4 侯爵家三男坊カインの憂鬱
その夜、『旅人の食卓』の小さな厨房で、一つの家族が黄金色の奇跡に涙し、未来への希望を語り合っていた、ちょうど同じ刻。
町の中心、小高い丘の上に壮麗にそびえ立つアッシュフォード侯爵邸は、重く、冷たい沈黙に支配されていた。
広大な敷地を囲む高い塀、手入れの行き届いた幾何学模様の庭園、そして月の光を反射して白く輝く、大理石造りの館。その威容は、この地を治める者の権威を雄弁に物語っていたが、館の内部に漂う空気は、その華やかさとは裏腹に、まるで生命の気配だけが抜き取られたかのように淀んでいた。
夜が更け、領都の家々の灯りが一つ、また一つと消えていく中、侯爵邸の二階の一室にだけ、いつまでも消えることのない、夜闇に抗うような祈りの光が揺らめいていた。
その部屋の主は、カイン・デ・アッシュフォード。この地を治める侯爵家の、三男坊である。齢、十歳。本来であれば、やんちゃ盛りの、希望に満ちた少年だ。
しかし、今のカインは、その年齢にふさわしい輝きを、完全に失っていた。
天蓋付きの、子供の体にはあまりにも広すぎるベッドの上。上質なシルクのシーツに沈むその体は痛々しいほどに痩せ、陽に焼けていたはずの肌は、病的なまでに青白い。艶やかだったはずの金色の髪も、今は力がなく、ぱさついていた。かつての快活さを思い出させる面影だけが、かえって見る者の胸を締め付ける。
「カイン、夕食よ。料理長に頼んで、あなたの好きな鳥のコンソメスープを、特別に作ってもらったの。一口でも、口にできないかしら?」
ベッドの傍らの椅子に腰掛けた、カインの母である侯爵夫人が、銀の盆に乗せられたスープを差し出しながら、優しく、しかし祈るような声で語りかけた。その美しい顔には、隠しようのない深い疲労と、心労の色が刻まれている。
盆の上には、完璧に澄み切った琥珀色のスープがあった。滋味の全てが凝縮された、まさに美食の極み。だが、その豊潤な香りさえも、今のカインには届いていないようだった。
カインは、ゆっくりと目を開けた。その紺碧の瞳は、かつては夏の空のように澄み渡っていたが、今は深い湖の底のように、静かに濁っている。
「……母上」
彼は、弱々しく上半身を起こすと、母の手から銀のスプーンを受け取った。そして、琥珀色に輝くスープを、数回、儀式のように口に運んだ。味も、香りも、何も感じなかった。ただ、温かい液体が喉を通り過ぎていくだけ。それでも彼は、スプーンを置き、小さく首を横に振った。
「ごめんなさい、母上。もう、お腹がいっぱいです」
そう言って、彼は、母親を安心させようとするかのように、力なく微笑んでみせた。
「でも、とても美味しかったです。さすがは料理長ですね。僕のために、ありがとうと伝えてください」
その言葉が、気丈に振る舞えば振る舞うほど、鋭い刃となって両親の胸を抉ることを、この優しい少年は知らない。
「……そう。分かったわ、カイン。無理はしなくていいのよ」
侯爵夫人は、声が震えるのを必死でこらえながら、ほとんど減っていないスープの盆を下げた。
部屋の隅の長椅子に腰掛け、その様子を黙って見守っていたカインの父、アッシュフォード侯爵が、静かに立ち上がった。彼は、この領地を統べる、厳格で聡明な領主として知られているが、今、ここにいるのは、ただ息子の身を案じる、一人の無力な父親だった。
「カイン、今日はもうお休み。また明日、少し散歩でもしよう」
父の大きな手が、カインの骨張った肩を優しく撫でる。
「はい、父上。おやすみなさい」
カインは素直に頷くと、再びベッドに体を横たえ、すぐに静かな寝息を立て始めた。だが、その眠りが、安らかなものではないことを、両親は知っていた。
◇
カインが眠りについた後、侯爵夫妻は、自室のバルコニーに出て、ひんやりとした夜風に当たっていた。眼下には、宝石をちりばめたように美しい、領都アッシュフォードの夜景が広がっている。だが、その美しい景色も、今の二人の心には少しも響かなかった。
「また、ほとんど食べてくれなかったな……」
侯爵が、重い口調で呟いた。その声には、日中の領主としての威厳はなく、ただただ深い絶望感が滲んでいる。
「ええ……。日に日に痩せていくあの子を見るのが、本当につらいですわ。あんなに、あんなに元気だった子が……」
夫人の瞳から、こらえきれなかった一筋の涙がこぼれ落ちた。
ほんの一年前まで。
カインは、誰よりも活発で、太陽のような少年だった。三人の息子の中でも、最も父親に似て快活で、物怖じしない性格。朝早くから起き出しては、庭中を駆け回り、年の近い騎士見習いたちに混じって、木剣を振るうのが大好きな子供だった。彼の明るい笑い声は、この静かな侯爵邸の、何よりの宝だった。
異変が起きたのは、ちょうど一年前の冬のこと。
最初は、些細な風邪だった。だが、その風邪が治ってからも、カインの体調は戻らなかった。常に微熱が続き、体がだるいと訴え、大好きだった食事も、次第に残すようになっていった。
侯爵夫妻は、考えうる限りの手を尽くした。
王都から何人もの名医を呼び寄せ、診察させた。しかし、医師たちの診断は、いずれも要領を得ないものばかりだった。
「特に悪いところは見当たらない。成長期によくある、一時的な不調でしょう」
「あるいは、何か精神的なものから来ているのかもしれませんな」
誰も、病の原因を突き止めることができず、具体的な治療法も示せないまま、時間だけが虚しく過ぎていった。
高名な神官を招き、大規模な治癒の祈祷も行った。多額の寄進をし、神にひたすら息子の回復を祈ったが、神は沈黙したままだった。
「一体、どうすればいいのだ……」
侯爵は、大理石の手すりを強く握りしめた。その指の関節が白くなる。
「このアッシュフォード領、いや、王都中のどんな美食を集めても、どんな高価な薬を飲ませても、あの子を救うことができないというのか。領主という地位も、この財産も、息子の病一つ治せなくて、何の意味がある……!」
その苦悩は、一人の父親としての、魂からの叫びだった。
「あなた……」
夫人は、夫の腕にそっと寄り添った。
「何か、何か手立てはないのでしょうか。もう、高名な医師や神官でなくとも構いません。どんな些細な噂でも、どんな身分の低い者の、迷信のような知恵でも……。たとえそれが、教会の教えに背くような、怪しげな民間療法であったとしても、私は、藁にもすがる思いですわ」
その言葉は、侯爵夫人としてのプライドを捨てた、一人の母親の切実な願いだった。
夜は、静かに更けていく。
丘の上の壮麗な侯爵邸で、権力と財産の頂点に立つ夫婦が、愛する息子のために、なすすべもなく絶望に打ちひしがれている。
そして、その眼下に広がる領都の、貧しい地区の一角。
古びた料理屋『旅人の食卓』では、今まさに、一人の少女の手によって、黄金色の奇跡の料理が産声を上げていた。それは、まだ誰にも知られていない、素朴で、力強くて、どこまでも優しい希望の光。
豪華な館で揺れる、一つの悲しみの灯火。
貧しい店で生まれた、一つの喜びの灯火。
富める者の絶望と、貧しき者の希望。決して交わるはずのない、二つの世界の、二つの運命。
だが、この世界のどこかにいる食いしん坊な神様だけは、あるいは、この二つの光がやがて引き寄せられ、一つの大きな物語を紡ぎ出すことになるのを、ほくそ笑みながら見守っていたのかもしれない。