16 神様からの贈り物 私からの贈り物
店の運営も完全に軌道に乗り、私たちの生活は、まるで嘘のように穏やかで、満ち足りたものになっていた。
そんな平和な日常の中で、私には一つ、新しい習慣ができていた。週に一度、閉店後に、あの寝室の隅に作った即席の祭壇へ、神様への感謝を込めて料理をお供えすることだ。
お供えした料理は、翌朝には必ず綺麗さっぱり消えている。そして、時折、空になった皿の上に、お返しとばかりに、見たこともないほど美しい結晶の岩塩や、異国の珍しいスパイスが、ちょこんと置かれていることもあった。
食いしん坊な神様との、静かで、不思議な交流。それは、私の日常に、ささやかな彩りを添えてくれていた。
季節は少しだけ巡り、アッシュフォードにも、肌寒い風が吹くようになった、ある日の夜。
厨房の後片付けをしながら、私は、ふと、前世の記憶を思い出していた。寒い冬の夜に飲む、甘くて温かいホットチョコレート。仕事で疲れた心と体を癒してくれた、濃厚なチョコレートケーキ。
(……あぁ、チョコレートが、猛烈に食べたい……)
だが、この世界に、チョコレートは存在しない。
いや、本当に、そうだろうか?
(……そうだ、神様にお願いしてみよう!)
藁にもすがる思いで、私はその夜のお供えに、一通の手紙を添えることにした。
『天の上の、食いしん坊な神様へ。
いつも、私の料理を美味しく食べてくださり、本当にありがとうございます。私の記憶の中に、『チョコレート』という、それはそれは美味しくて、人を幸せにする、黒くて甘いお菓子がありました。それは、『カカオ』という、不思議な木の実から作られます。
もし、この世界にも、その『カカオ』に似たものが存在するなら、ほんの少しで構いませんので、私に分けてはいただけないでしょうか。
未知の美味なるお菓子を、是非とも、神様にもお供えしたく存じます。
ユーユより』
翌朝。期待と不安でドキドキしながら祭壇へ向かうと、お供えは消え、代わりに、ゴツゴツといかつい、深褐色の木の実が三つ置かれていた。
【鑑定】すると、その名は【カカノンの実】。古代の文献に、魅惑の菓子『神々の糧』になると記されている、希少な果実だった。
「やった……! やったー!」
私は、思わず、小さな声で叫び、ガッツポーズをした。神様、ありがとう!
◇
その日の午後、厨房は、家族全員の好奇心に満ちていた。
「お姉ちゃん、これ、本当に食べられるの?」
「ふふん、見てなさい。これが今から、世界で一番美味しいお菓子に変身するんだから」
硬いカカノンの実を割り、中の種を発酵させ、天日で干し、そして焙煎する。パチパチと豆がはぜる音と共に、厨房には得も言われぬほど香ばしい、甘くてビターな香りが満ちていった。
焙煎した豆の皮を剥き、すり鉢でひたすら潰していく。見かねた父さんと交代しながら、二時間ほども潰し続けただろうか。固かった豆は、やがて、自身の油分で、どろりとした、艶やかな黒い液体へと姿を変えた。
「できた……! カカオペーストだわ!」
これに、黒蜜糖と自家製のバターを加え、湯煎で練り上げ、テンパリング(温度調整)を施す。そして、ついに。絹のように滑らかで、宝石のように艶やかな、漆黒の液体が完成した。
私は、その一滴を、指先にとって、そっと舐めた。
「…………っ!!」
濃厚な甘さ。豊かなカカオの香りと、心地よいほろ苦さ。舌の上でとろりと蕩けていく、至福の食感。間違いない。これは、チョコレートだ。
家族も、その未知の美味に、完全にノックアウトされていた。
◇
「それでね」
私は、興奮冷めやらぬ家族に、一つの提案をした。
「古い物語の本で読んだことがあるんだけど、『聖ヴァレンティヌスの日』っていう、素敵な習慣があるんですって。一年に一度、こういう特別な日に、お世話になった人や、大好きな人に、『いつもありがとう』っていう感謝の気持ちを込めて、チョコレートを贈るのよ」
「へえ、それは素敵だな」
「いい習慣ねえ」
家族は、感心したように頷いている。
私は、カインの顔を思い浮かべていた。彼が元気になってくれたこと。私の家族を守ってくれたこと。そして、私に、新しい世界の楽しさを教えてくれたこと。この感謝の気持ちを、形にして、伝えたい。
私は、買っておいた可愛らしいハートの型に、完成したばかりのチョコレートを丁寧に流し込んだ。そして、小さなカードに、心を込めてメッセージを書き添える。
『カインへ。いつも、本当にありがとう。あなたと友達になれて、私は、とても幸せです。これは、感謝の気持ち。私の、特別な贈り物です。ユーユより』
◇
翌日。騎士の姿で店に顔を出したジョーに、綺麗にラッピングした小さな箱を手渡した。
「ジョーさん。これを、カインに届けていただけますか?」
「おっ、嬢ちゃんからの贈り物か。ようし、任せとけ!」
その日の午後。侯爵邸のカインの部屋。ジョーから小さな包みを受け取ったカインは、「ユーユから?」と不思議そうに首を傾げた。
箱の中には、見たこともない、黒くて艶やかな、愛らしいハートの形をしたお菓子と、小さな手紙が収まっていた。彼は、先に、その手紙を読んだ。読み終える頃には、彼の頬は、ぽっと、熟した果実のように赤く染まっていた。
彼は、恐る恐る、そのハートのお菓子を、ひとかけら、口に運んだ。
「…………ッ!!」
彼の紺碧の瞳が、驚きに、大きく見開かれる。
「あ、甘い……! それに、少しだけ、苦い……。なんだ、これ……なんだ、この、胸がドキドキするような、美味しいお菓子は……!」
口の中でとろける濃厚な甘さと、後から追いかけてくる芳醇な苦み。その、今まで知らなかった複雑で奥深い味わいに、カインは衝撃を受けた。
そして、その味は、不思議と、今の自分の気持ちとよく似ているような気がした。
目を閉じると、脳裏にユーユの顔が浮かんだ。
ベッドで横になっている僕を励ましてくれた、優しい言葉。
厨房で真剣な顔で料理をしていた横顔。
開店日に笑顔で自分を初めてのお客様として迎え入れてくれたときの可愛らしい姿。
思い出すだけで、胸の奥が、きゅうっと温かくなる。
友達。命の恩人。最高の料理人。そう思っていた。でも、本当に、それだけだろうか?
なぜ、彼女からの贈り物だと、こんなにも嬉しいのだろう。なぜ、彼女の顔を思い浮かべるだけで、胸がこんなにも温かくて、そして、少しだけ苦しくなるのだろう。
「……ああ、そっか」
カインは、かじりかけのハートのチョコレートと、手の中にあるユーユからの手紙を、何度も、何度も、交互に見つめた。
手紙に書かれた「特別な贈り物」という言葉が、特別な意味を持って、彼の胸に響く。
彼は、自分が、ユーユに恋をしているのだと、その時、はっきりと自覚した。
込み上げてくる、どうしようもないほどの喜びと、照れ臭さに、耐えきれなくなったように。
「うわあああああっ……!」
彼は、真っ赤な顔のまま、ベッドに突伏して、幸せそうに、足をばたつかせた。
その手には、ユーユからの「特別な贈り物」が、固く、固く、握りしめられていた。
「次に会ったら……どんな顔して、会えばいいんだ……」
初めての恋の甘さとほろ苦さを、カインは一人、噛みしめるのだった。
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