第二話 ……いらない、か
学校が終わり、昼の名残を含んだ暖かい空気の中を歩いて家に戻ると、玄関にはすでに明かりがついていた。鍵を回し、靴を脱いで上がる。家の中は静まり返っていて、テレビの音も生活の気配もない。その静けさに、海斗は思わず肩の力を抜いた。
だが、リビングに義姉の月子の姿を見つけた瞬間、その体が再びこわばってしまう。
背中の中ほどまで伸びた長い黒髪は、窓から差し込む夕日の光を受けて、なめらかに揺れる。黒く澄んだ瞳は強い光を宿しているのに、どこか冷たく、簡単には近づけない印象を与えていた。大きく切れ長の目、透き通るように白い肌。その整った顔立ちは、同じ家に住んでいるのに、まるで別の世界の人のように思えることがある。
月子は、私服姿だった。動きやすそうな黒いジャケットに細身のパンツ。左腕には黒いスマートウォッチが巻かれており、画面が一瞬だけ光るのが見えた。
リビングの机の上には開いたバッグが置かれ、月子はそこに何かを次々と詰め込んでいる。財布、スマートフォン、小さなポーチ。無駄のない手つきで、迷いは一切ない。
「義姉さん。ただいま」
声をかけると、月子はほんの一瞬だけ視線をこちらに向けた。
その目は確かに海斗を捉えていたが、そこに感情の揺れはほとんど見えない。ただ存在を確認しただけ、と言った方が近い視線だった。次の瞬間には興味を失ったように、机の上へと視線が戻される。
返事はなかった。
その沈黙が、リビングの静けさをいっそう際立たせる。海斗は無意識のうちに息を飲み込み、言葉を探した。
「えっと、夜ご飯なんだけど」
言いかけたところで、月子の手がふと止まる。バッグの中を探る指先だけが空中に残り、時間が一瞬、引き伸ばされたように感じられた。だが、月子が振り返ることはなかった。
「……バイトあるから、いらない」
低く、淡々とした声。それだけを言い残し、月子はバッグを肩にかけた。
そのまま何のためらいもなく、リビングを横切り、玄関の方へと歩いていく。靴を履く気配がして、玄関の扉が静かに開く。外気が入り込み、わずかな風がリビングを撫でた。
月子は、最後まで振り返らなかった。
家の中に完全な静けさが戻り、時計の秒針が進む音だけがやけに大きく耳に残る。
海斗はしばらくその場に立ち尽くし、月子が出て行った玄関の方を見つめていた。視線を向けても、そこにはもう誰の姿もない。
両親の死からしばらくして、義姉の月子との間には、はっきりとした距離が生まれてしまった。
交わす言葉は必要最低限だ。挨拶と用件だけで、雑談はない。いつからか、笑顔を見ることもなくなっていた。
海斗が何かしてしまったのか、思い当たる節はない。それでも、踏み込めば壊れてしまいそうな境界線を、月子がしっかりと引いているように感じられた。
どうすれば、この隔たりを埋めることができるのか。
海斗には、分からない。
キッチンに向かい、冷蔵庫の扉を開ける。中には、夕食の材料がきちんと並んでいた。切り分けられた野菜と、下味をつけた肉。どれも、二人で食べることを前提に用意したものだ。
「……いらない、か」
小さく呟き、冷蔵庫を閉める。
月子がどんなバイトをしているのか、どんな場所に行くのか、海斗はほとんど知らない。聞こうとしたこともあるが、そのたびに短い返事で終わってしまった。
無理に近づこうとしても、拒まれるだけだ。
そう分かっていても、同じ家にいるのに心の距離が縮まらないことが、時々つらくなる。
これが、今の現実だった。




