ヘーゲル公爵視点: 貴族の誇り
王家からの“内々の打診”を読み終えた妻、アレクサンドラは、しばし沈黙した。
手紙を握る指先が、かすかに震えている。
やがて、凍るような声が落ちた。
「……同じことを、また繰り返すつもりなのね。どんなに学ばないの、あれは。」
あれ、と呼ばれたのは彼女の実弟。つまりこの国の国王である。
私は無言で机上の書簡を見下ろす。
そこには、王家の傲慢を象徴する文言が並んでいた。
『第二王子アルノルトとヴァルトハイム公爵家カトリーナの婚約は解消予定である。ついては次男ジークフリートにカトリーナを娶らせよ。
報償としてジークフリートには一代限りの伯爵位を与える』とある。
「……まるで、十年前と同じだな。」
思わず漏れた独り言に、妻はかすかに眉を動かした。
十年前。王太子が恋に溺れて婚約を破棄したあの事件。
王太子妃となる未来を突然奪われた侯爵令嬢の“後始末”はヘーゲル家に押しつけられた。
長男ラインハルトが急遽その娘を娶ることになったのだ。……元の婚約を勝手に解消させられた上で。
王家の“愛”の犠牲となった者たちの痛みを、我々は誰よりも知っている。
幸いなことに、今の長男夫婦は互いを尊重し、穏やかな家庭を築いている。
あの苦い年月を経て、やっと掴んだヘーゲル家の平穏を、また王家が踏みにじろうとしているのだ。
妻は唇を噛み、低い声で吐き捨てた。
「用済みにした娘を押しつける見返りが一代伯爵位程度? どこまでもこちらを馬鹿にしているわね。あの女の入れ知恵かしら。」
あの女、とは王妃のことだ。
“愛こそ王家の力”と唱えながら、己の気まぐれを国政に混ぜる。
夫である国王もまた、それを甘やかして容認する。
この国で最も厄介な“愛”は、まさに王宮に巣食っていた。
私は書簡を丁寧に折りたたんだ。
驚きはない。ただ、静かな怒りだけが胸の底に沈殿していった。
そこへ、控えめなノックが響いた。
「エーデルシュタイン侯爵から、極秘の使者が参っております。至急とのことです。」
「通せ。」
届いた封筒には侯爵家の印章。
封を切って文面に目を通すうちに、背筋が冷たくなった。
リリアーナ嬢を、第二王子の新たな婚約者として迎え入れる打診があったというのだ。
侯爵はすでに辞退したそうだが。
読み終えるより早く、室内の空気が張り詰め始めた。
妻の目に、冷ややかな炎が宿る。
「……わたくしの息子、全員に手を伸ばしたというわけね。」
怒りを押し殺したその声の中に、底知れぬ冷徹さがあった。
長男ラインハルトは十年前、王太子の恋の尻拭いを押しつけられ、
次男ジークフリートには今、“お下がり”の婚約が。
そして三男ユリウスの婚約者リリアーナにまで、王家の手が伸びようとしている。
アレクサンドラはゆっくりと立ち上がった。
その姿勢ひとつに、社交界を二十年支配してきた女帝の威厳が宿る。
怒りを笑みに変え、静かに告げる。
「よろしい。ここまで軽んじられたなら、わたくしもあくまで公爵家の人間として立つまでよ。
血縁は、免罪符になどならないわ。」
その瞬間、私は確信した。
彼女は、もう止まらない。
十年前、王家の不始末を和解として収めたのは彼女だった。
自らの怒りを飲み込んで貴族たちの動揺を鎮め、王権の体面を保たせた。
だが今回は違う。
王家は彼女の矜持そのものを踏みにじったのだ。
妻は手際良く指示を出し始めた。
「ジークには、カトリーナ嬢を引き受ける意志がないことを明言させなさい。
エーデルシュタイン家には我々の全面的な支持を伝えましょう。ユーリにはリリアーナと密に連絡を取らせてちょうだい。
ヴァルトハイム家にも密使を。娘を守る道を共に探ると伝えて。」
その声音は凍るように冷たい。
けれど同時に、恐ろしいほど理性的でもあった。
王家の“愛”に対抗するには、“理”と誇りで封じるしかない。
彼女は、その戦い方を知っている。
窓の外には満ちかけた月が昇り、王都を淡く照らしていた。
王と王妃は今宵も王宮で「愛の物語」を紡いでいるのだろう。
だが、国は劇場ではない。
十年前の事件を機に、貴族たちは学んだ。
王家の気まぐれがいかに国を蝕むかを。
そして今、貴族たちは盲従をやめ、貴族院の権限を強めている。
王命ひとつで動く時代は、もう終わったのだ。
妻が、静かに言葉を落とす。
「守りましょう、あなた。わが家を。そして、この国を。」
その声に、胸の奥が震えた。
「国は王家のものではない。
王家こそ、国のためにある。……そう教えられて育ったの。」
その夜、ヘーゲル公爵家は静かに決意した。
再び、王家に“理”を思い出させるために。
愛に酔う愚王たちに、国を壊させぬために。




