7 黄金色の進撃
昨夜、家族で流した温かい涙の味は、まだ私の胸の奥でじんわりと熱を持っていた。しかし、いつまでも感傷に浸っている暇はない。戦いは、今日からが本当の始まりなのだ。
朝一番、私は家族全員を叩き起こした。
「さあ、みんな起きて! 夜明けよ! 今日は昨日以上の戦いになるわよ!」
私の檄に、まだ眠そうだった父マークと母リリアの顔が、ぴりりと引き締まる。ラーラとルークも、眠い目をこすりながらもベッドから飛び起きた。昨日の、あの圧倒的な成功体験が、家族から長年染み付いていた諦めの色を拭い去り、代わりに闘志という名の新しい輝きを与えていた。
「よし、やるぞ!」
父さんが、力強く腕まくりをする。
「みんな、エプロンはしっかり締めて! 今日は忙しくなるわよ!」
母さんの声も、いつになく張りがあった。
厨房は、早朝からフル稼働だ。
仕入れる食材の量が、昨日とは桁違いだった。市場のポポイモ屋のおじさんが、「嬢ちゃん、あんたんところ、一体何があったんだい? 八百屋でも始めるのかい?」と目を丸くするほどの量を買い占める。
肉屋の主人も、山のようなボアの端切れ肉を前に「こんなにどうするんだ?」と呆れていたが、私が銀貨で前払いすると、途端に「へへ、毎度あり! 足りなくなったらまたすぐに来なよ!」と満面の笑みになった。現金とは、実に分かりやすい力だ。
「お父さん! ポポイモは昨日よりもしっかり柔らかくなるまで蒸して! 舌触りが命よ!」
「おう、任せとけ! 俺はもうポポイモと会話ができる気さえするぜ!」
「お母さん! ルタオニオンは絶対に焦がさないで! でも、甘みは最大限に引き出すのよ!」
「ええ、分かっているわ! この子たちの甘い声を、私が一番知っているもの!」
家族の連携は、昨日よりもさらに洗練されていた。父さんはもはや「ポポイモ潰しのマーク」とでも言うべき風格を漂わせ、母さんは「飴色玉ねぎの魔術師リリア」の域に達しつつある。
ラーラは小さな体で一生懸命にパン粉用の古黒パンを砕き、「お姉ちゃん、これくらいでいい?」と確認に来る姿も頼もしい。ルークは「がんばえー!」と可愛い声援を送りながら、母の足元で野菜の皮むきを手伝う真似事をしていた。
昼の営業開始時間には、二百個を超えるコロッケのタネが、完璧な状態で出撃準備を整えていた。
「よし、開店よ!」
父さんが店の扉を開けた瞬間、私たちは言葉を失った。
店の前には、昨日とは比べ物にならないほどの人だかりができていたのだ。その列は、道の向こう側まで続いている。
「おい、開いたぞ!」
「昨日の噂のコロッケ、まだあるか!?」
「連れに美味いって聞かされて、馬車で隣町から来たんだ! 食わせろ!」
人々の熱気に満ちた声が、波のように押し寄せてくる。
開店と同時に、二十席ほどの小さな店内は、あっという間に満席になった。店の外の行列は、少しも短くなる気配がない。
「コロッケ定食、一つ!」
「こっちのテーブルは四つだ!」
「奥の席、二つ追加!」
注文の嵐が、厨房に叩きつけられる。
「さあ、いくわよ!」
私の号令一下、厨房は戦場と化した。私は司令塔として、全体の流れを把握し、的確な指示を飛ばす。
「お父さん、揚げ担当! 油の温度、常に一定に保つのを忘れないで! 一つ一つの出来栄えが、店の評判になるのよ!」
「お母さんとラーラは、ホール担当! どんなに忙しくても、笑顔を忘れずにね! 美味しい料理は、笑顔で食べるともっと美味しくなるんだから!」
「ルークは、お皿を拭くお手伝い! 十枚拭くごとに、銅貨を一枚あげるわ!」
「やったー!」
ジュワアアアアッ! ジュワアアアアッ!
鍋の中では、常に複数のコロッケが美しい黄金色に染まっていく。その抗いがたいほど香ばしい匂いが、客たちの期待をさらに煽りに煽った。
「うめえええっ! なんだこれ! 昨日より美味くなってないか!?」
店の一角で、ひときわ大きな声で叫んだのは、昨日の立役者、ジョーおじさんだった。彼は今日、職場の仲間を十人近く引き連れてきてくれていた。
「ほらな、言った通りだろ! ここのコロッケは、アッシュフォードの宝だぜ!」
得意げに語る彼の言葉が、最高の宣伝文句になった。
「むぅ…銀貨一枚とは強気な値段だと思ったが…これは、むしろ安い! この味なら金貨一枚でも出すぞ!」
と裕福そうな商人が唸る。
「きゃっ、美味しい! 皮がサクサク! 油っこくなくて、いくつでも食べられちゃいそう!」
と若い女性客が歓声を上げる。
「腹にたまるし、何より美味い。旅の疲れが吹き飛ぶようだ」
と屈強な旅の剣士が満足げに頷く。
作っても、作っても、注文は止まらない。揚げたてのコロッケが皿に載せられ、ホールに運ばれると、次の瞬間にはもう空の皿が厨房に戻ってくる。その無限とも思える繰り返し。
家族全員、汗だくで、声を張り上げ、休む暇なく動き続けた。疲労困憊のはずなのに、誰もが笑っていた。客たちの「美味しい!」という言葉と、満足そうな笑顔が、私たちにとって何よりの栄養ドリンクだった。
昼の営業が終わる頃には、用意していた二百個以上のコロッケは、跡形もなく消え去っていた。一度、店の扉を閉め、私たちは息つく暇もなく夜の部のための仕込みに取り掛かる。そして、陽が落ちてからの夜の営業も、昼と全く同じ、あるいはそれ以上の大盛況となった。
ついに、山のようにあったポポイモも、樽いっぱいだったラーナ油も、全てが尽きた。
父さんが、震える手で『本日完売』の札を店の扉にかけた時、店内に残っていた客たちから、健闘を称えるような温かい拍手が送られた。
◇
客が去り、静寂が戻った店内。テーブルの上には、今日の稼ぎである、大量の銀貨と銅貨が、まるで宝の山のように積み上げられていた。家族全員が、息を呑んでその光景を見つめている。
「……数えるわね」
私が代表して、硬貨を種類ごとに分け、数を数え始めた。家族全員が見守る中、カラン、カラン、と銀貨がテーブルに置かれる乾いた音だけが響く。一枚、二枚……銀貨の山が、みるみるうちに高くなっていく。
「……合計、銀貨百二十枚。銅貨が二十五枚」
私が結果を告げると、父さんは「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
「ぎ、銀貨百二十枚……? ユーユ、何かの間違いじゃないのか? 今までの、うちの一ヶ月分の売上よりも、多いじゃないか……」
「あなた……これだけあれば、子どもたち三人に、ずっと我慢させていた新しい靴を……それも、一番いいやつを買ってあげられるわ……」
母さんは、目に涙を浮かべている。
「わー、きらきら!」
ラーラとルークは、ただ目の前の輝く山にはしゃいでいた。
「間違いじゃないわ、お父さん。これが、今日の私たちの成果よ」
銀貨百二十枚。前世の金銭感覚に換算すれば、およそ十二万円。恐るべき低コスト経営のおかげで、原価は二割にも満たない。つまり、今日一日の儲けは、十万円弱。
しがない契約社員だった佐藤祐子の月給が、手取りで二十万円ちょっとだったことを考えると、これは驚異的な数字だ。
この日は、貧乏料理屋『旅人の食卓』にとって、そして私たち家族にとって、経営が、いや、人生が大きく変わる、記念すべき節目の日となった。
◇
その夜、私たちは、閉店後のダイニングテーブルで、改めて家族会議を開いた。興奮と疲労で、みんな少しふわふわしている。
「みんな、聞いて」
私が切り出すと、全員の視線が私に集まった。もう、誰も私の言葉を疑わない。父さんも母さんも、全幅の信頼を寄せた目で、私の次の言葉を待っていた。
「今日の成功は、本当に素晴らしいわ。でも、ここで満足してはいけない。私は、この店を、アッシュフォードで一番の店にしたいの」
「一番の店に……」
父さんが、ごくりと喉を鳴らす。
「だから、今後の戦略を決めたい。私の考えでは、しばらくは新メニューは作らない。コロッケ一本でいくわ」
「え? 新しい料理は作らないのかい?」
母さんが、意外そうに尋ねた。
「ええ。今は、とにかくこのコロッケの味を、この町の隅々まで浸透させることが最優先よ。『旅人の食卓に行けば、最高のコロッケが食べられる』。このブランドイメージを、確固たるものにするの。メニューを増やすのは、それからでも遅くないわ」
「なるほどな……。一つの武器を、とことん磨き上げるわけか」
父さんは深く頷いた。
「でも、もちろん、何もしないわけじゃない」
私は、人差し指を一本立ててみせた。
「二つのことをやるわ。一つは、今までの定番メニューの、徹底的なブラッシュアップ」
私は、壁にかかった古いメニュー札を指さした。
「『ボアの塩焼き』と、『温野菜の盛り合わせ』。この二つを、コロッケに負けないくらい、美味しくするの。例えば、ボア肉は、筋を丁寧に切って、甘い果実の汁に漬け込んでから焼けば、驚くほど柔らかくジューシーになるはず。盛り合わせも、ただ茹でるんじゃなくて、蒸したり、あるいはうちの特製スープで煮込んだりすれば、全く別の料理になるわ」
「ボアの塩焼きか……俺の唯一の得意料理だと思っていたが、そんなやり方があったとは……」
父さんの目に、料理人としての探究心の火が灯った。
「そして、二つ目。これが、これからの最重要課題よ」
私は、ぐっと身を乗り出した。
「ボア肉とコロッケに合う、『特製ソース』を開発するの」
「ソース?」
「ええ、ソースよ。そのままでも美味しいコロッケだけど、このソースをかけることで、さらに味に変化が生まれて、何度食べても飽きない、究極の一品に昇華させるの。甘いソース、少し酸っぱいソース、ピリッと辛いソース……可能性は無限大だわ!」
私の頭の中には、前世の知識に基づいた、デミグラスソース、トマトソース、タルタルソースなど、無数のソースのレシピが渦巻いていた。
私の語る未来のビジョンに、家族は完全に圧倒されていた。
「甘いソースがいい!」
「僕はピリッとするのがいいな!」
「チーズみたいなのも美味しそうね!」
やがて、家族みんなで「どんなソースがいいだろう」と目を輝かせて話し始めた。その光景に、私の胸は温かくなった。
最後に父さんが、深い感動を込めた声で言った。
「……分かった。ユーユの言う通りにしよう。俺たちは、お前を信じる。お前のやりたいように、やってみてくれ」
「ありがとう、お父さん」
こうして、『旅人の食卓』の新たな方針は決定した。
コロッケを絶対的なエースとし、既存メニューの強化と、秘密兵器「ソース」の開発で脇を固める。
貧乏料理屋の反撃は、まだ始まったばかりだ。
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