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ヤタノツカサ  作者: 苗奈えな


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第一話 お前のお姉さん、紹介してくれないかな

 それから二年後、海斗は高校生になった。義姉である月子と同じ高校だ。

 春の終わりに始まった高校生活は、気がつけば夏の気配をまといながら、ゆっくりと次の季節へ向かっていた。

 心配だった教室の空気にも、きちんと馴染むことができた。特別に目立つ存在ではないが、孤立しているわけでもない。話しかけてくれる友だちがいて、笑い合える相手もいる。高校生活としては、ごくごく平均的だと言えるだろう。

 今日もまた、昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気は一気に緩んだ。授業で張りつめていた静けさがほどけ、あちこちから楽しげな声が上がる。机や椅子を引きずる音、弁当を開けるかすかな音、笑い声が重なり、教室は途端に騒がしくなる。

 海斗も席を立ち、友人の元へと足を運んだ。仲の良い友だち数人と、いつものように机を寄せ合う。入学して間もない頃、何気ない会話をきっかけに距離が縮まり、今では毎日昼休みのとき自然と一緒に過ごす関係になっていた。

「今日の体育きつかった~。明日絶対筋肉痛だよ」

「この時期に1500m走はないよね。男子の体育はなにしたの?」

「こっちはバスケ」

「いいなあ。先生交換して欲しい」

 他愛のない会話を交わしながら、弁当を広げる。蓋を開けると、ご飯とおかずの匂いが立ちのぼり、空腹を刺激する。中身は特別なものでもなんでもなく、いつも通りのご飯とおかずだ。それでも、向かいに誰かがいて、言葉を交わしながら箸を動かすだけで、この時間は少しだけ意味を持つ。

 少しして、その穏やかな空気がふと揺れた。

 教室の入り口の方がざわつき、話し声が一段落する。クラスメイトの視線が同時にそちらへ向き、空気がわずかに張りつめた。海斗もつられて顔を上げる。

 そこに立っていたのは、見慣れない男子生徒たちだった。制服の着こなしは規定よりも崩れていて、新入生には見られない力が抜けたような余裕がある。足元を見ると、上履きのラインの色は緑色。この学校では学年ごとに色が決まっているため、それが上級生であることを示していた。ちなみに、一年生は黄色だ。

「なあ、相澤っているか?」

 教室の中に、通る声が響いた。突然名前を呼ばれ、海斗は箸を持つ手を一瞬止める。こうした呼ばれ方をされると、たいてい良い用件ではないことを、これまでの経験で知っていた。

 周囲から集まる視線を背中に感じながら、海斗は静かに手を上げる。

「……僕です」

 教室のざわめきがわずかに抑えられるなか、上級生たちは値踏みするような視線を向けたまま近づいてきた。机と机の間をゆっくり進む足音が、不思議と大きく聞こえる。そのたびに、周囲の昼休みの気配が少しずつ遠のいていく。

「お前、相澤月子の弟だよな?」

 その名前を聞いた瞬間、胸の奥で小さく息が抜けた。やはりこの話だ、と海斗は内心で思う。

「そうですけど」

 短く答えながら視線を上げると、上級生の顔には期待を隠さない色が浮かんでいた。

「お願いがあるんだけどさ。お前のお姉さん、紹介してくれないかな」

 その言葉に合わせるように、後ろにいた上級生たちもこちらを見て笑った。軽い冗談のような口調だが、視線はどこか真剣で、良い返事を待っているのが分かる。

 はっきり言おう。こういう場面は、これが初めてではない。これまでにも何度も同じようなやり取りを経験してきた。だからこそ、考えるまでもなく答えは決まっている。

「ごめんなさい。無理です」

 言葉は短く、迷いもなかった。

「なんでだよ? 別に良いだろ?」

「ちょっとくらいいいじゃん。別になにか変なことするわけじゃないぞ。こいつ、ただ仲良くなりたいだけなんだって」

「連絡先だけでもさ。な?」

 軽い調子で言葉が重ねられるが、海斗は小さく首を横に振った。相手の目を正面から見ることはせず、視線を少し落としたまま言葉を選ぶ。

「やめておいた方が良いと思いますよ。義姉本人がそういうのを、すごく嫌がるんです。僕が紹介したところで、義姉さんとは仲良くなれないと思います」

 それ以上の説明はしなかった。理由を細かく話せば話すほど、相手は納得しようとせず、話が長引くだけだと分かっている。断るときは、はっきりと、短く。それが一番角が立たないやり方だった。

 上級生たちは互いに顔を見合わせ、どこか納得しきれない様子で肩をすくめた。

「そうかあ」

「仕方ないね」

「だから本人に直接行けって、俺言ったじゃんか」

「でもよお……」

 小声で文句を言い合いながら、彼らは教室の出口へと向かっていく。扉が閉まると同時に、張りつめていた空気がふっと緩み、抑えられていた話し声が少しずつ教室に戻ってきた。

 海斗は小さく息を吐き、箸を取り直して弁当の続きを食べ始めた。向かいの席にいた友だちが、その様子を見て苦笑いを浮かべ、軽い調子で声をかけた。

「あんたの姉ちゃん、本当に人気だねえ」

 からかうような口ぶりに、周りの友だちも小さく笑う。海斗はご飯を一口かみしめてから、短く息を吐いた。

「さっきみたいなの、もう何回目?」

「百回超えてから数えてない」

「百回もあったんだ……」

 感嘆とも呆れともつかない声が漏れる。

「中学のときにはもう超えてたよ」

 海斗はそう言って、軽く肩をすくめた。

 相手は上級生に限らない。他校の生徒から声をかけられることもあれば、時には大学生や社会人だと名乗る相手が現れることもある。断る行為そのものには、もう慣れてしまった。それでも、同じことが繰り返されるたびに、「またか」と胸の奥で小さく思い、気づかないうちに疲れが積もっていく。

「でも、分かるわ。月子先輩、本当に美人だもんね」

 相澤月子は、誰の目にも分かるほど目立つ存在だった。

 同年代の女子の平均身長と比べても、月子は背が高い。すらりとした体型で、無駄な肉はなく、全体的に線が細い。長くまっすぐな黒髪は背中の中ほどまで伸びていて、手入れが行き届いたそれは光を反射するほど艶やかだ。黒い瞳は大きく切れ長で、静かにこちらを見返すだけで強い印象を残す。

 廊下ですれ違えば視線が集まり、なにかをすればすぐに話題になる。月子がそれだけ目立つ存在である以上、その弟である海斗に声がかかるのも、ある意味では自然な流れだった。

 実際、昔は仲の良い友だちから連絡先を聞かれ、軽い気持ちで教えてしまったことがある。その結果、月子からこっぴどく怒られた。それ以来、そういうことは断るようにしていた。

 ――それに、今は。

 そこまで考えたところで、現実に引き戻されるように友だちから声がかかる。

「海斗は明日の英語の小テストの勉強した?」

 気がつけば、会話はいつの間にか別の話題へと移っていた。次の授業の内容や、テスト範囲の予想、どうでもいい噂話。さきほどの出来事は、昼休みの喧騒に紛れ、少しずつ意識の外へ追いやられていく。

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