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侯爵視点:父の苦悩

 王家の封蝋が押された封筒を受け取った瞬間、胸の奥に嫌な予感が走った。

 “内々のご相談”。その前置きが付いた文に、ろくな話があったためしがない。


 封を切ると、文面は短く、しかし内容はひどく重かった。

 第二王子殿下の婚約者であるヴァルトハイム公爵令嬢に代わり、我が娘リリアーナを王子妃に迎えたいという打診。


 思わず息を呑んだ。

 だが使者の口調は、まるで既定事項を淡々と読み上げるように滑らかであった。


「正式な決定ではございません。ただ、陛下並びに王妃殿下のご意向として……」


 あくまで“内々”の話だと強調される。

 記録にも残らず、失敗しても誰も責任を負わない。

 それが王家の常套手段であることくらい、私とてわかっている。


 ──だが。


 まさか、あのヴァルトハイム家を切り捨てようというのか。


 確かに、カトリーナ嬢の学園での“ご指導事件”以来、宮中では彼女の王子妃としての資質を問う声がくすぶっている。

 しかし同時に、これまで彼女が課されていた王子妃教育の異常さも明るみになった。

 余暇を与えない詰め込み教育に、完璧以外を許さない指導。王家への過度な奉仕の姿勢はもはや洗脳と言ってもいいだろう。

 それを指示したのは紛れもなく王家自身だ。


 それなのに、彼女がああなった責を取るどころか、悪評がたったと見てさっさと別の娘にすげ替えようとは……。


 私は深く息を吐き、使者に告げた。

「そのお話、お受けいたしかねます。

 当家のリリアーナは一人娘です。ヘーゲル家のユリウス殿と既に婿入りの縁組も定まっておりますので。」


 ところが、使者は食い下がった。

「しかし侯爵閣下。弟君にはご息女がいらっしゃるでしょう。

 リリアーナ嬢の代わりにイライザ嬢を養女として迎えればヘーゲル家との縁組は保て、家門も存続できるはずです。」


 侯爵家の内情にそこまで介入してくるか。

一瞬、頭の血が逆流する。


 貴族家も娘も、王家にとっては単なる“盤上の駒”。その見下しをまざまざと突きつけられた気分だ。


 特に姪のイライザの名を出したことは、私にとって挑発以外の何物でもなかった。

 あれは幼い頃から従姉のリリアーナを羨み、「ずるい」「私も」と繰り返すだけの思慮の足りない娘だ。

 努力もせず立場だけを欲し、嫉妬に生きるその気質は、父親である私の弟の若き日の姿にそっくりだ。

 そんな者をリリアーナの代わりに侯爵家の婿取り娘に据えるなど狂気の沙汰である。



「──よろしいですかな。」

 低く言い放った声は、とても自分のものとは思えなかった。

「今のご婚約を押し退け、我が家の娘を差し出す意志は一切ございません。

 ヴァルトハイム公爵家ですら満足な後ろ盾とならぬのであれば、当家では到底お役に立てますまい。

お引き取り下さい。」


 明確な拒絶の意思を示すと、使者は言葉を失い頭を下げて退出した。

 その背中を見届け、私は机の縁を強く握りしめた。

 掌に残る爪痕の痛みが、わずかに現実へと引き戻す。


 執務室に静寂が戻る。

 窓の外では夏の陽が沈みかけていた。


「……十年前の悪夢、再びか。」


 あのときも、王家は己の都合で貴族を振り回した。

 王太子殿下が他国の王女に心を奪われ、定まっていた婚約を一方的に破棄したのだ。

 “王家の愛”の名のもとに、どれほどの貴族家が傷つき、混乱したことか。

 私はその現場を、この目で見ている。


「ヘーゲル公爵夫人は……どうお考えだろう。」

 王の姉にして、いまも社交界の実質的な頂点に立つ女性。

 十年前、王家の不始末を収めたのは、彼女の采配だった。

 考えてみれば、リリアーナの婚約者がユリウス君であるからこその王子妃打診かもしれない。

 今回も、また王家は同じように“身内の公爵家”に火消しを押しつけているのだろうか。  


 私は筆を執り、ヘーゲル家宛てに極秘の書状をしたためた。

 表向きは「王家からの打診に対する辞退の報せ」。

 だがその裏には、ただ一つの願いを込めた。


 正式な命令になる前に、誰の耳にも届かぬうちに潰す。

 娘を、愚かな王家の駒にされてたまるものか。


 ふと筆を置き、窓の外を見る。

 夏の夕陽が屋敷の屋根を紅く染めていた。

 光の中に、幼い日の娘の姿がよぎる。

 花冠を被り、「わたくしはお姫様よ」と笑っていた小さなリリアーナ。


 胸の奥が、きゅうと痛む。


「許せ、リリアーナ。」

 私は静かに呟いた。

「本物の“お姫様”になる話を断ってしまった。」


 だがそれは、父としての決断だ。

 ヴァルトハイム嬢を見ればわかる。

 “王家の妃”など、栄光ではなく鎖だ。

 笑顔も自由も奪われ、王家の体面を飾るために消耗していく運命。

 そんな場所へ、娘を送り出せるはずがない。


 溶かした蝋を垂らし、印章を押す。

 赤い封蝋が固まり、静かに光を返した。

 その光は、血のように紅く見えた。

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