでも、教室の空気だけがどこか落ち着かない。窓の外は明るく、風に揺れる木の葉がきらきらと光っている。その穏やかな光景が、かえって今の自分の居心地の悪さを際立たせていた。

 放課後のチャイムが鳴り、海斗はようやく息をつく。部活へ向かう生徒たちの足音が廊下に響き、教室の空気は一気に軽くな。けれど、海斗の周囲だけは、まだ重さを残す。

「海斗、あのさ……」

 鞄を背にして部活に向かおうとした友だちが、一度だけ足を止めた。肩越しにこちらを振り返り、口を開きかけて、すぐに言葉を探すように視線を揺らす。

「どうしたの?」

「ああ、いや……また明日な。じゃあね」

「……うん。また明日」

 笑って流そうとしたが、頬の筋肉は引きつり、口角は思うように上がらなかったと思う。無理に作った笑顔だと、自分でもはっきり分かる。

 家に帰る前に、飲み物を買おう。緊張からか無意識に喉が渇いていたし、頭の中には熱がこもっているような感覚が残っていた。何かを考えようとすると、同じところをぐるぐる回るだけで、整理がつかない。

 校舎の裏手にある自販機は、放課後になると人が少ない。部活へ向かう生徒たちの動線から外れており、木陰に覆われて昼間よりも少し涼しい。海斗はポケットの中で小銭を探しながら近づき、そこで先客の存在に気づいた。

 自販機の前に、男子生徒が二人いる。サッカー部の練習着を着ており、これからグラウンドへ向かう途中なのだろう。会話は断片的にしか聞こえないが、その声色には、ただの雑談とは違う妙な熱がこもっていた。

「なあ。相澤月子の噂、聞いた?」

「聞いた聞いた。あれってマジなの?」

 思わぬ名前が聞こえ、海斗は足を止めて壁の影に身を寄せた。自販機からは見えない位置に立ち、悟られないように視線だけを向ける。

「マジらしい。写真も回ってる。俺、先輩からもらったんだけど見る?」

 片方の男子が、周囲をさっと一度だけ確かめてから、声をさらに潜めた。そう言って、スマートフォンを軽く振ってみせる。

「え、マジ? 見たい」

 画面は見えないが、その仕草だけで相手の興味を十分に引いたようだった。半歩近づき、無意識に身体を寄せる。

「ここ奢ってくれたら見せてやるよ」

「うわ、お前最悪。でも、いいぜ。百円より、その写真の方が大事だし」

 舌打ち混じりにそう言いながらも、迷いなく財布に手を伸ばした。小銭が触れ合う乾いた音が鳴り、自販機に硬貨が吸い込まれていく。

「お前も好きだな」

 からかうような声が投げられ、二人の間に短い沈黙が落ちた。がちゃん、と商品が落ちる音と、自販機の低い稼働音だけが、やけに大きく響く。

「ほら」

 差し出されたペットボトルを受け取りながら、男子はもう一方へと肩を寄せた。

「どーも」

 喉の渇きを癒すよりも先に二人は自然と距離を縮め、スポーツドリンクを持ったまま並ぶようにしてスマートフォンの画面を覗き込んだ。

「早く写真見せろよ。ていうか、俺にも送って」

「いいよ。これは無料な」

 指先が素早く動き、送信の操作が行われる。

「さすが親友」

「安い親友だな」

 スマートフォンを覗き込んでいるらしく、再び短い沈黙が落ちる。

「……うわ、本当に相澤月子じゃん。ここどこ?」

 低い声には、驚きと興奮が入り混じっていた。男子はスマートフォンを少し傾け、画面に映る人物を改めて確かめる。

「新宿の歌舞伎町」

「それは知ってるって。その中のどのあたり?」

「キャバクラとかホストとかがある通りらしい。ほら、ここに店名が写ってるだろ。これ、キャバクラだってさ」

 そう言って、肩をすくめる。画面から目を離さないまま、興味の矛先はすでに次の情報へと移っていた。

「隣歩いてるのは? 彼氏? 少なくとも、この高校のやつじゃないよな」

「先輩は、ホストじゃないかって言ってた」

「え、マジ?」

 思わずと言った様子で声が大きくなり、二人は反射的に顔を近づける。画面を共有するように、自然と距離が縮まった。

「知らんけどね。あくまで聞いた話」

 責任を避けるように言い添えながらも、口元には半笑いが浮かんでいる。

「えー。本当でも嘘でも、なんかがっかりだわ」

「顔だけはマジで良いからなあ」

 落胆したように言いながらも、視線はまだ画面に残っていた。

 これ以上、聞いていられない。

 海斗は一度だけ深く息を吸い込み、意を決して二人の前に出た。

「すみません。その話、詳しく教えてもらえませんか」

 突然声をかけられ、二人は同時に肩を跳ねさせた。スマートフォンを持つ手がわずかに揺れ、海斗を見る。

「え? 誰だよ」

「あ……こいつ」

 一人は怪訝そうに眉をひそめてこちらを見ていたが、もう一人は海斗に見覚えがあったのか、視線を泳がせながら顎で示した。

「相澤月子の義弟の、相澤海斗と言います。今、義姉の話をしてましたよね」

 名乗った瞬間、空気がはっきりと変わる。二人は言葉を失い、反射的に互いの顔を見合わせる。その視線には、驚きと焦りがはっきりと浮かんでいた。

 気まずい沈黙が落ち、二人とも何を言えばいいのか分からない様子で視線を泳がせる。

「わ、悪い。もう練習始まるから」

 言い訳のように早口で言いながら、片方がスマートフォンを慌ててポケットにしまう。

「そうだな。行こうぜ」

 もう一人も同意するように短く答え、二人は顔を背けたまま足早に去ろうとした。逃げるように遠ざかる背中が視界に入り、海斗の胸が強く締めつけられる。

「ま、待ってください」

 思わず声が大きくなる。自分でも驚くほど必死な響きだった。

「家族のことなんです。せめて、さっき言ってた写真だけでもください」

 呼び止められた二人は、同時に足を止めた。振り返りはしないまま、短い沈黙が落ちる。校舎裏を抜ける風に木の葉が揺れ、その擦れる音だけが、やけに大きく耳に残った。

 やがて、片方の男子がゆっくりと振り返り、深く息を吐く。

「……分かった」

 諦めたような声音だった。

「ありがとうございます」

 海斗はすぐにスマートフォンを取り出し、画面を操作する。指先がわずかに震えていることに、自分で気づいた。AirDropの受信画面が表示され、相手の名前が現れる。

「俺らが渡したってことは、絶対言うなよ」

 念を押すような低い声だった。

「分かりました」

 短く答えた直後、通知音が鳴る。写真が送られてきたのを確認すると、二人はそれ以上何も言わず、足早にその場を離れていった。

 再び静かになった校舎裏で、海斗は自販機に向かい、麦茶を一本買った。冷たいペットボトルを手に取り、壁に背を預ける。

「このことだったのか」

 今日、やけに皆から視線を感じたのは、このことだったのだろう。朝から続いていた妙な視線や、言いかけては止める言動の理由が、今になって一本の線でつながる。この噂がすでに学校中に広がっていて、誰もが確かめきれないまま、海斗の反応を待っていたのだ。

 義姉が歌舞伎町を出入りしている。海斗の知っている義姉は、当然そんな場所を日常的に歩く人ではない。今では心の距離ができてしまったとはいえ、それでも、夜の街で噂の的になるような行動を取る人だとは、どうしても思えなかった。

 送られてきた写真のサムネイルを前に、海斗は指を止めた。画面に触れるのが恐かった。校舎裏の静けさの中で、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。

 一度、目を閉じる。息を整え、覚悟を決めてから、ゆっくりと画面に触れた。

 次の瞬間、表示された写真を見て、心臓が強く脈打った。

「なにしてんだよ……義姉さん」

 迷う余地はない。

 ――そこに写っていたのは、間違いなく義姉だった。

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