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6 反撃の狼煙は、黄金色

学校から帰宅した私の只ならぬ気配に、父さんと母さんは完全に気圧されていた。私の背後に、怒りに燃えるオーガか何かが見えていたのかもしれない。無理もない。私の内側では、妹を傷つけられた怒りと、彼女の健気な嘘に対する愛しさと、そしてこの理不尽な状況への反抗心が、煮えたぎる溶岩のように渦巻いていたのだから。


「お父さん、お母さん」


私はダイニングテーブルに両手をつき、二人の顔をまっすぐに見据えて言った。


「コロッケ、今日から売りましょう。私に、考えがあるの」


その声には、もう子供の甘えなど微塵も含まれていなかった。それは、愛する者たちを守るため、戦場に赴くことを決めた指揮官の声音だった。


「きょ、今日からって……ユーユ、あまりに急じゃないか?」


父さんが、たじろぎながら反論する。


「そうよ、心の準備も……それに、本当に売れるかどうかも分からないのに」


母さんも不安げに眉を寄せた。

二人とも、昨夜のコロッケの味に感動したのは事実だ。だが、それを商売にするとなると話は別。長年の経営不振と、日々の苦労が、二人を臆病にさせていた。


「大丈夫。絶対に売れるわ」


私はきっぱりと言い切った。


「メニュー名は『黄金のコロッケ定食』。あの大きなコロッケを二つ。それに、いつもの黒パンをつけて出すの」


「黄金のコロッケ定食……」


「そして、値段は『旅人セット』と同じ、銀貨一枚よ」


「銀貨一枚!?」


今度こそ、父さんは椅子から飛び上がらんばかりに驚いた。


「無茶だ、ユーユ! 旅人セットの原価と、このコロッケの原価は比べ物にならないんだぞ! なのに同じ値段なんて、そんな暴利が許されるわけ……」


「許されるのよ、お父さん」


私は、父さんの言葉を遮った。その瞳には、燃えるような光が宿っていた。


「お客さんは、原価を食べるんじゃない。味と、満足感を食べるの。あのコロッケには、銀貨一枚を払う価値が十分にある。原価が安い分、うちの儲けが大きくなる。それの何が悪いの? 私たちは、もっと儲けなくちゃいけないのよ。ラーラやルークに、お腹いっぱいご飯を食べさせて、綺麗で温かい服を買ってあげるために! もう、誰にもみすぼらしいなんて言わせないために!」


最後の言葉に、学校での出来事への怒りが滲む。そうだ、これは、ただの商売じゃない。私たちの生活と尊厳をかけた、戦いなのだ。


私の気迫と、子どもの名前を出されたことで、両親はぐっと言葉に詰まった。しかし、その顔にはまだ拭いきれない不安の色が濃い。それを見て、私は少しだけ戦略を変えることにした。


「……分かったわ。そんなに心配なら、こうしましょう。今日は『お試し』として、限定十食だけ売ってみるの。それで売れ残ったら、私の負け。もう二度と、コロッケを売ろうなんて言わない。でも、もし全部売れたら……明日からは、本格的に看板メニューにする。これでどう?」


限定十食。その具体的な数字が、二人の不安を少しだけ和らげたようだった。最悪、十食分の材料費が無駄になるだけで済む。それなら、とんでもない博打というわけでもない。


「……分かった。ユーユがそこまで言うなら、やってみよう」


父さんが、観念したように頷いた。母さんも、こくりと息を呑んで同意する。


「決まりね! さあ、時間がないわ! 急いで準備を始めましょう!」


交渉成立と見るや、私はぱっと笑顔になり、厨房へと駆け出した。


その日の午後、『旅人の食卓』の厨房は、かつてない熱気に包まれた。「家族総出のコロッケ大作戦」の始まりだ。


「お父さんは、昨日と同じくポポイモを蒸して、熱いうちに皮を剥いて潰してちょうだい! それと、ボアの端切れ肉も、しっかり筋切りして粘りが出るまで叩くのよ!」


「お、おう!」


「お母さんは、ルタオニオンのみじん切りをお願い! 昨日よりもしっかり、濃い飴色になるまで、弱火でじっくり炒めて。甘みとコクが、今日の勝負の鍵よ!」


「ええ、分かったわ!」


厨房には、活気と、そして家族の絆が満ちていた。私は全体の工程を管理し、味付けの最終責任者を務める。昨日よりも少しだけピペリを効かせて、香りを際立たせた。一口味見をする。うん、完璧だ。

ラーラとルークも「がんばれー!」と厨房の入り口から声援を送ってくれる。その応援が、何よりの力になった。


やがて、美しい俵型のコロッケが次々と並んでいく。販売用の二十個、そして私たちの夕食用の十個。合計三十個の黄金の卵たちが、出撃の時を今か今かと待っていた。


店の営業開始を告げる鐘が鳴る。私は深呼吸をし、店の入り口に、炭で手書きした小さな木の看板を掲げた。


『本日のおすすめ:黄金のコロッケ定食 限定十食  銀貨一枚』


さあ、戦いの始まりだ。



しかし、現実は甘くなかった。

店を開けて一時間が過ぎても、コロッケ定食の注文はゼロ。いつも通り、店の中は閑古鳥が鳴いている。たまに来る客は、見慣れない看板をちらりと見るだけで、いつもの安いメニューを注文していく。そのたびに、父さんと母さんが不安そうな顔で私を見る。その視線が痛い。


(焦っちゃダメ。まだ、始まったばかり……)


そんな重苦しい空気を破ったのは、店の扉が開く、からん、という軽やかな音だった。

入ってきたのは、月に1、2回食べに来てくれる、日雇い運搬夫のジョーおじさんだった。


「よぉ、マーク。いつもの、頼む」


ジョーおじさんがカウンター席にどかりと座った、その時だった。


「あ、あの、ジョーおじさん!」


声を上げたのは、私の隣で心配そうに様子を見ていたラーラだった。彼女は、私の作ったコロッケを、誰よりも信じてくれていた。姉が不安そうな顔をしているのを見て、小さな勇気を振り絞ったのだ。


ラーラはカウンターに駆け寄り、小さな体を精一杯伸ばして、真剣な瞳でジョーおじさんを見上げた。


「今日ね、すっごく美味しい、特別なお料理があるの! お姉ちゃんが作ったの! だから、だまされたと思って、一度だけ、食べてみてくれませんか?」


八歳の少女の、あまりにも健気で、心のこもったお願い。その必死さに、ジョーおじさんは少し驚いたようだったが、やがてその疲れた顔をふっと緩めた。


「へえ、嬢ちゃんがねえ。ユーユが作ったのか。そこまで言うなら、もらってみるかねえ。おい、マーク。今日はその『黄金のコロッケ定食』ってのを一つ、頼むよ。しかし、大げさな名前だな。ハハハ」


ジョーおじさんは、笑いながら注文をしてくれた。


記念すべき、注文第一号。私は、母さんと力強く頷き合った。


「お母さん、お願い!」


「ええ!」


母さんが、準備万端だったコロッケ二つを、静かに油の鍋へと滑り込ませた。


ジュワアアアアアァァァァッッッ!!!


その瞬間、静まり返っていた店内に、魂を揺さぶる音が響き渡った。そして、昨日よりもさらに濃厚で、悪魔的に香ばしい匂いが、竜巻のように店中を駆け巡った。


店にいた他の数少ない客たちも、「な、なんだ、この匂いは!?」と、一斉に厨房に注目する。ジョーおじさんも、鼻をくんくんとさせ、その香りの源を探るように首を伸ばしていた。

やがて、完璧なきつね色に揚がったコロッケが、皿の上に盛り付けられる。


「お待たせいたしました! 黄金のコロッケ定食です!」


私が、少し震える手で、ジョーおじさんの前に皿を置いた。

店中の視線が、彼の一挙手一投足に注がれる。


サクッ。小気味の良い音が、ジョーおじさんの口元から聞こえた。

次の瞬間、彼は、固まった。時が止まったかのように。


(……え? まさか、口に合わなかった!?)


私の背中に、冷たい汗がツーっと流れる。

そして。


「うおおおおおおおおおおっっっ!!!」


ジョーおじさんは、椅子から転げ落ちんばかりの勢いで立ち上がり、天を仰いで絶叫した。


「な、な、なんだこれはぁぁぁッ!? うまい! うますぎるぞぉぉぉぉっ!!」


「この衣! 羽のように軽く、口の中でサクサクと心地よい音を奏でる! だが、それはほんの序曲に過ぎん! この衣を突き破った先に待っているのは、熱く、とろりとした、旨みの楽園だ!」


ジョーおじさんは、まるで舞台役者のように、情熱的に語り始めた。


「これはポポイモか!? 俺が毎日食っている、あのパサパサで味気ないイモが、なぜこんなにもクリーミーで、蜜のように甘いのだ!? そして、この甘さを追いかけるようにして押し寄せる、力強い肉の旨み! 香ばしい野菜の深いコク! 全てが舌の上で渾然一体となって、俺の魂を揺さぶってくる!」


(……すごい。このおじさん、何者!?)


私は、彼のあまりにも的確なレポートに、ただただ感心するしかなかった。


「ああ、ダメだ、もう一口……うまい! やはりうまい! これは水で流し込むもんじゃねえ! エールだ! 親父、一番高いエールを持ってこい!」


その叫び声と、店中に充満したままの悪魔的な香りが、決定的な引き金となった。


「お、親父! 俺にもそれをくれ!」

「俺もだ! そのコロッケってやつを頼む!」

「おい、なんだか『旅人の食卓』がやけに騒がしいぞ」

「すげえいい匂いがする……」


最初にいた客たち、そして匂いに誘われてきた新しい客たちで、注文が殺到する。そこからは、まさに戦争だった。

厨房はてんてこ舞いだ。だが、その混乱は、喜びに満ちていた。

あっという間に、用意していた限定十食分は売り切れ、私たちの夕食になるはずだった五食分も、次々と客たちの胃袋へと消えていった。


「申し訳ありません! 本日の黄金のコロッケ定食は、完売いたしました!」


私がそう告げると、店内に大きなため息と、そして満足げな拍手が巻き起こった。我が家始まって以来の、空前絶後の大記録だった。



客が全員帰り、早々に店を閉めた後。さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返った店内で、私たち家族は、一つのテーブルを囲んでいた。


「はぁ……夢みたいだ……」


父さんが、天井を仰いでいる。母さんも、まだ頬を紅潮させたまま、ぼうっとしている。


「お腹すいたー」


ルークの間の抜けた声で、みんながはっと我に返った。そうだ、私たちの夕食は、お客さんに全部譲ってしまったのだった。


「ふふ、任せてちょうだい。お疲れ様の、特別賄いよ」


私はにっこり笑って、再び厨房に立った。今日の残りの材料で、『おつかれさまのチーズリゾット風ポポイモ粥』を作る。

疲れ切った体に、チーズとポポイモの優しい香りが染み渡っていく。一口食べた瞬間、全員の顔が、ふわりと綻んだ。どこまでも優しくて、温かい味。


やがて、一番最初に器を空にした父さんが、そのゴツゴツした手で、ごしごしと顔を擦った。


「……うっ……」


父さんの肩が、小さく震えている。


「あなた?」


「ユーユ……ありがとうな……。父さん……店を開いてから、こんな日が来るなんて、夢にも、思わなかった……。お客さんたちが、みんな笑顔で……『美味い』って……うっ、ううっ……」


父さんは、もう言葉にならなかった。子供のように、声を上げて泣きじゃくっている。その涙を見た瞬間、母さんの目からも、涙が溢れ出した。そして、ラーラも、私の目からも、熱いものがこみ上げてきた。五十年の人生でも、こんなに温かい涙を流したことはなかった。


私は、涙で濡れた頬のまま、強く、強く誓った。


(見てなさい、ワリー・ブルゲル。そして、私たちを嘲笑った全ての人たち)


(あなたたちの富と権力が、この町でどれほどのものか知らない。でも、人の胃袋を掴む力は、どんな権力よりも強い。私は、この町の人々の胃袋を、一人残らず支配する。それが、私のやり方。私の、復讐)


大成功の喜びに、家族の温かい涙、そして、未来への固い決意。

『旅人の食卓』の、長くて短い一日は、こうして穏やかに、そして希望に満ちて、幕を閉じたのだった。

ご一読いただきありがとうございます!

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これからもよろしくお願いします(^O^)/

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