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愛を享受するもの

 この日、侯爵邸のサロンにはクラリッサ嬢がおいででした。

 連日、蒸し暑さが続く王都。熱気を孕んだ風がときおり室内に吹き込み、レースのカーテンを揺らします。


 リリアーナお嬢様は、向かいに座るクラリッサ嬢をそっと見つめておられました。

 「夏季休暇のうちに、どうしても一度お話したいのです」と彼女から手紙を受け取ったのは一週間前のこと。

 文面に不自然な焦燥を感じ取り、お嬢様はずっと嫌な予感を覚えておられたのです。


 沈黙ののち、クラリッサ嬢がゆっくりと口を開かれました。


「まさか、わたくしに打診が来るとは思いませんでした。噂が回っていたこともあり、父は即座にお断り致しましたけれど……。」


 やはり、あの件でしたか。

 

 第二王子妃候補への“内々の”打診。

 その噂は今や社交界を駆け巡っておりました。

 クラリッサ嬢のご実家、ギシャール家は新興の伯爵家。王家が求める後ろ盾としては少し弱いものの、ご本人は成績優秀者でございます。お声がかかっていても何ら不思議ではございません。


「カトリーナ様の代わり、という意図があまりに露骨で……。正直恐ろしくてなりませんわ。」


 クラリッサ嬢は、震えを押し隠すようにして、ティーカップをそっと受け皿へ戻されます。その指先が強ばっているのが側から見てもわかりました。


「わかるわ。……わたくしも同じ気持ちよ。」


 お嬢様もそっと瞳を伏せられます。


 王家からカトリーナ嬢の“代用品”として目をつけられた。

 その事実は名誉などではなく……ご令嬢にとっては人身御供として名があがったのと同義でございましょう。

 お嬢様ご自身もまた、幾夜も眠れぬ時を過ごされておりました。


 しばし静寂が落ち、レース越しの光が二人のあいだに淡く揺れます。



「……そもそも、第二王子妃にあれほど多くを求めるのは、“真実の愛”が原因でございましょうに。」

 クラリッサ嬢の声はやりきれなさが滲んでおりました。


「愛で迎えられた王太子妃殿下は公務をほとんどなさらず……。

 その負担をすべて第二王子妃に押し付けようとするなんて、理不尽にもほどがありますわ。」


「生国で不遇の立場にあった姫君を王太子殿下が見初めて連れ帰られたのよね。

 最初は皆、温かく見守りたいと思っていたみたいだけれど……もう十年。教育すら進んでいる様子がないのは、どうしてなのかしら。」


 お嬢様はそう言いながら考え込まれます。そして、ふと疑問を口にされました。


「ねえ、クラリッサ。もし王太子殿下が見初めたお相手が国内の娘だったら、どうなっていたと思う?」


 クラリッサ嬢は一度まぶたを閉じ、静かに思案されました。

 やがて、確信を帯びた声音で答えます。


「確実に政略結婚の体裁になったと思います。身分が低い娘なら、高位貴族家に養女縁組させた上での輿入れでしょう。

 そうでなければ、貴族社会が納得いたしませんもの。」


「……やっぱりそうよね。」


 お嬢様はわずかに唇をかみ、目を伏せられました。

 愛の対象を変えただけで、“真実の愛”なんて、愛妾を妃にするための詭弁にしか聞こえなくなる。

 そんな皮肉が胸に刺さります。


「そして、その娘が公務をこなせないなら……。」

 クラリッサ嬢の視線が、わずかに鋭くなりました。


「養親家の女性親族が女官として派遣され、妃殿下の補佐をすべて担うでしょう。

 歴史書には、そうした『影の妃』の存在を匂わせる記述がいくつもございます。」


 影の妃。

 真実の愛の裏側で、公務の全てを背負わされる、名誉を剥ぎ取られたご令嬢。


 その姿がありありと浮かび、お嬢様の胸にぞっとする冷気が落ちました。


「真実の愛で迎えた妃殿下が甘やかされて、その尻拭いを別の高位貴族の娘が一生担う……そんな構図は変わらないのね。」


 お嬢様は大きな吐息を漏らし、苦く笑われます。


「こうして考えると、真実の愛って……災厄の別名みたいだわ。」


「ええ、本当に。恋愛至上主義なんて、結局得をするのは殿方と下の階層の娘なのです。

 学園にもおりますでしょう? 最初から愛人狙いのご令嬢が。」


 クラリッサ嬢の口調は侮蔑的で、しかしどこか諦念を含んでいました。

 貴族の娘ゆえに、理不尽な現実を嫌というほど見てきたのでしょう。


「なんだか恋愛に憧れていた自分が、恥ずかしく思えてくるわ。」


 お嬢様の呟きは静かでしたが、痛みが滲んでいました。


「やっぱり、貴族の結婚は政略と契約があってこそね。」


「ええ。わたくしも改めて思い知らされました。」


 ふたりは短い沈黙ののち、目を合わせます。

 外では蝉の声が満ちているというのに、サロンに落ちる影だけが、夏とは思えぬほど濃く、長く伸びていったのでございました。



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