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ヤタノツカサ  作者: 苗奈えな


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第十話 会わせたい人がいるんだ

 海斗と月子が初めて出会った頃のお話。

 夏の熱がまだまだアスファルトに染みついているのに、吹き抜ける風だけが先に秋の匂いを運んできた。小学校の校庭の端で、色づきはじめた葉が一枚、くるりと回って落ちる。

 学校から家に帰ると、海斗は玄関でランドセルを置いて靴を脱ぎかけたところで足を止めた。廊下の奥から、いつもなら聞こえない足音が近づいてくる。

 普段ならこの時間、父はまだ会社にいるはずだ。けれど今日は、私服の父が角を曲がって現れた。

「おかえり、海斗」

 父が家にいるのは、本当なら嬉しいはずだった。ただ同時に、どうしたんだろう、と海斗は首をかしげた。

 ランドセルを自室の隅に置くと、父は少し間を置いてから海斗の部屋の前まで来た。敷居のところで一度立ち止まり、視線を泳がせながら言う。

 父の笑顔が、ほんの少しだけぎこちなく見える。

「海斗、今日の夜は駅前のファミレスで食べようか」

「ほんと? やった!」

 平日に外食することは珍しい。海斗の顔がぱっと明るくなり、思わず声が跳ねた。さっきまでの小さな困惑は、遠くへと押しやられる。

 父はその反応に、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように口の端を上げた。だが笑ったままでは続けられないのか、口元をいったん戻す。喉を一度鳴らし、言葉を選ぶみたいに、短く間を置いて口を開いた。

「そこで、今日海斗に会わせたい人がいるんだ」

「会わせたい人? 誰?」

 父は答えかけて、言い直すみたいに口を閉じた。視線が廊下の向こうへ一度流れて、それから海斗に戻る。

「……行ってから紹介するよ」

 困惑しながらも、外食できることの方がが嬉しくてそれもすぐに忘れてしまった。

 夜になりファミレスに入ると、肉やソースといった様々な香ばしい匂いが鼻を刺した。入口のドアが閉まると、外の冷たい空気が少しだけ引っ込んで、代わりに店の熱とざわめきが押し寄せる。平日でも夕飯時の店内は賑やかで、学生の笑い声と皿の音があちこちに跳ねていた。

 父は受付で店員を待つことなく、迷わず奥へ歩いていく。海斗は一歩遅れてついていきながら、どこへ行くのかと周りを見回した。緑のソファ席が並ぶ通路の先、窓際の四人席で父は足を止める。

 そこのソファ席には、二人の女性が既に並んで座っていた。大人の女性は背筋を伸ばし、手元のメニューを閉じたところだった。隣には女の子も座っていて、膝の上に手を揃えたままこちらを見上げる。

「ごめん。お待たせしました」

 父が軽く頭を下げると、女性はすぐに笑って首を振った。

「いえ、全然。私たちも今来たところ」

 言葉は柔らかいのに、空気はどこか整っている。父はその向かいの席に腰を下ろし、海斗にも座るよう目で促した。

 困惑しながら、海斗は父の隣に座る。海斗は目線の置き場が分からず、一度テーブルにあるメニューに目をなぞらせつつ、目の前に座る二人をチラチラと見た。

 綺麗な女性だった。黒髪は肩あたりで切りそろえられていて、照明の光を受けるたび、黒い絹みたいにつやが走る。こちらを見たまま、柔和に微笑んでいた。その微笑みは押しつけがましくないのに、自然と背筋が伸びてしまうほど綺麗だった。

 その隣では、黒髪をポニーテールにした女の子が座っている。海斗より、少しだけ年上だろうか。ソファの座面に浅く腰掛けているのか背筋はまっすぐ伸びていて、育ちの良さをうかがわせる。表情は無表情ながらも、整った目鼻立ちが照明の下ではっきりしていて、海斗は思わず見入ってしまう。

 二人とも、良い意味でファミレスに似合っていなかった。明るい照明と賑やかな笑い声の中で、二人の周りだけ空気がすっと整って見える。きっと、二人が似合うのは、ホテルの上階にあるような最高級レストランみたいなところだろう。まあ、そんなところに実際に行ったことはないのだけど。

 海斗が視線を彷徨わせている間に、父が小さく息を吸った。膝の上で組んでいた手をほどき、テーブルの端にそっと置く。まるでスイッチを入れるみたいに、背筋を正した。

「はじめまして、月子ちゃん。今、君のお母さんとお付き合いさせてもらってる、相澤空介って言います。今日は……というよりも、これからどうぞよろしくね」

 父は言い終えると、口元だけで笑った。けれど目は真面目で、相手の反応を確かめるように見ている。

「よろしくお願いします」

 女の子――月子が、椅子の上で膝をそろえたまま、綺麗に頭を下げた。髪がふわりと揺れて、すぐ元の形に戻る。

 父はその仕草に小さく頷き、それから海斗のほうへ視線を移した。

「そして、こっちが息子の海斗。海斗、自己紹介できるか?」

 突然スポットライトを当てられたみたいで、海斗の喉が乾いた。何を言えばいいのか分からないまま、口だけが開く。

「あ、えっと……」

 言葉の続きが出てこない。海斗は膝の上で手を握り直し、指先に汗がにじむのを感じた。父のほうを見ようとして、視線が途中で止まる。

 もじもじしていると、黒髪の女性がふっと笑った。助け舟を出すみたいな、柔らかい笑い方だった。

「いきなり言われても緊張しちゃうよね。私の名前は、霧島星香。よろしくね」

 星香は、肩の力を抜くように言った。声までふわりと丸くて、海斗の固まっていた背中が少しだけほどける。

 頭を下げられ、海斗も反射的に頭を下げた。深さの加減が分からず、テーブルに額がつくほど下げすぎてから慌てて戻す。耳の奥が熱くなって、視線の置き場がまた分からなくなった。

 続いて、隣で月子が頭を下げる。

「娘の月子です。よろしくお願いします」

 頭を下げる角度も、戻す速さも、迷いがない。ポニーテールの毛先だけが小さく揺れて、すぐに静かになる。

「よろしくね」

 隣で、父が笑って頷いた。

 混乱している海斗を余所に、父は一度だけテーブルの上のメニューに視線を落とした。指先で紙の端をそっと押さえ、開きかけては閉じる。目の前の二人の顔を見て、それから海斗のほうへ戻す。

 父は小さく咳払いをして、椅子に深く腰を入れ直した。まっすぐ前を向き、今度は逃げないような目で海斗を見た。

「海斗。父さんな、星香さんと再婚しようと思ってるんだ」

 言葉が落ちた瞬間、店内の騒がしさが遠のいた気がした。

「……え?」

 そのあとのことは、ところどころ抜け落ちている。父と星香の会話は続いていたはずなのに、海斗の耳には遠くの水の音みたいにしか届かなかった。

 皿が運ばれてきて、箸も動かした。ストローを咥えて、何かを飲み込んだ気もする。楽しみにしていた外食だったはずなのに、味も匂いも記憶の中では薄い膜みたいに滑っていくだけで、何を口にしたのかは思い出せない。

 はっきり記憶に残っているのは、海斗を見る月子の感情の読めない視線だけだった。

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