3 新メニュー試食会
その日の営業が終わり、父のマークが店の扉に「準備中」の札をかけ、重々しい木の閂を下ろす音が、店内に静かに響き渡った。いつもなら、この音は一日の終わりの合図。疲れ切った両親がため息をつき、子供たちが眠い目をこする、静寂への序曲だ。
しかし、今夜は違った。
「さあ、始めましょうか! 我が『旅人の食卓』、記念すべき第一回・新メニュー試食会を!」
私、ユーユは、誰もいない客席のテーブルの上で両腕をぐっと天に突き上げ、高らかに宣言した。その声は、十歳児のか細いソプラノでありながら、五十年の人生経験に裏打ちされた妙な熱量と自信に満ちている。
厨房の入り口では、父マークと母リリアが、なんとも言えない表情で立ち尽くしていた。その顔には、娘の突拍子もない行動への戸惑いと、昼間の市場での勢いに押し切られてしまったことへの若干の後悔、そしてほんのわずかな好奇心が、複雑なマーブル模様を描いている。
「ユーユ……本当にやるのか? こんな、お世辞にも食材とは言えないようなもので……」
父さんが、昼間市場で買わされた食材の入った麻袋を指さして、不安そうに言う。その袋の中には、庶民の主食ポポイモ、肉屋の隅で売られていたボアの端切れ肉、涙の出ない玉ねぎことルタオニオン、そして家畜の餌にされる寸前だったカチカチの古黒パンが入っている。普通の料理人が見れば、溜息しか出ないようなラインナップだろう。
「お父さん、これはガラクタなんかじゃないわ。隠された宝物よ」
私はにぱっと笑って、テーブルからぴょんと飛び降りた。そして、小さな体で一生懸命に麻袋を厨房まで引きずっていく。
「ふふん、見てなさい。今夜、我が家の食卓に革命が起きるわよ」
私の足元では、姉のただならぬ様子に興味津々の弟ルーク(四歳)と妹ラーラ(八歳)が、子犬のようについてきていた。二人のくりくりとした目は、「おねえちゃん、なにつくるの?」とキラキラ輝いている。その純粋な期待が、私の心に温かい火を灯した。この子たちを、美味しいもので笑顔にしたい。ただそれだけのことが、今の私にとっては世界で一番大切なことだった。
「さあ、お父さん、お母さん! 手伝ってちょうだい!」
まずは、下ごしらえからだ。私は前世の記憶をフル回転させ、小さな司令官のように的確に指示を飛ばしていく。
「お母さん、まずはそのルタオニオンを、できるだけ細かく刻んでくれる? そう、『みじん切り』っていうの。その後、鍋にラーナ油を少しだけ入れて、このルタオニオンが綺麗な飴色になるまで、よーく炒めてほしいの。焦がさないように、弱火でじっくりがコツよ」
「み、みじん切り……? あめいろ?」
母さんは戸惑いながらも、私の言う通りに包丁を握り、慣れない手つきでルタオニオンを刻み始めた。この世界の調理法は「切る」「焼く」「茹でる」が基本。「炒める」という工程で食材の旨みを引き出す、なんていう手間のかかる技術は、ほとんど存在しないのだ。
「お父さんは、こっちをお願い! このボアの端切れ肉から、筋とか硬いところを丁寧に取り除いて、二本の包丁で粘りが出るまでリズミカルに叩いてちょうだい!」
「なんだって? この肉を叩くのか? まるで拷問だな」
父さんは、まな板の上の肉塊を前に眉をひそめている。だが、私が真剣な目で見つめると、観念したように大きな包丁を二本手に取り、肉を叩き始めた。最初は不満げだったが、やがてトントントン、というリズミカルな音が厨房に響き始めると、その表情は真剣な職人のものへと変わっていった。
そして、メインのポポイモ。
「これは私がやるわ!」と、言いたいところだが、蒸し上がったばかりの熱々のポポイモの皮を剥き、それを潰すのは、十歳児の小さな手にはあまりにも過酷な作業だ。
「……やっぱり、お父さんお願い。ポポイモが熱いうちに皮を剥いて、このすりこぎで滑らかになるまで、よーく潰してくれる?」
結局、一番大変な力仕事は父さんにお願いすることになった。父さんは、肉を叩く手を止め、今度は汗をかきながら、大きな木のボウルの中でポポイモと格闘し始めた。
その間に、私は古黒パンを分厚い布に包み、小さな木槌で粉々になるまで叩いた。自家製パン粉の完成だ。前世ではフードプロセッサーで一瞬だった作業も、ここでは全てが手作業。でも、自分の手で食材を生まれ変わらせていくこの感覚が、不思議と楽しかった。
「おねえちゃん、いいにおいがするー!」
母さんが炒めている鍋から、ルタオニオンの甘く香ばしい香りが漂い始め、ラーラがくんくんと鼻を鳴らした。弱火でじっくり加熱されたルタオニオンは、辛味成分が糖分に変わり、食欲をそそる美しい飴色に変化しつつある。
「そうでしょ? もっともっと、いい匂いになるからね」
やがて、全ての準備が整った。
飴色のルタオニオン。粘りが出るまで叩かれたボアのひき肉。滑らかにマッシュされたポポイモ。そして、自家製の粗挽きパン粉。
「よし、みんな、混ぜるわよ!」
大きなボウルに、全ての具材を投入する。そこへ、塩と、市場で見つけた黒い粒々の香辛料(【鑑定】したら『ピペリの実』、胡椒みたいな実だった!)を挽いて加える。
「ここが一番大事なところ。味の決め手なんだから」
私は小さなスプーンで味見をし、完璧な塩梅になるまで微調整を繰り返す。その姿は、もはや十歳児ではなく、厨房を仕切るベテランシェフそのものだった。両親は、そんな私の姿を、まるで信じられないものを見るかのように、呆然と見守っている。
タネが完成したら、成形だ。
私は両手にラーナ油を薄く塗り、タネを美しい俵型にまとめてみせた。
「こんなふうに形を整えるの。さあ、みんなもやってみて!」
私の手本を見て、最初はぎこちなかった両親も、次第にコツを掴んでいく。ルークとラーラも「やるー!」と手を伸ばしてきたが、ぐにゃぐにゃの謎の物体を作り出しただけだったので、「それは後で丸めて焼いてあげようね」と優しく諭した。
成形したタネに、小麦粉を薄くまぶし、溶き卵をくぐらせ、最後に自家製パン粉をたっぷりと、しかし優しく押し付けるようにして纏わせる。20個の美しい俵型が、木の皿の上にずらりと並んだ。
「さあ、最終工程よ! お母さん、火をお願い!」
いよいよ、揚げの工程だ。
深鍋に、特産品のラーナ油を惜しげもなく注ぎ、火にかける。油が適切な温度になったかどうかは、私の料理人としての勘、そしてパン粉を少し落としてみて、シュワッと細かく泡立って浮かび上がる様子で見極めた。
「よし、今よ! そっと、そーっと入れるのよ!」
母さんが、私の指示通りに、衣をまとったタネを一つ、油の中に滑り込ませた。
ジュワアアアアァァァッッッ!!!
その瞬間、全ての音が吹き飛ぶような、心地よい揚げ音が厨房を満たした。同時に、今までのルタオニオンの甘い香りとは全く違う、油と炭水化物とタンパク質が織りなす、悪魔的に香ばしい匂いが爆発的に立ち上った。
「「「うわあああ……!」」」
父さんも、母さんも、そして私でさえも、思わず感嘆の声を上げた。これは、この世界では誰も嗅いだことのない、禁断の香りだ。
「……じゅるっ」
音のした方を見ると、ルークとラーラが、まるでこの世の終わりでも見るかのように目をかっ開き、口からだらりとよだれの滝を流していた。そのあまりに素直な反応に、思わず笑みがこぼれる。
きつね色に揚がった一個目のコロッケを網の上に取り、油を切る。
サクサク、と音が聞こえてきそうな、完璧な揚げ色だ。
私は、まず5個だけ揚げることにした。試食分だ。
「さあ、できたわよ! 我が家の新しい名物、『黄金のポポイモコロッケ』よ!」
テーブルの上に、湯気の立つ黄金色の塊が五つ、並べられた。
家族五人、ゴクリと喉を鳴らして、それを見つめる。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ!」
私の言葉を合図に、全員が恐る恐る、それでいて期待に満ちた手つきでコロッケを手に取った。
「あ、熱っ!」
「ふー、ふー……」
ルークとラーラは、熱々のコロッケを両手で持ち替えながら、必死に冷ましている。
父さんと母さんは、その不思議な食べ物を鼻に近づけ、未知の香りを確かめるように何度も匂いを嗅いでいる。
そして、全員が、意を決したように、大きく一口、かぶりついた。
サクッッ!!!
部屋に、小気味の良い音が響き渡る。
次の瞬間、時が止まった。
父のマークは、目をカッと見開いたまま、動きを止めた。
母のリリアは、ハンカチで口元を押さえ、信じられないというように瞬きを繰り返している。
ルークとラーラは、リスのように頬袋をぱんぱんに膨らませ、その場で完全にフリーズしている。
衣のサクサクとした食感のすぐ後に、舌の上でとろけるように広がる、ポポイモのクリーミーな舌触り。そこへ、飴色ルタオニオンの濃厚な甘みと、ボアのひき肉の力強い旨みが、怒涛のように押し寄せてくる。ピペリの実の爽やかな香りが全体の味を引き締め、後味は驚くほどすっきりしている。油で揚げてあるのに、少しも重くない。
「…………う、ま……い……」
最初に沈黙を破ったのは、父さんだった。絞り出すような、掠れた声だった。
「なんだ、これは……!? なんなんだ、この食べ物は……!? 俺が毎日見ているポポイモが、あの硬いだけのボアの肉が、どうしてこんな味になるんだ……!?」
彼は、残りのコロッケを夢中で口に運び、あっという間に平らげてしまった。その目には、感動と、そして自分の知る料理の世界が根底から覆されたことへの、畏怖にも似た光が宿っていた。
「あなた……!」
母さんは、目にうっすらと涙を浮かべていた。
「美味しい……こんなに美味しいもの、私、生まれて初めて食べたわ……。ポポイモって、本当はこんなに甘くて、優しい味がしたのね……。今まで、この子たちの本当の美味しさを、知らずにいたなんて……」
その涙は、ただの感動だけではない。子供たちに、もっと美味しいものをいっぱい食べさせてあげたかったという、母親としての長年の想いが詰まった涙だった。
そして、固まっていた弟妹が、ようやく再起動した。
「「おいひーーーーーい!!!」」
二人は、満面の笑みで叫ぶと、小さな口でコロッケを頬張り始めた。口の周りをパン粉だらけにしながら、夢中で食べている。
「おねえちゃん、これ、なあに!? あまくて、しょっぱくて、ふわふわで、カリカリ!」
「るーく、これ、だいちゅき! おかわり!」
食べ終わるやいなや、ラーラが空っぽになったお皿を私に突き出してきた。その目には、「もっとよこせ」という強い意志が宿っている。
家族の、そのあまりにも素直な反応に、私の胸は熱くなった。
五十年間、誰かのために料理を作る喜びなんて、ほとんど知らずに生きてきた。自分のため、自分の空腹を満たすためだけに振るってきたフライパン。料理コンテストで優勝した時ですら、感じたのは達成感と安堵だけだった。
でも、今は違う。
私の料理で、家族がこんなに笑顔になってくれる。
「美味しい」という一言が、こんなにも心に温かく沁みるなんて。
「ふふ、よかった。みんなに喜んでもらえて」
私も自分の分のコロッケを一口食べた。
うん、完璧だ。前世で作っていたものと比べても、遜色のない出来栄え。いや、ポポイモの素朴な甘みと、ラーナ油の豊かな香りが、むしろそれ以上のものに昇華させているかもしれない。
その夜の食卓は、いつになく賑やかだった。残りのコロッケもあっという間に揚げられ、そのほとんどが、成長期の弟妹と、感動しきりの父さんの胃袋に消えていった。
◇
子供たちを寝かしつけ、夫婦の寝室に引き上げようとする二人を、私は呼び止めた。食後の興奮が冷めやらぬダイニングテーブルで、改めて向き合う。
「お父さん、お母さん。今日の、どうだった?」
「どうだったもなにも……」父さんは、まだ夢見心地のような顔で頭を振った。
「すごかった。としか言いようがない。なあ、リリア」
「ええ、本当に。あんなに安かった材料が、どうしてあんなご馳走になるのか……まるで魔法みたいだったわ」母さんは、うっとりとため息をついた。
「魔法じゃないわ。これが、料理よ」私は胸を張った。
「そして、本題はここから。このコロッケを、うちのお店のメニューにしたいの」
「お店の、メニューに?」
二人の目が、驚きに見開かれる。
「ええ。新しい看板メニューとして、来週から売り出すのよ」
「そ、それは……確かに、あれは美味かった。だが、あんな得体の知れないものを、お客さんたちが受け入れてくれるだろうか……。それに、値段はどうするんだ?」
父さんは、商売人としての冷静さを取り戻し、慎重な姿勢を見せた。
「絶対に、受け入れてくれるわ。そして、値段は、今の『旅人セット』と同じ、銀貨一枚で売りましょう」
私の提案に、今度こそ二人は飛び上がらんばかりに驚いた。
「銀貨一枚!? ば、馬鹿を言うんじゃない! 『旅人セット』は、高いレッドボアのロース肉を使っているから、ギリギリであの値段なんだぞ! 今日の材料費を考えたら、銅貨三枚でもお釣りがくるくらいじゃないか! そんな暴利、うちの客から取れるわけがない!」
「そうよ、ユーユ。いくら美味しくても、高すぎたら誰も買ってくれないわ」
母さんも、父さんの意見に賛成のようだ。
ふふん、甘いわね、お二人さん。
「大丈夫」
私は、不敵な笑みを浮かべた。
「このコロッケには、銀貨一枚の価値があるわ。ううん、それ以上の価値がある。最初はみんな驚くかもしれないけど、一人でも食べてくれれば、その美味しさは絶対に口コミで広がる。私が保証するわ」
心の中では、そろばんを弾いている。(原価は旅人セットの三分の一以下……。一個売れれば、とんでもない利益率だわ……ぐふふ)
「いい? これは、ただのイモ料理じゃない。『旅人の食卓』でしか食べられない、特別なご馳走なの。だから、安売りしちゃダメ。商品の価値は、まず私たち作り手が信じてあげなくちゃ」
その言葉は、前世のビジネス経験から来る、確固たる信念に基づいていた。
私の妙な自信と、子供らしからぬロジックに気圧されたのか、両親は反論の言葉を失っている。
「……分かった。ユーユがそこまで言うなら、信じてみよう」
長い沈黙の末、父さんがついに頷いた。
「ありがとう、お父さん!」
「じゃあ、明日もまた開店準備、頑張りましょうね!」
その夜、私は自分の小さなベッドで、幸せな気持ちに包まれて眠りについた。
◇
一方、子どもたちが寝ついた頃。
夫婦の寝室では、マークとリリアが、小さなランプの灯りの下で、ひそひそと話し込んでいた。
「なあ、リリア……。ユーユのやつ、一体どうしちまったんだろうな」
マークが、深刻な顔で切り出した。
「本当に……。あんなに的確に料理の指示を出すなんて。まるで、何十年も厨房に立ってきたベテランの料理人みたいだった……」
リリアも、不安そうに眉を寄せる。
「やっぱり、先日、木から落ちて頭を打ったせいなのかしら……。どこか、おかしくなってしまったんじゃ……」
「俺も、それを考えていた。急にしっかりしすぎている。まるで、別人の魂でも入ったみたいだ」
二人の間に、重い沈黙が流れる。愛する娘の急激な変化は、喜びよりも先に、戸惑いと根源的な不安を呼び起こしていた。
「……でも」
沈黙を破ったのは、リリアだった。
「でも、あなた。今日のあの料理……本当に、美味しかったわね」
その言葉に、マークの顔がわずかにほころんだ。
「ああ……。間違いなくな。俺は、生まれてこの方、あんなに美味いものを食ったことがない。あれが、うちの店で出せるなら……」
ゴクリ、とマークの喉が鳴る。
「そうね。お客さんたちが、みんな笑顔になる顔が、目に浮かぶようだわ」
二人は顔を見合わせ、ふっと微笑み合った。
「あの子がどうなってしまったのかは、分からない。でも、悪い方向には向かっていない、と信じたいわね」
「ああ。明日から、あの子のこと、今まで以上によく見ていてやろう。危ないことをしないように、俺たちが支えてやらねばな」
不安と希望が溶け合う、不思議な夜。
『旅人の食卓』の、長いようで短い、革命の前夜は、こうして静かに更けていくのだった。
銅貨1枚 ・・・百円程度
大銅貨1枚・・・5百円程度
銀貨1枚 ・・・千円程度
大銀貨1枚・・・5千円程度
金貨1枚 ・・・1万円程度
大金貨1枚・・・10万円程度