最終話 食卓を囲む、永遠の物語
星月夜のバルコニーで、カインと永遠の愛を誓い合った、夢のようなデビュタントの夜から、数日後。
私の人生の、新しい章の始まりを、まずは、誰よりも先に、天の上のあの食いしん坊な神様に報告しなくては、と、私は思った。
その夜、私は、カインを連れて、オルコット子爵邸に作ってもらった私のキッチンに立ち、彼には、もう、神様のことも、私の秘密も、全て打ち明けてある。
二人で並んで作る、初めての共同作業。それは、私たちの婚約を祝う、神様への特別なフルコースだった。
前菜には、色とりどりの野菜を使ったテリーヌを。メインには、最高級のボアのフィレ肉を、二人の未来を祝う赤ボルジア酒でじっくりと煮込んだ、特別な一皿を。そして、デザートには、もちろん、あのカカノンを使った、ハート型の濃厚なチョコレートケーキを。
全ての料理に、私たちの感謝と、これからの幸せへの祈りを、たっぷりと込めた。
二人で、寝室の隅にある祭壇に、出来立ての料理を並べ、そして、手を合わせた。
(神様。ご報告です。私、カインと、結婚することになりました。あなたが、この世界に送ってくださらなければ、あなたが、あの時、私を見つけてくださらなければ、こんな幸せは、絶対にありませんでした。本当に、本当に、ありがとうございます)
隣で、カインも、静かに祈りを捧げている。
(神よ。我が名はカイン・デ・アッシュフォード。ユーユを、私の元へ遣わしてくださったこと、心より感謝申し上げる。必ず、私が、生涯をかけて、彼女を幸せにすることを、ここに誓います)
祈りを終え、私たちは顔を見合わせて、微笑み合った。
翌朝。
祭壇の上からは、お供えした料理が、綺麗さっぱり消えていた。
そして、その代わりに。
そこには、見たこともないほど美しく、繊細な細工が施された、ペアのクリスタルのグラスが、二つ、朝陽を浴びて、虹色に輝いていた。
「まあ……なんて、綺麗なグラス……」
思わず、ため息が漏れる。その透明度は尋常ではなく、まるで光そのものを固めて作り上げたかのようだった。
私が、恐る恐るその一つに指先で触れると、ひんやりとした感触の奥から、不思議と、じんわりとした温かさが伝わってくる気がした。それは、人の心を安らかにするような、清らかで、優しい波動だった。
「これは……ただのグラスではないな」
隣で見ていたカインが、感嘆の声を漏らした。彼は、侯爵家の息子として、一級の芸術品を数多く見てきたはずだが、その彼でさえ、これほどまでに完璧な工芸品は、見たことがないのだろう。
彼は、近くにあった水差しから、片方のグラスに、そっと水を注いだ。
その瞬間。
私たちは、息を呑んだ。
ただの透明な水が、グラスに注がれた途端、内側から、淡い、七色の光を放ち始めたのだ。まるで、液体が生命を得て、喜びにきらめいているかのようだった。
「……すごい」
「ええ……」
私たちは、言葉を失い、その神秘的な光景を、ただ、うっとりと見つめていた。
鑑定スキルで、その正体を知ることはできないが、知る必要もなかった。
私たちは、肌で、そして、目で、はっきりと理解した。これが、天の上の神様からの、最高の祝福であり、最高の結婚祝いなのだと。
◇
それから、私たちの人生は、まるで、物語のページを、勢いよくめくっていくかのように、輝かしく、そして、目まぐるしく進んでいった。
私たちの結婚式は、その半年後、アッシュフォード中の人々から祝福されて、盛大に行われ、父さんと母さんは、最初から最後まで、嬉し泣きに泣いていた。
そして、私たちは、二人で、『旅人の食卓』の経営に、本格的に乗り出した。
カインは、貴族社会で培った、優れた交渉術と、広い人脈、そして、数字に強い明晰な頭脳で、店の経営面を、一手に引き受けてくれた。
私は、料理人として、そして、総責任者として、厨房とホールの全てを統括し、私たちは、最高の、ビジネスパートナーでもあったのだ。
アッシュフォードの店は、もはや、揺るぎない名店として、その地位を確立し、私たちは、従業員の育成に力を入れ、私たちが常に厨房に立たなくても、最高のクオリティの料理を提供できるシステムを作り上げた。
父さんと母さんは、店の経営を、信頼できる支配人に任せ、今では、時々、店に顔を出しては、孫を見るような目で、若い従業員たちの働きぶりを、嬉しそうに眺めている。二人で、長年の夢だったという、温泉地への旅行に出かけた時の、あの子供のようにはしゃいだ笑顔を、私は、一生忘れないだろう。
ラーラは、十八歳になると、アッシュフォードの店の、若き女支配人となり、彼女の、太陽のような笑顔と、細やかな気配りは、店の雰囲気を、さらに温かく、心地よいものにしてくれた。彼女が、私のレシピを元に考案した、季節のフルーツを使ったタルトは、今や、店の定番メニューとして、常連客たちの間で、絶大な人気を誇っている。
ルークは、たくましい青年に成長し、剣の腕を磨きたいと、王都の騎士団に入団したが、休暇で帰ってくるたびに、厨房に顔を出し、「姉ちゃんの賄いが、一番うめえ!」と言って、山のような料理を、幸せそうに平らげていく。その姿は、昔と、少しも変わっていなかった。
そして、結婚から五年が過ぎた、ある日。
私たちは、ついに、長年の夢だった、王都への出店を果たした。
貴族街の一等地に構えた、新生『旅人の食卓』王都本店。
その開店の日には、王侯貴族から、多くの商人たちまで、数え切れないほどの客が詰めかけ、店の前には、アッシュフォードで初めてコロッケを売った日を、何倍にもしたような、長蛇の列ができた。
私たちの物語は、小さな町の、貧しい料理屋から始まり、ついに、この国の中心で、燦然と輝くに至ったのだ。
◇
王都での生活も、落ち着いてきた、ある日のこと。
私は、二十歳になっていた。
その日、私は、王都に構えた、私たちの家の、陽当たりの良いリビングで、ぼんやりと、庭の景色を眺めていた。
ここ最近、どうも、体がだるく、そして、いつもは、あれほど旺盛な食欲があまりないのだ。大好きだった、濃厚なソースの匂いを嗅ぐと、少しだけ、胸がむかむかする。
(……風邪、かしら。でも、【頑丈】のスキルがあるから、病気には、ならないはず……)
私は、自分の体の変化に、首を傾げ、そして、ふと、ある可能性に、思い至った。
前世では、ついぞ、経験することのなかった、あの、奇跡の可能性に。
私は、侍女に、町の薬師から、とある薬草を買ってきてもらった。それは、懐妊の兆候を、確かめるためのものだ。
結果は、すぐに、出た。
(……あ……)
私は、その場に、へなへなと、座り込んでしまった。
信じられない。
嘘みたいだ。
この、私のお腹の中に、新しい命が、宿っている。
カインと、私の、愛の結晶が。
五十年間、孤独に生きてきた、佐藤祐子の記憶が、涙となって、溢れ出す。
嬉しくて、嬉しくて、でも、少しだけ、怖くて。
こんな、夢のような幸せが、本当に、私に許されるのだろうか。
その夜、私は、王都の店から帰ってきたカインを、少し、緊張しながら出迎え、ディナーの席で、デザートと一緒に、一つの、小さな箱を、彼の前に差し出した。
「……ユーユ? これは、なんだい?」
不思議そうな顔で、カインが、箱を開ける。
中に入っていたのは、私が今日、心を込めて編んだ、一足の、小さな、小さな赤ちゃんの靴下だった。
カインは、最初、その意味が分からず、きょとんとしていたが、やがて、私の少し潤んだ瞳と、その靴下の意味に、思い至ったのだろう。
彼の紺碧の瞳が、驚きにこれ以上ないというほど、大きく、大きく見開かれた。
「……ユーユ……。こ、これは……まさか……」
彼の声が、震えている。
私は、涙をこらえながら、こくん、と、精一杯、頷いた。
次の瞬間。
彼は、椅子から立ち上がると、私を、力強く、それでいて、壊れ物を扱うかのように、優しく、抱きしめた。
「……うそだろ……。本当、かい……?」
「……うん。本当よ。あなた、お父さんに、なるのよ」
「……ああ……!」
彼の腕の中で、私は、温かい雫が、自分の首筋に落ちてくるのを感じた。彼が、泣いているのだ。
「ありがとう……! ユーユ、ありがとう……!」
彼は、私の体を離すと、私の前に跪き、そっと私のお腹に、その耳を寄せた。
「君は、僕に一度ならず、二度までも、新しい命を与えてくれるんだな……」
その、愛おしさに満ちた囁きに、私の涙腺は完全に決壊した。
その知らせは、すぐに、アッシュフォードの家族にも届けられた。
電話もないこの世界では、手紙が届くのに数日かかったが、返ってきた手紙は、父さんと母さん、そして、ラーラとルークの喜びの涙でインクが滲んで、ほとんど読めないほどだった。
数日後、私はカインと一緒に、家のバルコニーに立っていた。
彼の、大きな手が、私のまだ平らなお腹を、優しく撫でている。
眼下には、王都の美しい夜景が、星のようにきらめいていた。
私は、空を見上げていた。きっと、この空のずっと、ずっと、向こう側で、あの食いしん坊な神様が、にやにやしながら、私たちのことを見ているに違いない。
(神様、ありがとう)
私は両手を合わせ、心の中で、最高の感謝の祈りを捧げた。
孤独で、色褪せていた私の一度目の人生。
そして、愛する夫と温かい家族、新しい命に恵まれた、この奇跡のような、二度目の人生。
私の物語は、一皿のコロッケから始まった。
そして、これからも続いていく。
食卓を囲む、たくさんの笑顔と共に。
どこまでも温かくて、美味しくて、そして、幸せな永遠の物語が。
最後までお付き合いくださいましてありがとうございました!
また次回作も頑張っていきたいと思っています。
よろしければ、私の他の作品にも目を通してみてください。
それではまたお会いしましょう!




