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ヤタノツカサ  作者: 苗奈えな


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第九話 どっちを選ぶ?

 海斗が通されたのは、高層階の白い会議室だった。

 壁一面の窓の向こうに、夕闇へ沈みかけた街が広がっている。ガラスに室内の光がうっすら映り、海斗の顔も輪郭だけが重なって見えた。遠くのビルの窓が灯り始めているところもあり、下を見れば道路の車列が細い光の帯になって途切れずに流れている。こんな高さから夜景を見るのは、スカイツリーの展望台に行ったとき以来だ。

 室内は長机と椅子、壁に掛かった時計だけの簡素な造りだ。白い照明が机の角をきっちり浮かび上がらせ、空調の低い唸りが一定に鳴っている。窓があるのに、外の音は一切届かない。

 ここに来るまでの道のりは、緊張と不安で細切れの記憶しか残っていない。白い車の後部座席。濃いスモーク越しに滲む街灯の光。隣では、丸眼鏡の白衣の女が楽しげに何かを話していた。けれど海斗の耳には、言葉の形だけが遠くで揺れているみたいにしか届かない。

 そして今、会議室の扉が背中で閉まる。鍵が掛かる金属音が小さく響き、室内の静けさが一段濃くなった。

 白衣の女が、海斗を席の一つに座らせる。

「はい、ここ座って。喉、渇いてるでしょ? コーヒーとお茶どっちが良い?」

「お茶でお願いします」

「了解」

 久我は軽く手を振って、会議室を出ていった。廊下へ消える白衣の裾が扉の隙間で揺れ、次の瞬間、閉まる音が室内の静けさをさらに濃くする。

 スマホをいじる気にもなれず、海斗が時計の秒針と空調の唸りだけを聞きながら待っていると、ほどなくして扉が開いて久我が戻ってくる。両手に握られていたのは紙コップやペットボトルでもなく、派手な缶が二本だった。

「はい、これ」

 差し出されるように机の上に置かれたのは、エナジードリンクだった。缶の表面には水滴が細かく浮き、蛍光灯の白い光を受けてきらりと光る。極彩色の稲妻みたいなロゴが、無機質な会議室の白さの中でひどく目立った。

「え? お茶じゃ……」

「これしかなかったんだ。我慢してくれたまえ」

 悪びれずにそう言うと、久我は向かいの椅子を引き、脚が薄い絨毯を擦る微かな音とともに腰を下ろした。人差し指でプルタブを起こし、自分の缶を開ける。プシュッ、と炭酸の逃げる音が白い部屋の天井に跳ね返った。

 仕方なく、海斗も缶を手に取った。爪をプルタブにひっかけて引き起こすと、プシュッ、と同じ炭酸の音が遅れて響き、甘い匂いが鼻孔をくすぐる。

「はい。じゃあ乾杯」

 久我が缶を差し出してくる。戸惑いつつもそれに合わせると、カン、と薄い金属音が鳴った。そのまま海斗と久我は、ひと口飲む。炭酸が舌を刺し、甘さの奥に薬みたいな苦みが残る。喉を落ちていく冷たさだけがはっきりしていて、乾きが少しだけ引いた。

 久我が、自分の缶を机の上に置く。そして、彼女は背筋を少しだけ正し、白衣の袖口をわずかに整えた。丸眼鏡の奥の視線が、逃げ道を塞ぐみたいに海斗へと向く。口元は柔らかく弧を描いているのに、目は笑っていない。

 本題が始まるのだと、海斗は悟った。

「じゃあ、早速。君があの日、新宿で見たもの――君が気になっているであろう、お義姉さんの仕事について説明しよう」

 海斗は黙ったまま、缶を握り直した。反射的に背筋が伸び、甘さが残る喉の奥がきゅっと狭くなる。鼓動が耳の内側でどくどくと響き、言葉の続きを待つ時間だけが無駄に長く感じた。

「まず、改めまして。うちは久我栞。八咫局の開発班の、一応リーダーとして働いてる」

「やたのつかさ?」

「そう。八に尺の上に只、それに局をつけて“やたのつかさ”。格好つけた読み方だよね」

 久我は口元だけでくすりと笑った。

「簡単に言えば、世間に公表できない案件を処理してる組織さ」

 久我の言葉が、頭の中でうまく整理できない。

「警察……ではないんですか?」

 海斗は缶を握った手を膝の上で固め、冷たさで思考を保とうとしながら、思わず聞き返した。

「まったくの別物さ。警察は基本、事件が起こってから動く。証拠を集めて、犯人を捕まえるでしょ? でも八咫局は逆。事件が起きる前に動いて、事件を起こさせないようにするのがうちらの仕事」

 久我は指先で机の縁を軽く叩いた。コツ、コツ、と乾いた音が白い部屋に小さく跳ね、海斗の鼓動と嫌に重なる。

「例えば、殺人事件を起こそうとしている人がいたとしてね。警察は、殺人事件が起きたあとに動く。現場を押さえて、証拠を集めて、犯人を捕まえる。でも八咫局は、殺人事件が起きる前に動く。犯人が殺人事件を計画している段階で止めて、将来的になにも起きないようにする。そういう組織さ」

 久我は海斗が難しそうな表情をしているのを見て、慌てたように両手を振った。白衣の袖がふわりと揺れ、机の上に落ちる影もばたばたと揺れる。

「あ、安心してほしい。国からの依頼で動いてるから、うちらが逮捕されるとかはないよ」

「国公認ってことですか?」

「そういうこと。八咫局は、国の機関の一つなのさ。総務省だとか、外務省だとかと一緒。だからというわけではないけど、必要なら機密情報も無断で見られるんだ。実際、防犯カメラの映像にアクセス出来たおかげで君を見つけることもできた」

 久我は得意げに顎を上げた。丸眼鏡が照明を拾って白く光り、口元の笑みだけがくっきりと浮く。

「……そんな」

 海斗の頭に、ぼんやりと知っている知識がよぎる。警察でさえ、防犯カメラの映像を見るには手順や許可が要るはずだ。なのに久我は、まるで冷蔵庫の中身を見るみたいな調子で「無断で見られる」と言った。 もし本当なら、警察よりもさらに上の組織なのではないだろうか。それに、もしそれを好き勝手に出来るのだとしたら……。

 戸惑って固まる海斗を見て、久我はふっと笑った。軽い笑い声が白い会議室に跳ね、すぐに吸い込まれて消える。

「まあ、今は善悪の話は一旦置いておこうじゃないか。君が知りたいのは、義姉のことだろう?」

 久我の声は軽い。けれどその軽さが、海斗の思考に蓋をするみたいに働いた。

「……はい」

 たしかに、今一番重要なのは月子の情報だ。海斗は自分の中の疑問を乱暴に押し込め、目の前の女性だけを見つめる。

「偉い。聞き分けの良い子は好きだ」

 久我はくすっと笑った。笑い声は短く、白い会議室の静けさに吸われて消える。

「八咫局の中は、五つの班で回してる。各班で役割が違うんだ」

 久我は椅子に少しだけ深く座り直し、指を一本立てた。白い照明の下で指先が淡く光り、机の上に細い影がまっすぐ落ちる。

「まず、実行班。実際に戦ったり、護衛したり、相手の身柄を押さえたり、現場で任務をこなすのが主な仕事だ」

 二本目。

「次に、回収班。証拠の回収、撤収の手配、八咫局に繋がる痕跡の処理をするのが仕事。いうなれば、現場の後始末をする班さ。世間にばれたらまずい案件ばかりだからね。仕事自体は地味だけど、この班が一番大変だと思う」

 三本目。

「三つ目が、管制班。実行班と回収班の指示役みたいなものかな。任務の割り振り、状況の把握、支援の手配。現場に必要な情報を流して、動きを整えるのが仕事」

 四本目。

「四つ目が、うちがいる開発班。実行班が使う装備、回収班が使う道具、管制班が見るシステムだったりを作るのが仕事。外部の製品は、機密上使えないからね。全部うちの組織で賄ってる」

 五本目。

「最後が、監察班。全体の監査とリスク管理。……って言うと堅いけど、要するに国との窓口だ。国からの依頼を受けて、こっちに回す。逆に、こっちからの報告も全部ここを通す。それに、監察班には国側の人間が何人か混ざってるから、隠し事はほぼ不可能なのさ」

 久我は一度だけ深く息を吸い込んだ。エナドリの甘い匂いが薄く残る空気の中で、その吸気だけがやけに大きく聞こえる。

「もう想像もついているとは思うけど、君が見たのは実行班の現場だ。つまり、君の義姉――相澤月子は、実行班の人間だ」

 言葉が落ちた瞬間、空調の唸りが遠のいた気がした。海斗の視界の端で、机に落ちた指の影だけが細く揺れている。心臓が一拍遅れて跳ね、喉がぎゅっと締まる。背中に嫌な汗がにじみはじめた。海斗は目を上げられず、机を見つめたまま俯いた。

「なんで……義姉さんがそんなことを」

 しばらくして出た声は掠れて、白い壁に吸われていった。喉の奥がひりつき、息を吸うたびに胸が浅く上下する。

「彼女が八咫局に入った理由は、うちも詳しくは知らない。その辺りを知ってるのは、人事も担当している監察班の人間じゃないかな」

 久我は軽く肩をすくめた。白衣の肩がふわりと持ち上がって落ちるだけの、小さな動き。丸眼鏡の奥の目は、海斗から逸れない。海斗の息が乱れるのも、指が震えるのも、観察するかのように静かに見ていた。

「でも、一つ言えるのは、君の義姉はすごいってこと。まだ高校生の年齢で、入った当初から実行班でもトップクラスの成績を維持してる」

 褒め言葉のはずだった。普段の海斗なら、月子が褒められたことを素直に嬉しく思うことができただろう。

 だが、今は違う。久我の淡々とした声の裏で、歌舞伎町の路地裏が生々しく蘇る。光を吸う黒い鎧、目の部分だけ細く光ったライン、刃が走った瞬間の無音。

 あれを褒められて、素直に喜べるわけがない。

「……義姉さんは、危ないことをさせられてるんですよね」

 久我は、すぐに否定しなかった。缶を指先でゆっくり滑らせ、水滴のついた金属がかすかに机を擦る。

 沈黙のあいだ、空調の唸りと秒針だけが、正確すぎる音で部屋を満たした。

「危ない。……うん、それは否定できない」

「だったら――!」

 海斗が息を呑み、顔を上げて声を張ろうとした瞬間だった。

「で、ここからが君の話」

 久我が、海斗の言葉を遮った。

 声を張りかけた海斗の息が、喉の奥で引っかかって止まった。久我は肘を机につき、指先で缶の縁を軽く押さえたまま海斗を見据える。丸眼鏡の奥の目は冗談を挟む余地がないほどまっすぐで、出口のない白い部屋の中心に海斗を縫い留めるみたいに、逃がさない。

「君は、一般人だ。なのに、八咫局の現場を見てしまった。普通、こういうときどうなるか想像できるかい?」

 久我の言葉は、問いかけの形をしているのに、答えを試す刃みたいだった。

 ――殺される?

 背筋に冷たいものが走り、肩の力が勝手にこわばる。窓の外の街は綺麗なのに、ここだけが別の温度で凍っている。

「そんな怯えた顔をしないでくれよ。これでも国公認の組織なんだ。善良な一般市民に、酷いことなんかしたりしないよ」

 久我は笑いながら、両手を軽く上げた。笑い声は明るいのに、丸眼鏡の奥の目はやはり恐い。

「普段なら、丁寧に“お願い”をして忘れてもらうんだ。何も知らなかった一般人に戻っていただく」

 “お願い”という言葉だけが、妙にやわらかい。だからこそ、背中がぞくりとした。丁寧に――その丁寧さの中身は、きっと優しいものではないだろう。

 なにを“お願い”するのか、海斗は聞けなかった。久我の笑みの奥に、刃物みたいな冷たさがちらつく。

 どうせ、ろくでもないことに決まっている。

「でも、君は関係者の家族だ。月子ちゃんを見るたびに思い出すだろうし、うっかり誰かに言ってしまうかもしれない。普通なら与太話で片づけられるようなことでも、親族の君が口にしたら本気にされる可能性がある」

 久我は、指を二本立てた。

「だから、君に“二択”を出す」

 白い机に落ちた影が、細い二本線になって伸びる。蛍光灯の下で、その影だけがやけにくっきりして見えた。

「一つ。相澤月子の元から離れて、別の場所でひっそり暮らす。学校も、住所も、全部変えてもらうことになるけど、これからの生活費は全て八咫局が出す」

 まるで引っ越しの手続きを、書類の項目を読み上げるみたいに淡々と説明する口調だった。けれど「全部変える」の一言が、海斗の耳の奥を殴る。

「二つ。うちの仕事を手伝って、このまま相澤月子と一緒に暮らす。つまり、君も八咫局の協力者になる」

 二本目の選択肢は、甘い言葉をまとっていた。義姉とそのまま暮らせる。その部分だけが、救いの糸みたいに胸を引く。けれど同時に、“協力者”という言葉が冷たい鎖みたいに足首へ絡みつく。

「……手伝うってなにをですか?」

「それは、君が後者を選択したら教えよう」

 久我は口の端をほんの少しだけ吊り上げた。冗談めいた笑みの形のまま、わざと意地悪く聞こえるように声の調子を変える。

「選ぶのは君だよ、海斗くん」

 言い終えると、久我は一度だけ視線を外した。窓の外へ向けられた目が、夕闇に沈みきった街の灯をなぞる。ガラスの向こうでは光の粒が瞬き、白い会議室の照明とぶつかり合って、どうも馴染まない。窓には室内の光が薄く映り、久我の笑みと、海斗の強張った輪郭が重なった。

 そして、ゆっくり視線を戻す。

「義姉の元から離れて、何も知らなかったことにして生きていくか。それとも、うちの仕事を手伝って、義姉と一緒に生きるか」

 久我は椅子の背にもたれ、指先で机を軽く叩いた。コツ、と短い音。  海斗はその音に肩をすくめそうになるのを堪え、窓ガラスに映る自分の輪郭を見た。薄く重なる影が、どこか他人みたいに頼りない。

「どっちを選ぶ?」

 そう言って、久我は獲物を見つめる蛇のように笑った。

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