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17 二通の手紙

二年という歳月が、夢のように過ぎ去っていった。


アッシュフォードの町における『旅人の食卓』の地位は、もはや不動のものとなっていた。押しも押されもせぬ名店。その評判は、領都を越え、近隣の町にまで届くほどになっていた。


店のメニューは、季節ごとに少しずつ入れ替わり、訪れる客を飽きさせない工夫を凝らした。

春には、シャキシャキの緑の若芽と新鮮な卵を使ったキッシュを。夏には、酸味の強いリコピンカをふんだんに使った、冷製のパスタを。秋には、香り高いキノコをたっぷり入れたクリームシチュー。そして冬には、神様からの贈り物であるカカノンを使った、濃厚なガトーショコラが、店の看板デザートとして、確固たる地位を築いていた。


店の成功は、私たち家族の生活を、信じられないほど豊かにした。


父さんと母さんは、もうお金の心配をすることなく、穏やかな笑顔で毎日を過ごしている。ラーラも、あの忌まわしいいじめの記憶など、どこかに消え去ってしまったかのように、学校でたくさんの友達を作り、明るくのびのびと成長していた。ルークは、店のマスコットとして、相変わらず元気に客たちの間を走り回っている。


そして、私は十二歳になった。厨房に立って指示を出す姿は、もはや店の誰からも、子供として見られることはなかった。私は、この『旅人の食卓』の、心臓であり、頭脳だった。


そんな、どこまでも続くかと思われた、平和で、幸福な日常。

それを、打ち破るように。

ある日の午後、一通の手紙が、私の元に届けられた。



「ユーユ嬢ちゃんに、カイン様からのお手紙だぜ」


店の休憩時間に、中庭でハーブの手入れをしていた私に、騎士の姿のジョーが、少しだけ、にやにやしながら、一通の封筒を手渡した。

差出人の名前に、私の心臓が、とくん、と可愛らしい音を立てる。


この二年間、私とカインの関係は、友人として、ゆっくりと、しかし着実に、育まれていた。

彼が店にお忍びで食事に来ることもあれば、私が侯爵邸に呼ばれ、新しいデザートの試食をしてもらうこともあった。私たちは、同い年の、身分を越えた、かけがえのない親友だった。……少なくとも、私は、そう思っていた。


封蝋を切り、上質な羊皮紙を広げる。そこに綴られていたのは、彼の、少し癖のある、けれど、力強い筆跡だった。



『愛しいユーユへ。


君と出会ってから、もう二年という歳月が経ったね。

今でも、初めて君に会った日のことを、鮮明に覚えているよ。ベッドの上で、僕はもう、全てを諦めていた。明日が来ることさえ、怖かったんだ。

そんな僕の前に現れた君は、まるで太陽みたいだった。

君の作る料理は、僕の体を元気にしてくれた。そして、君の笑顔は、僕の心を、いつも温かく照らしてくれた。

この二年間、君と過ごす時間は、僕にとって何よりの宝物だった。君と話していると、どんな悩みも些細なことに思えてくる。君が作る料理を食べていると、世界で一番の幸せ者だと感じるんだ。

君は、僕の命の恩人であり、最高の料理人であり、そして、僕が世界で一番信頼している、かけがえのない友達だ。

さて、少し堅苦しい話になるけれど、本題に入らせてほしい。知っているかもしれないけれど、僕は、一年後に、十三歳で成人の儀であるデビュタントを迎えることになったんだ。

それは、僕が子供時代を終え、一人の男として、貴族として、正式に社交界に足を踏み入れる、とても大切な儀式なんだ。そして、その夜会で、僕の隣に立つパートナーは、僕の未来を象徴する、最も重要な存在になる。

だから、その、僕の人生にとって、最も大切な夜会で、僕の隣に立ち、最初に踊るパートナーになってくれないだろうか、ユーユ、君以外に、考えられない。

どうか、僕のパートナーになってほしい。

君からの良い返事を、心から待っている。


カインより』



手紙を、読み終えた瞬間。私の顔に、カッと熱が集まるのが分かった。

嬉しい。

心臓が、張り裂けてしまいそうなほど、嬉しい。

彼の、パートナー。その言葉の甘い響きに、私の心は、蕩けてしまいそうだった。


だが、その甘い夢は、すぐに、冷たい現実によって打ち砕かれる。


(……無理よ)


デビュタント。それは、貴族の男女が、正式に社交界にデビューする、華やかな舞台。そのパートナーとは、将来の婚約者候補として、衆目の前に披露される、極めて重要な存在だ。

そんな場所に、平民で、ただの料理屋の娘である私が、立てるわけがない。

カインの優しさは、嬉しい。けれど、彼の立場を考えれば、これは、あまりにも無邪気で、危険な誘いだった。


私は、燃えるように熱い頬のまま、ジョーに向き直った。


「……ジョーさん。カインには、心から感謝していると、そして、この上なく光栄だけれど、身分違いの私には、その大役は務まりません、と。丁重に、お断りすると、お伝えください」


私の返事に、ジョーは、やはりな、とでも言うように、肩をすくめて苦笑した。


「まあ、嬢ちゃんなら、そう言うだろうと思ってたぜ」


「え?」


「だから、侯爵様も、これを、用意しておられた」


そう言って、ジョーが、懐から、もう一通の手紙を取り出した。

それは、先程のカインの私的な手紙とは違う。アッシュフォード侯爵家の、正式な封蝋が押された、荘厳な召喚状だった。


『旅人の食卓』主人、マーク。その妻、リリア。及び、長女、ユーユ。

明日、昼の刻、三人揃って、侯爵邸に参内されたし。


その、有無を言わせぬ文面に、私の背筋を、冷たいものが走り抜けた。



翌日。


私たちは、考えうる限り、最も上等な正装に身を包み、緊張で石のように固まりながら、侯爵邸の謁見の間に通された。

上座には、侯爵様と侯爵夫人。そして、その隣には、昨日、私に手紙を送ってきた張本人、カインが、決意を秘めた、真剣な眼差しで、こちらを見つめていた。


「ユーユ殿、そして、マーク殿、リリア殿。よく来てくれた」


侯爵様の、穏やかな声が、静まり返った部屋に響く。

父さんと母さんは、床に頭がめり込むのではないかというくらい、深々と頭を下げている。


「まずは、改めて、礼を言わせてほしい」


侯爵様は、ゆっくりと、言葉を続けた。


「ユーユ殿。君は、息子の命を救ってくれた、我が家の恩人だ。それだけではない。君の店、『旅人の食卓』は、今や、このアッシュフォードの誇りだ。君たちの作る料理は、この町の多くの人々の腹を満たし、心に活気と笑顔をもたらしてくれた。領主として、そして、一人の親として、この二年間、君たちが成し遂げてきたこと全てに、心からの感謝を捧げたい」


身に余る、賞賛の言葉。

父さんと母さんは、恐縮のあまり、もはや、ミミズのように縮こまっている。


「そこで、だ」


侯爵様の声のトーンが、少し変わった。


「我らには、君に、そして、君たち家族に、もう一つ、大きな願いがあるのだ。折り入っての話なのだが……聞いてもらえるだろうか」


「は、ははは、はい! なんなりと!」


父さんが、裏返った声で答える。


侯爵様は、一つ、息を吸い込むと、とんでもない爆弾を、私たちに投下した。


「ユーユ殿を、我らの息子、カインの、正式な婚約者として、迎え入れたい」


「………………は?」


父さんの口から、間の抜けた声が漏れた。

私も、母さんも、あまりの言葉に、思考が完全に停止した。

こ、婚約者……? 私が、カインの?


私たちが、誰一人、言葉を発せないでいると、侯爵様は、話を続けた。


「無論、平民である君が、そのまま、我が息子と婚約することは、貴族社会のしきたりが許さん。……そこで、まずは、ユーユ殿を、貴族の養女として迎えたいと考えている」


侯爵様は、寄り子の、オルコット子爵家の名前を挙げた。オルコット子爵夫妻には子供がおらず、かねてより、聡明で心優しい養女を迎えたいと、願っていたという。


「彼らも、カインを救った君の噂をよく知っておる。君のような娘を、ぜひ、我が娘として迎え入れたいと、心から喜んで、快諾してくれた」


貴族の、養女。

そして、カインとの、婚約。

物語の展開が、あまりにも、急すぎて、私の頭は、もう、ぐちゃぐちゃだった。


侯爵様は、そんな私たちの混乱などお構いなしに、話を締めくくる。


「カインは、知っての通り、三男だ。このアッシュフォードの爵位を継ぐ立場にはない。いずれは、王都で兄たちの補佐をするか、あるいは、家を出て、新たな事業を興すことになるだろう。どちらの道に進むにせよ、カインには、賢く、芯が強く、そして、人の心を温かくする、太陽のような女性が、隣に必要だ。……ユーユ殿、君しか、おらぬ」


最後に、侯爵夫人が、優しく、しかし、真剣な眼差しで、私に語りかけた。


「ユーユさん。どうか、これからも、あの子の支えとなってはいただけませんか? あなたが、隣にいてくれるのなら、私たちは、何も、心配することはありません」


そう言って、侯爵夫人までもが、私たち平民に、深々と頭を下げたのだ。


もう、父さんと母さんは、完全にパニック状態だった。


「め、め、滅相もございません! うちのような、しがない平民の娘が、侯爵家のご子息様と、こ、婚約など、めっそう千万!」


「ですが、侯爵様ご夫妻が、ここまでおっしゃってくださるのに、逆らうことなど、天地がひっくり返っても……!」


「ああ、神様! いったい、どうすれば……!」


二人は、もはや、支離滅裂なことを口走り、頭を抱えている。


私も、同じだった。


(貴族になる? 私が? カインと、結婚……?)


頭の中が、真っ白になる。

前世の、五十年間、誰からも愛されることなく、孤独に生きてきた、佐藤祐子の記憶が、亡霊のように蘇る。

(私なんかが、本当に、そんな幸せを、手に入れてもいいの? 喪女で、デブで、色気もなくて、ただ、料理が好きなだけだった、あの私が……)


その時だった。

私の脳裏に、この二年間、カインと過ごした、たくさんの思い出が、走馬灯のように、駆け巡った。

初めて会った時の、あの儚げな姿。

私の料理を、夢中で食べてくれた、あの嬉しそうな顔。

一緒に、他愛ない話で、心の底から笑い合った、あの日当たりの良いサンルーム。

そして、あのハートのチョコレートを渡した時の、自分の、張り裂けそうなほどの、高鳴る胸の鼓動。


(……好きだ)


私は、気づいてしまった。

いや、ずっと、気づかないふりをしていた、自分の、本当の気持ちに。


(私は、カインのことが、どうしようもなく、好きなんだ)


その想いを自覚した瞬間。

私の心にあった、全ての迷いや、不安は、綺麗さっぱり、消え失せていた。

あるのは、ただ一つ。

彼の隣にいたい、という、どこまでも純粋で、強い願いだけだった。


私は、混乱する両親の前に、すっと進み出ると、侯爵様たちに向き直った。

そして、一つ、深呼吸をし、覚悟を決めた、まっすぐな瞳で、はっきりと、告げた。


「……謹んで、お受けいたします」


その凛とした声に、父さんと母さんが、はっと顔を上げた。


「オルコット子爵家の、養女となることも。そして、カイン様の、婚約者となりますことも。未熟者の私ですが、これから、精一杯、務めさせていただきます」


私の、あまりにも潔い返事に、侯爵様と侯爵夫人は、満足そうに、深く、頷いた。

そして、私の隣に立ったカインが、顔を真っ赤にしながらも、今までで一番の、幸せそうな笑顔を浮かべて、私の手を、そっと、握りしめた。


「……ありがとう、ユーユ……!」


その、温かい手の感触に、私の胸も、幸せで、いっぱいになった。

私の、二度目の人生は、今日、この瞬間、また、新しい、そして、とびきり甘い、物語のページを、めくろうとしていた。

ご一読いただきありがとうございます!

最近読んでくださる方が増えてきて、とても嬉しいです。

もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。

今後の励みになりますので、ぜひページ下のいいねボタンで応援してください。

よろしくお願いします(^O^)/

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