18 旅人の食卓から、未来の食卓へ
あれから、一年。
私の人生が、再び、そして今度は恋愛という意味で、劇的に変わることを告げられた、あの運命の日から。
今、私は、オルコット子爵邸の、鏡の前に立っている。
そこに映っているのは、もはや『旅人の食卓』の、エプロン姿の看板娘ではない。
艶やかな夜色の髪は、美しく結い上げられ、銀の髪飾りが月の光のようにきらめいている。肩や首筋のラインは、この一年の礼儀作法教育の賜物か、自分でも驚くほど、すっきりと洗練された。
そして、何より、その身にまとった一着のドレス。
深緑の、上質なシルクで仕立てられた、優雅なAラインのドレスだ。胸元には、繊細な銀糸の刺繍が施され、スカートは、歩くたびに、静かな夜の湖面のように、優雅に波打つ。
それは、カインの瞳の色と、私が初めて自分で買った、思い出のワンピースの色を、合わせたような、特別な一着だった。
「……本当に、私、なの……?」
鏡の中の、見知らぬほど美しい、十三歳の少女に、思わず、問いかけてしまう。
その問いに答えるかのように、この一年間の、目まぐるしい記憶が、脳裏を駆け巡っていった。
◇
あの日、侯爵邸から戻った私たちは、まるで嵐にでも遭ったかのように、数日間、呆然と過ごした。
だが、事態は、私たちの感情などお構いなしに、着々と進んでいった。
私は、涙ながらに私を送り出す両親やラーラ、ルークと、必ず毎日顔を出すことを約束し、オルコット子爵家の養女として、正式に迎え入れられた。
オルコット子爵夫妻は、本当に心優しく、穏やかな方々だった。子供に恵まれなかった夫妻は、私のことを、実の娘のように、温かく、そして深く、愛してくれた。私が、厨房に立たなければ落ち着かないと知ると、子爵は、邸の中に、私のための、小さくて機能的なキッチンまで作ってくれたのだ。
だが、もちろん、楽しいことばかりではなかった。
貴族の令嬢としての教育は、私の想像を、絶するほどに、過酷なものだった。
私につけられた家庭教師は、サンドラ先生という、背筋が鋼鉄でできているのではないかと思うほど、まっすぐで、厳しい、初老の女性だった。
歩き方、お辞儀の仕方、歴史、政治……覚えるべきことは、無限にあるように思えた。特に、私を苦しめたのは、ダンスの稽古だった。厨房で効率よく動き回ることに特化した私の体は、ワルツの優雅なステップを、なかなか覚えてくれなかった。
(もう、無理かもしれない……)
何度も、心が折れそうになった。
だが、そのたびに、私の脳裏に浮かぶのは、カインの、あの嬉しそうな笑顔だった。
(あの人の隣に、立つために。胸を張って、彼のパートナーだと名乗れるように)
その一心で、私は、食らいついた。夜、皆が寝静まった後も、一人、月明かりの差し込むホールで、何度も、何度も、ステップを練習した。
そんな日々が、何か月も続いた、ある日のこと。
ダンスの稽古で、私が、一度もミスをすることなく、完璧に一曲を踊りきった、その瞬間。厳しい表情を崩したことのなかった、サンドラ先生が、ふっと、その口元に、ほんのかすかな、優しい笑みを浮かべたのだ。
「……よろしい。実によく、努力なさいました。貴女は、もう、ただの料理屋の娘ではございません。オルコットの名に、そして、カイン様の未来の伴侶として、何一つ、恥じることのない、立派な令嬢となられました」
その、初めての賛辞に、私の目から、涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。
私は、この一年で、本当に、生まれ変わったのだ。
◇
――けれど、その新しい私を支えてくれた、本当の強さは、どこから来たのだろう。
貴族としての知識でも、優雅な作法でもない。私の心の芯にあるもの。それは、このドレスを着る前に、どうしても伝えたくて、ありったけの想いを込めて認めた、一通の手紙の中にこそあった。
『愛しいお父さん、お母さん、そして可愛いラーラとルークへ
今、私は鏡の前に立っています。
上質なシルクのドレスをまとい、髪を結い上げ、自分でも見たことのないような淑女が、そこに映っています。
明日、私は「ユーユ・デ・オルコット」として、カイン様の隣に立ちます。けれど、この手紙を書いている私の心は、あの懐かしい『旅人の食卓』の厨房にいる、いつもの「ユーユ」のままです。
お父さん、お母さん。
あの日のことを、今でも鮮明に覚えています。
貧しくて、お店も古くて、明日のお客さんの数を心配していた、あの頃。
でも、不思議ですね。思い出すのは、辛かった記憶ではありません。お父さんが鍋を振るう音、お母さんが優しく野菜の皮を剥く姿、そして店中に満ちていた、温かくて美味しい匂い。
私たちの食卓は、いつも笑顔でいっぱいでした。どんな豪華な宮殿料理も敵わない、世界で一番幸せな味が、そこにはありました。私にとって料理が「人を幸せにする魔法」なのだとしたら、その魔法の呪文を最初に教えてくれたのは、間違いなくお父さんとお母さんです。
神様からの贈り物の食器を前に、みんなで祈った日。
私が侯爵様のお城に呼ばれ、お父さんとお母さんの顔から血の気が引いていくのを見た、あの不安な午後。
新しいお店ができた朝、感動で声を震わせるお父さんと、涙を浮かべるお母さんの顔を見た、あの誇らしい瞬間。
一つ一つ、全てが私の宝物です。
どんな時も、私を信じ、守り、家族みんなで支え合ってきました。
この幸せは、決して、私一人の力で掴んだものではありません。
お父さんとお母さんが、どんなに苦しい時も愛情を注いで育ててくれたから。
ラーラとルークの無邪気な笑顔が、私の心を何度も救ってくれたから。
あの小さな店で家族みんなで積み重ねた、温かい日々の全てが、今の私の、そして私たちの礎となっているのです。
貴族になるための一年間は、正直、何度も心が折れそうになりました。
でもその度に、お父さんの作るステーキの匂いや、お母さんのシチューの優しい味を思い出して、立ち上がることができました。私の根っこは、どこまでいっても『旅人の食卓』の娘。それだけが、私の支えであり、誇りです。
愛するラーラへ。
もう、いじめられる心配はないわね。あなたの心の底からの「学校が楽しみ」という笑顔は、お姉ちゃんがこの世界で手に入れた、何よりも尊い宝物です。これからは、もっともっと笑って、幸せになるのよ。
元気なルークへ。
これからもお店のマスコットとして、みんなを笑顔にしてあげてね。お姉ちゃんがいなくても、お父さんとお母さんを助けてあげるのよ。
明日、私の名前は変わります。住む場所も、着る服も変わるでしょう。
けれど、私の心が、この家族から離れることは、決してありません。
私は、カイン様のお嫁さんになります。でも、それと同時に、いつまでも、お父さんとお母さんの娘であり、ラーラとルークの自慢のお姉ちゃんでいることを、ここに誓います。
私に、この命をくれて、ありがとう。
私に、料理の楽しさを教えてくれて、ありがとう。
私の未来のために、涙をこらえて送り出してくれて、本当に、ありがとう。
たくさんの愛と、言葉では伝えきれないほどの感謝を込めて。
あなたたちの娘であり、姉である、ユーユより』
手紙を静かに折りたたみ、美しい封筒に入れる。これで、もう、迷いはない。私の心は、二つの家族からの、温かい愛で満たされている。
「ユーユ様。お時間でございます」
侍女の声に、私は、はっと、長い回想から、現実へと引き戻された。
鏡の中の私は、もう、迷ってはいなかった。その瞳には、不安ではなく、静かな自信と、愛しい人に会える、確かな喜びが宿っている。
「ええ、行きましょう」
私は、ドレスの裾を優雅にさばき、部屋の扉へと向かった。
今夜は、カインの、そして、私もまた、「ユーユ・デ・オルコット」として、正式に社交界にデビューする、デビュタントの夜なのだ。
会場である、侯爵邸の大舞踏室ボールルームの入り口に立った時、そのあまりの華やかさに、私は息を呑んだ。天井からは巨大なシャンデリアが吊り下げられ、その光が、磨き上げられた大理石の床に、星屑のように反射している。
やがて、私の番が来た。司会進行役の、厳かな声が、ホールに響き渡る。
「子爵、アルフォンス・デ・オルコット様ご令嬢、ユーユ・デ・オルコット様、ご入場!」
全ての視線が、私一人に、突き刺さるのを感じた。
私は、サンドラ先生に教わった、最も優雅なお辞儀を、ゆっくりと披露する。顔を上げた瞬間、ホールは、賞賛と好奇のざわめきに包まれた。
その時だった。ざわめく群衆が、左右に割れていく。
その道の先から、一人の青年が、まっすぐに、私の方へと歩んでくる。今日の主役、カインだった。
白い軍服風の礼服が、彼の精悍さと気品を、最大限に引き立てている。だが、その、私だけを見つめる、優しくて、情熱的な紺碧の瞳は、少しも変わっていなかった。
彼は、私の目の前で、完璧な騎士の礼をもって、跪いた。
「ユーユ」
彼は、私の手を取り、その甲に、優しく、唇を寄せる。
「……息をのむほど、綺麗だ」
その、囁きに、私の頬が、再び、熱を持った。
「カインこそ。とても、素敵よ」
彼は、立ち上がると、私に、片腕を差し出した。
「さあ、行こうか。私たちの、最初のダンスを踊ろう」
彼に導かれ、ホールの中心へと進み出る。ワルツが、始まった。
もう、足がもつれることも、ステップを間違えることもない。彼の、力強いリードに、私の体が、まるで、吸い付くように、ついていく。この世界に、存在するのは、私と、カインの、二人だけ。
私たちは、互いの瞳の中に、未来の、約束の光を見ながら、ただ、夢中で、踊り続けた。
一曲が、終わり。鳴り止まない、万雷の拍手の中。
カインは、私を、ホールの喧騒から離れた、月明かりが差し込む、静かなバルコニーへと、連れ出した。
「ユーユ」
彼は、私の両手を、そっと、握りしめた。
「一年前、父上が、私たちの代わりに、話を進めてくれた。けれど、今夜は、僕自身の言葉で、僕自身の心で、君に伝えたい」
そう言うと、彼は、私の目の前で、再び、深く、跪いた。
そして、小さなベルベットの箱を取り出し、それを開けてみせた。中には、月の光を集めて作られたかのような、小さな、銀の指輪が、静かに輝いていた。
「ユーユ・デ・オルコット。……いや、僕だけの、愛しいユーユ」
「君は、僕の命を救ってくれた。僕の、色のなかった世界に、温かい光と、美味しい香りと、そして、愛を、教えてくれた。僕の心は、もう、ずっと前から、君だけのものだ」
彼は、私を、まっすぐな瞳で見つめ、そして、言った。
「――僕と、結婚してください」
それは、一人の男として、全ての覚悟を決めた、どこまでも、真摯で、力強い、プロポーズの言葉だった。
私の目から、涙が、一筋、こぼれ落ちた。
それは、前世の、孤独だった佐藤祐子のための、鎮魂の涙。
そして、今、この上ない幸せを、手に入れた、ユーユ・デ・オルコットの、歓喜の涙だった。
私は、涙で濡れた頬のまま、人生で、最高の笑顔を浮かべた。
「――はい、喜んで。あなたの、お嫁さんに、なります」
その言葉を、合図に。
カインは、立ち上がると、優しく、指輪を、私の左手の薬指に、はめてくれた。
そして、そっと、私を、その腕の中に、抱きしめた。
夜空には、満月が、まるで、私たちの未来を祝福するかのように、美しく、輝いていた。
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