2 まずは市場調査から
私が厨房に立つと宣言してから、一週間が過ぎた。
とはいえ、十歳の子供にいきなり鍋を振るうことを許してくれるほど、この世界の親も放任主義ではないらしい。当たり前だ。火傷でもしたら大変だし、何より店の食材は、決して潤沢ではなかった。父のマークと母のリリアは、私の突拍子もない申し出に顔を見合わせ、ひとまず「お店の様子を見る」という形で落ち着かせたのだった。
だからこの一週間、私はまず徹底的な現状分析に費やした。店のカウンターの隅っこに用意してもらった小さな椅子にちょこんと座り、父が作る料理と、数少ないお客さんの反応、そして店の懐事情をじっと観察し続けたのだ。
分かったことは、神様が嘆いていた通り、この世界の料理が驚くほど単調だということ。
父さん、ごめん。父さんの料理は、決して不味いわけじゃない。素材はちゃんとしている。でも、調理法があまりにもワンパターンで、素材の魅力をまったく引き出せていないのだ。
我が家の料理屋『旅人の食卓』のメニューは、潔いほどに三つだけ。
一つは「ボアの塩焼き」。森で獲れる猪に似た獣、レッドボアの肉を分厚く切って、塩を振って焼いただけ。私も少し味見させてもらったが、肉質は硬く、噛みしめると味は出るものの、少し獣臭さが鼻についた。
二つ目は「温野菜の盛り合わせ」。このあたりで主食とされているポポイモや、葉物野菜のカブナを、ただ茹でただけ。味付けは、テーブルに無造作に置かれた岩塩の塊を客が自分で削って振りかけるスタイル。野菜本来の甘みは、茹で汁にほとんど流れ出てしまっている。
三つ目は、その両方を一つの木の皿に乗せた「旅人セット」。これが一番人気のメニューだった。
お客さんは、主にアッシュフォードの町で日銭を稼ぐ肉体労働者の男たちや、私のように懐の寂しい旅人たち。彼らは文句一つ言わず、その無骨な料理を、付け合わせの黒くて硬いパンで胃袋にかきこむ。そして、テーブルの水差しに入ったぬるい水を呷って、銅貨を数枚カウンターに置くと、足早に去っていく。そこには「食事を楽しむ」という雰囲気は微塵もなかった。ただ、空腹を満たすための「作業」のように見えた。
閉店後、今日の売上である銅貨を数える父の背中は、いつも少し小さく見えた。優しい母はそんな父の隣で微笑んでいるが、その目には隠しきれない憂いの色が浮かんでいる。
妹のラーラ(八歳)と弟のルーク(四歳)は、夕食に出された「温野菜の盛り合わせ」をフォークでつつきながら、物足りなさそうな顔をしていた。
「ねえ、ユーユ姉ちゃん。お肉、もうないの?」
ルークが私を見上げてくる。ラーラもこくりと頷いた。
「ごめんね、ルーク。お肉は明日、父さんがまた仕入れてきてくれるから」
そう言って弟の頭を撫でると、彼はしょんぼりとポポイモを口に運んだ。
(これじゃあ、リピーターはつかないわ……)
前世、契約社員として働いていた会社は、小さな食品メーカーだった。私は経理の補助として、商品の原価計算も手伝っていた。どの材料をどれだけ使えば、いくらの利益が出るのか。どうすればコストを抑えつつ、商品の価値、つまり「付加価値」を上げられるのか。来る日も来る日も、電卓を叩きながらそんなことばかり考えていた。
あの頃の経験が、まさかこんな形で役立つなんて。人生は何があるか分からないものだ。
「安くて、美味しくて、お腹がいっぱいになる。そして、また明日も食べたいと思ってもらえるもの」
それが、今のこの店に必要なものだ。そのためには、まず敵を知り、己を知るところから。つまり、食材の徹底的な市場調査が必要不可欠だった。この一週間、私は頭の中で何度もシミュレーションを重ね、ついにその計画を実行に移す時が来たと判断した。
「お父さん、お母さん。お願いがあるの」
ある日の朝、私は意を決して両親に切り出した。朝食のスープを飲んでいた二人は、ぴたりと動きを止めて私を見る。
「なあに、ユーユ?」
母のリリアが、優しく問いかけてくれた。
「今度、市場に仕入れに行くとき、私も連れて行ってほしいの」
きょとん、と二人は顔を見合わせる。父のマークは、がっしりとした眉を寄せた。
「市場にか? だめだ。あそこは朝早くから人でごった返している。お前みたいな子供には危ない」
「大丈夫! お父さんの側に、ちゃんとくっついているから。それに、ただついて行きたいんじゃないの。お店で使うものが、どんな場所で、どんなふうに売られているのか、この目でしっかり見ておきたいの」
真剣な眼差しで訴えると、父は困ったように大きな手で無精髭の生えた顎をかいた。母は少し考え込むように顎に手を当てている。十歳の娘の発言としては、確かにおませで、不自然極まりないだろう。
(木から落ちて頭を打ってから、ユーユは少し変わった……)
両親がそんな風に感じているのは、ひしひしと伝わってくる。でも、今の私にはそんなことを気にしている余裕はなかった。このままでは、この温かい家族の食卓が、本当に寂しいものになってしまう。
私の目に宿る妙な迫力に押されたのか、母がふっと息を吐いて微笑んだ。
「あなた。いいんじゃないかしら。ユーユも、お店のことを真剣に考えてくれているのよ。この子がこんなに真剣な顔をしているの、私、初めて見たわ。連れて行ってあげましょうよ」
「リリア……。お母さんがそう言うなら……」
父はまだ不満そうだったが、愛する妻の言葉には逆らえないようだった。彼は私に向き直り、念を押すように言った。
「いいか、ユーユ。絶対に父さんの側から離れるんじゃないぞ。分かったな?」
「うん、分かった! ありがとう、お父さん、お母さん!」
こうして私は、異世界で初めての市場調査へと赴く権利を、力強く勝ち取ったのだった。
◇
数日後、まだ夜の名残が町の屋根を覆う早朝。私は父さんの大きな手に引かれ、町の中心にあるアッシュフォード中央市場に足を踏み入れた。
その瞬間、私は圧倒された。
むわっとした人の熱気と、石畳を濡らす朝露の匂い、威勢のいい店主たちの怒鳴り声にも似た呼び込み、そして多種多様な食材が入り混じった、むせ返るような生命の匂い。その全てが巨大な渦となって、私の小さな身体に叩きつけられた。
「うわぁ……!」
思わず、感嘆の声が漏れる。目の前に広がる光景は、前世の知識を軽く凌駕していた。
色とりどりの野菜や果物が、荷馬車から降ろされたまま山のように積まれている。見たこともない毒々しい色のキノコや、銀色に輝く鱗を持つ川魚が木の板に並べられ、ピチピチと跳ねている。
肉屋の店先には、解体されたばかりなのか、まだうっすらと湯気の立つ巨大な獣肉の塊が鉤爪に吊るされ、職人が巨大な鉈を振るっていた。
活気がある。生命力に満ち溢れている。前世で通っていた、小綺麗に空調管理され、プラスチックに包装された商品が並ぶスーパーマーケットとは全く違う、生のエネルギーがそこにはあった。
私の心臓が、とくん、と力強く高鳴る。忘れていた感覚。新しい食材を前にした時の、あの武者震い。五十年の人生で唯一誇れた、料理人としての血が、異世界の地で再び騒ぎ出すのを感じた。
(すごい、すごいわ……! こんな宝の山が、すぐ近くにあったなんて! よし、鑑定、鑑定!)
私は興奮で上気しそうな頬をきゅっと引き締め、父さんの手を強く握りしめながら、片っ端からスキルを発動させていく。私の目には、この喧騒の中でも、食材だけがくっきりと浮かび上がって見えた。
まず目についたのは、市場の入り口で山のように積まれた、見慣れたイモ。私が怪我をした時に飲んだスープに入っていた、あれだ。
(鑑定!)
【ポポイモ】:ヒルダ平原で広く栽培されているイモ類。生命力が強く、どんな痩せた土地でも育つため非常に安価。庶民の主食であり、保存性も高い。味は淡白だが、デンプン質が豊富で腹持ちが良い。最適な調理法は「蒸す」「潰す」「揚げる」。茹でると栄養と風味が損なわれやすい。
(やっぱり、主食級の食材なのね。しかも、最適な調理法は「茹でる」じゃない……!)
父さんの調理法は、このポポイモの良さを殺していたのだ。周りを見渡せば、町の人々が大きな麻袋に、このポポイモをどっさりと詰め込んでもらっている。価格も銅貨数枚で山盛りが買えるようだ。これは使える。間違いなく、我が店の救世主になる。
次に、父さんがいつも仕入れている肉屋へ向かった。店主は顔なじみのようで、父さんと気さくに言葉を交わしている。その間に、私は店先に並ぶ肉塊を鑑定した。
【レッドボアのロース肉】:アッシュフォードの森に生息する大型の猪。肉質は硬いが、味は濃厚で栄養価も高い。脂肪分が少なく、煮込み料理よりは塩焼きや燻製に向いている。狩りの危険度から比較的高価。
(やっぱり、このロース肉は高いんだわ……。日々の仕入れには負担が大きすぎる。父さん、いつもこれを……。もっと安い部位は……あった!)
店の隅の方に、切り落とされた端切れ肉や、筋の多そうな部位が無造作に木製のカゴに入れられているのが見えた。「あら肉」と書かれた札が立てかけてある。他の客は見向きもしない。
(鑑定!)
【レッドボアの端切れ肉】:様々な部位の切り落とし。筋や骨が多く、そのままでは硬くて食べにくい。そのため、格安で取引される。しかし、丁寧に下処理を行い、筋を断ち切るように細かく叩けば、ロース肉にも劣らない旨味を持つ上質なひき肉となる。
(これだわ!)
私の頭の中に、閃光が走った。これだ! この端切れ肉を丁寧に処理して、包丁で根気よく叩けば、最高の食材に生まれ変わる。手間はかかるけど、原価を劇的に抑えられるはずだ。
市場を歩き回るうちに、私はさらにいくつかの重要な発見をした。
一つは、油だ。ある店先で、大きな樽から黄金色の液体が柄杓で汲み出され、客が持参した瓶に詰められて売られていた。あたりには、どこか香ばしい、炒ったナッツのような芳醇な匂いが漂っている。
(鑑定!)
【ラーナ油】:ラーナ草の種子を圧搾して作られる植物油。香りが良く、熱に強い。このアッシュフォードの町はラーナ草の一大産地であり、他領への主要な輸出品でもある。そのため、町での取引価格は非常に安い。揚げ物や炒め物に最適。
(特産品が油……! しかもこんなに安く手に入るなんて、最高じゃない!)
前世の日本では、揚げ物をするとなると、良質な油の値段が結構な負担になった。でも、ここではその心配はなさそうだ。「揚げる」という、この世界ではまだ一般的ではない調理法が、一気に現実味を帯びてきた。
さらに、私は二つの見過ごされがちな食材を見つけ出した。
一つは、八百屋の店先で山積みになった、玉ねぎに似た少し平べったい形の野菜。これもポポイモと同じくらい安い。
【ルタオニオン】:タマネギの原種に近い野菜。刺激成分が少なく涙を誘わないが、生では辛味が強い。しかし、ラーナ油でじっくりと加熱することで辛味成分が糖に変化し、驚くほどの甘みとコクが出る。
もう一つは、パン屋の隅の籠に「家畜の餌にどうぞ」という札と共に置かれていた、カチカチに硬くなった黒パンだ。
【古黒パン】:焼いてから数日経ち、水分が完全に飛んで硬くなったパン。そのままでは食べられないため、家畜の飼料などにされることが多い。ほとんど値がつかない。だが、細かく砕くことで、揚げ物の衣として使用可能。香ばしい風味と独特の食感を生み出す。
ポポイモ、ボアの端切れ肉、ラーナ油、ルタオニオン、そして古黒パン。
私の頭の中で、それぞれの食材がパズルのピースのように組み合わさり、一つの料理へと姿を変えていく。
まず、ポポイモを茹でるのではなく、蒸す。熱いうちに皮をむき、丁寧に潰して滑らかにする。
次に、ボアの端切れ肉を筋切りしながら包丁で細かく叩き、ひき肉にする。
ラーナ油を引いたフライパンで、みじん切りにしたルタオニオンを弱火でじっくりと炒める。飴色になり、甘い香りが立ち上ってきたら、ボアのひき肉を加えてさらに炒める。塩と、市場の隅で売っていた胡椒に似た香辛料で下味をつける。
炒めた具材を、潰したポポイモと混ぜ合わせる。
それを小判型に手際よく丸めて、小麦粉を薄くまぶし、溶き卵をくぐらせて、細かく砕いた古黒パンの衣を、隙間なくみっちりとつける。
そして、鍋にたっぷりと注いだ黄金色のラーナ油で、きつね色になるまでカラリと揚げる。
ジュワッという心地よい音と共に立ち上る、香ばしい匂い。
(……コロッケだわ!)
そうだ、コロッケよ!
ジャガイモの代わりにポポイモで。玉ねぎの代わりにルタオニオンで。高価なパン粉の代わりに、捨てられるはずの古黒パンで。前世で私が何度も作り、家族や友人、会社の同僚にまで絶賛された、あの得意料理。
これなら、材料はすべてこの市場で格安で手に入るものばかり。原価は、今の「旅人セット」の三分の一以下に抑えられるかもしれない。
それでいて、揚げたてのサクサクした衣と、中のホクホクで甘い具材の組み合わせは、絶対にこの世界の人々の舌を虜にするはずだ。肉も入っていて、ボリューム満点。子供から大人まで、みんなが大好きな味。
「決まりだわ……」
熱に浮かされたようにぽつりと呟くと、私の手を引いていた父さんが「ん? 何か言ったか、ユーユ?」と屈んで大きな顔を覗き込んできた。
「お父さん! お願いがあるの!」
私は父さんの分厚い革の上着の裾をぎゅっと掴み、見つけ出した宝物を指差しながら、キラキラした目で見上げた。
「あのね、そこのポポイモを少しと、あそこのお肉屋さんの端っこにあるお肉と、玉ねぎみたいなあの野菜と、パン屋さんの硬いパンを少しだけ、買ってほしいの! それと、卵も!」
「え? な、なんだって? ポポイモはともかく、端切れ肉に古パンだと? ユーユ、そんなもの、どうするんだ? まともな料理にはならんぞ」
突然の娘の奇妙な要求に、父さんは心底驚いた様子で目を白黒させている。無理もない。彼の常識では、それらは食材のクズ、あるいは家畜の餌だ。人間の、それもお金をいただくお客さんに出す料理の材料には到底見えないだろう。
だけど、私にははっきりと見えている。
これらのガラクタのような食材たちが、我が家の救世主となる、黄金色の輝きを放つ料理へと変貌する未来が。
「いいから、お願い! 私に一度だけ、厨房を貸して! 絶対に、絶対に美味しいものを作ってみせるから! それで、ラーラとルークのお腹をいっぱいにしたいの!」
十歳の娘の、力強い宣言。その目には、五十年の料理への愛情と、経営者としての冷静な計算、そして何よりも、新しい家族を笑顔にしたいという強い想いが宿っていた。
父は、私のあまりの気迫にたじろぎ、しばらく言葉を失っていた。だがやがて、ごしごしと頭をかくと、深いため息と共にかすかに笑った。
「……分かったよ。お前がそこまで言うなら、信じてみよう。ただし、火の番は父さんがするからな」
私の異世界料理屋改革、その記念すべき第一歩は、このアッシュフォード市場での出会いと、「コロッケ」という名の黄金色の希望から、今まさに始まろうとしていた。
ご参考までに貨幣価値の目安です。
銅貨1枚 ・・・百円程度
大銅貨1枚・・・5百円程度
銀貨1枚 ・・・千円程度
大銀貨1枚・・・5千円程度
金貨1枚 ・・・1万円程度
大金貨1枚・・・10万円程度