9 黄金が黄金もたらす
新メニューの投入は、燃え盛る炎に極上の油を注ぐようなものだった。
『旅人の食卓』は、もはやただの「コロッケが美味い店」ではなかった。美しい『大地の恵みの彩りプレート』を目で楽しみ、『熟成ボアのジューシーステーキ』で胃袋を鷲掴みにされ、そして絶対的エースである『黄金のコロッケ定食』で完全にノックアウトされる。その日の気分で選べる二色の魔法ソースも、リピーターたちの心をがっちりと掴んで離さなかった。
店の前に行列ができるのは、もはや日常の風景となった。嬉しい悲鳴とは、まさにこのことだ。私たちは、日の出とともに起き出して仕込みを始め、日が暮れて全ての材料が尽きるまで、文字通り馬車馬のように働いた。
忙しく、目まぐるしい毎日。だが、不思議と辛くはなかった。厨房に響く家族の威勢のいい声、ホールに溢れる客たちの「美味い!」という歓声、そして毎晩、閉店後に数える銀貨の山。そのすべてが、私たちの疲労を充実感という名の蜜に変えてくれた。
「……すごいわ。また今週も、先週の売上を超えている……」
ある日の閉店後、母さんが帳簿をつけながら、信じられないというように呟いた。店の奥に隠された頑丈な木箱の中には、もう入りきらないほどの銀貨が、鈍い輝きを放っている。
この1ヶ月の売上は伸びに伸び、ついに日本円にしておよそ500万円、金貨50枚分ほどの売上になっていた。
「お父さん、お母さん。提案があるわ」
私は、家族会議を招集した。
「これだけの現金を、ずっと店に置いておくのは物騒よ。町の商人ギルドが運営している銀行に、預けに行きましょう」
「ぎ、銀行!?」
父さんの声が裏返った。銀行とは、この町では大商人や貴族が利用する場所だ。私たちのような貧乏料理屋には、これまで全く縁のない世界だった。
翌日。
父さんは、生まれてめったに着ない、一番マシな服に身を包み、銀貨が詰まった重い革袋を、まるで爆弾でも運ぶかのように、胸に固く抱きしめていた。その顔は緊張で真っ青だ。
「ユーユ……本当に大丈夫だろうか。途中で悪い奴に襲われたりしないだろうか……。俺たちが銀行なんて行ったら、門前で塩を撒かれたりしないか?」
「大丈夫よ。白昼堂々、人通りの多い大通りを行くんだから。それに、今の私たちは、ギルドにとっても立派なお客様よ」
父さんのあまりの緊張ぶりに、私は思わず苦笑してしまった。
商人ギルドの重厚な扉をくぐると、そこは静まり返った別世界だった。ひんやりとした大理石の床に、私たちの足音が響く。対応してくれた職員の男性も、最初は私たちの貧しい身なりを見て、少し訝しげな顔をしていた。しかし、父さんがおずおずとカウンターの上に出した革袋から、銀貨がざらりとこぼれ落ちるのを見て、その態度を百八十度変えた。
「こ、これは……! 『旅人の食卓』様でいらっしゃいますね! いつも素晴らしい噂はかねがね伺っております! さあ、どうぞこちらの上等な個室へ!」
職員は、慌てて私たちを奥の個室へと案内した。現金とは、本当に分かりやすい力だ。
父さんは、生まれて初めての預金手続きに、署名をする手がブルブルと震えていたが、無事に全ての銀貨を預け終えると、全身から力が抜けたように、ふう、と大きなため息をついた。
「さあ、お父さん。今日の目的は、もう一つあるわよ!」
銀行から解放されたその足で、私たちは町一番の高級服飾店が立ち並ぶ通りへと向かった。
「今日、ここで、家族全員分の新しい服を、好きなだけ買うの!」
「「「ええええっ!?」」」
父さん、母さん、そしてラーラの驚きの声が、綺麗にハモった。
店に足を踏み入れると、ふわりと新品の布の匂いがした。色とりどりのドレスやシャツが、美しく並べられている。以前の私たちなら、店の前を通り過ぎるだけで、惨めな気持ちになったであろう場所だ。
「さあ、みんな、遠慮しないで! 好きなのを選んで!」
私の言葉に、みんな最初は戸惑っていたが、ラーラが、おずおずと一着のワンピースに手を伸ばしたのを皮切りに、少しずつ自分の欲しい服を探し始めた。
私は、自分のためには、厨房でも動きやすいように、それでいて少しだけデザインの凝った深緑色のワンピースを選んだ。
母さんには、落ち着いた藤色で、胸元に上品な花の刺繍が施された、お出かけ用のドレスを。
父さんには、今まで着ていたヨレヨレのシャツとは違う、体にぴったりと合った、丈夫で仕立ての良い茶色のシャツとズボンを。
ルークには、まるで小さな船乗りさんみたいな、白いセーラーカラーの可愛らしい上下セットを。
そして、ラーラは。
彼女は、ずっと、ずっと夢見るような瞳で、一着のワンピースを見つめていた。
それは、空の色を映したような、淡い水色の生地に、白いフリルと小さなリボンがたくさんあしらわれた、まるでおとぎ話のお姫様が着るような、可愛らしいドレスだった。ショーウィンドウに映る自分のツギハギの服と、そのドレスを交互に見て、小さくため息をついている。
「ラーラ、あれがいいの?」
私が尋ねると、彼女はこくりと頷いた。でも、すぐに「ううん、でも、すごく高いから……私には、もったいないよ」と、首を横に振る。
私は、そんな妹の頭を優しく撫で、店員さんを呼んだ。
「すみません。この子のために、あの水色のワンピースをください。それから、ここにいる全員の下着と靴下、それから丈夫な新しい靴も、全部お願いします」
会計を済ませ、たくさんの紙袋を抱えて店を出る。
ラーラは、自分の新しいワンピースが入った袋を、宝物のように、ぎゅっと胸に抱きしめていた。そして、その大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと、涙がこぼれ落ちた。
「……夢みたい。私、こんなに綺麗な服、着てもいいの……? 嬉しい……嬉しいよぉ、お姉ちゃん……」
しゃくりあげながら、ラーラは私に抱きついてきた。
その小さな背中を抱きしめながら、私は改めて心に誓った。
(私の可愛い妹。あなたの涙は、もう、悲しい涙じゃなくて、こういう嬉しい涙だけにする。絶対に、守り抜いてみせるからね)
◇
変化は、それだけでは終わらない。
数日後の家族会議で、私は新たな提案をした。
「お店で働くときの、お揃いの衣装……ユニフォームを作りましょう!」
「ゆにふぉーむ?」
聞き慣れない言葉に、家族全員が首を傾げた。
「ええ。お客さんから見て、誰が店の人か一目で分かるようにするの。それに、家族みんなで同じ服を着れば、気持ちも一つになるし、プロ意識も高まるわ。良いチームは、見た目から入るものよ」
この世界では、店の人間が揃いの衣装を着るなど、王宮の料理人くらいなもので、庶民の店では前代未聞だった。私は、デザイン画を描いてみんなに見せた。汚れが目立ちにくい、落ち着いた濃紺色のエプロン。
その胸元には、黄金色の糸で刺繍された、丸くて可愛いコロッケのマーク。そして、その下には『旅人の食卓』という店名が、美しいアーチ状にデザインされている。
「まあ、可愛い!」
「コロッケのマークか! なるほどなあ」
デザインは、家族にも好評だった。私は、その足で、町で一番腕が良いと評判のミエッパの家……ではなく、その隣にある、実直な仕事をする小さな仕立て屋に、家族全員分のユニフォームを注文した。
そして、二週間後。仕上がったユニフォームが、店に届けられた。早速、みんなで着てみて、店の大きな鏡の前に並んでみる。
「おお……」
「まあ……」
父さんと母さんは、なんだか照れくさそうに、でも、満更でもないといった表情で、互いの姿を見ている。
「なんだか、背筋が伸びる気分だな」
「ええ。本当に、私たちがこのお店の人間なんだって、実感できるわね」
ラーラとルークは、お揃いのエプロンが嬉しいのか、くるくるとその場を回ってはしゃいでいた。胸元のコロッケのマークが、私たちの誇りの象徴のように、キラリと輝いていた。
◇
そんな、目まぐるしくも充実した日々の中で、瞬く間に二ヶ月が過ぎ去った。
新しい服を着て、学校へ行く。いじめっ子五人組は、相変わらず、私たちを見つけるとひそひそと悪口を言い合っている。
「……なんだよ、いい服着やがって」
「どうせ、コロッケで儲けた汚い金だろ」
「ブルゲルさんの旦那が言ってたぜ、『旅人の食卓』のせいで、懇意にしてる宿屋の客が減ったってよ」
だが、その声には、以前のような力強さも、自信もなかった。聞こえてくるのは、自分たちの優位性が完全に崩れ去ったことへの、嫉妬と焦りが混じった、弱々しい負け犬の遠吠えだけだ。
彼らはもう、私たちの敵ですらなかった。
そんなある日の学校からの帰り道。
私とラーラが、今日の夕食は何だろうと話しながら歩いていると、後ろから、おずおずとした小さな声が聞こえた。
「あ、あの……ユーユさん、ラーラちゃん」
振り返ると、そこに立っていたのは、クラスメイトのエリーだった。亜麻色の髪を三つ編みにした、そばかすの可愛い、おとなしい印象の少女だ。以前、ワリーたちにいじめられていた時、教室の隅で、唇を噛みしめ、悔しそうな顔で私たちを見ていた子だ。
「エリーさん。どうしたの?」
私が尋ねると、エリーはぎゅっとスカートの裾を握りしめ、意を決したように顔を上げた。
「あのね……ずっと、謝りたかったの」
「謝る?」
「うん……。あの時、ワリーくんたちがひどいことをしていたのに、私、怖くて何も言えなくて……。ラーラちゃんが転ばされた時も、ユーユさんが石をぶつけられた時も、見てるだけしかできなかった。本当に、ごめんなさい……!」
そう言って、エリーは深々と頭を下げた。その声は震えていて、ずっとこのことを気に病んでいたのが伝わってくる。ラーラは、きょとんとした顔でエリーを見上げていた。
私は、そんな彼女の前にしゃがみこみ、視線を合わせて優しく微笑んだ。
「顔を上げて、エリーさん。謝ることなんて、何もないわ」
「でも……!」
「そんなことないよ」
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「エリーさんが、私たちを心配してくれていたのは、顔を見れば分かっていたから。見て見ぬふりをする人が多い中で、その気持ちだけで、私たちはすごく嬉しかった。助けられたんだよ。だから、ありがとう」
私の言葉に、エリーは驚いたように顔を上げた。その大きな瞳には、うっすらと涙の膜が張っている。
五十年の人生経験は、伊達じゃない。人の心の機微には、少しだけ敏感なのだ。見て見ぬふりをする無関心と、勇気が出せずに動けない後悔は、全く違う。この子は、とても優しい子だ。
「……よかった」
エリーは、ほっとしたように息を吐き、そして、はにかむように微笑んだ。その笑顔は、雨上がりの虹のように綺麗だった。
「あのね……」
エリーは、少しもじもじしながら、続けた。
「お店、いつもすごい行列だよね。コロッケ、すごく美味しいって町中の評判だよ。お父さんもお母さんも、毎日話してる。私も……その……いつか、食べに行っても、いいかな?」
憧れと、少しの遠慮が混じった、可愛らしいお願い。
私は、満面の笑みで立ち上がった。
「もちろん! 大歓迎だよ! 今度、エリーさんのために、とびっきり美味しいコロッケを揚げてあげる。友達、第一号の特別サービスでね!」
「……え?」
エリーは、ぽかんとした顔で私を見つめている。「友達」という言葉が、すぐには理解できなかったようだった。
「ともだち……? 私が、ユーユさんたちの?」
「そうよ。私たち、もう友達でしょ?」
私がにっこり笑うと、隣にいたラーラも、状況を理解したようだった。
「わーい! エリーちゃん、お友達! 今度、一緒にお店に来てね! ルークもいるよ!」
ラーラが、無邪気にエリーの手に飛びついた。
「……うんっ!」
エリーの顔が、ぱあっと花が咲くように明るくなった。その瞳から、今度は嬉し涙が、一粒、ぽろりとこぼれ落ちた。
その日の帰り道は、いつもよりずっと賑やかだった。
三人で手をつないで、コロッケの話や、学校の先生の話、好きな花の話、たくさんのことをおしゃべりしながら歩いた。ラーラが、心から楽しそうに笑っている。その隣で、エリーも、はにかみながらも嬉しそうに笑っている。
(友達、か……)
五十年の孤独な人生では、ついぞ縁のなかった言葉。
仕事仲間はいても、心を許せる友はいなかった。
この異世界に来て、温かい家族ができた。そして今日、初めて、家族以外の「絆」が生まれた。
異世界で初めてできた、大切な友達。
守りたい宝物が、また一つ増えた。
この温かくて、少しくすぐったいような幸せを、私は絶対に手放さない。
空を見上げると、アッシュフォードの空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
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