15 新装開店と穏やかな日の訪れ
あの日、侯爵様から夢のような褒美をいただいてから、三ヶ月の月日が流れた。
私たちの人生は、まさに激変した。
アッシュフォードの目抜き通り、その一等地に、新生『旅人の食卓』は、輝かしくオープンした。
開店初日の朝。私たちは、真新しいユニフォームに身を包み、緊張と期待で胸をいっぱいにしながら、その瞬間を待っていた。
以前の古びた店とは比べ物にならない。大きなガラス窓からは温かい光が差し込み、磨き上げられた木の扉には、私たちがデザインした可愛らしいコロッケのマークが誇らしげに掲げられている。店の看板には、侯爵様から直々に賜った『侯爵家御用達』の金文字が、燦然と輝いていた。
「すごいな……。俺たちの店が、本当にこんなに立派になっちまうなんて……」
父さんが、感極まった声で呟く。
「ええ、本当に。夢のようですわ……」
母さんの目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。
開店を告げる鐘が鳴る、その直前。店の扉が、静かにノックされた。
「どうぞ!」
私が声をかけると、扉が開き、そこに立っていたのは、少し照れくさそうに笑うカインと、その両親である侯爵夫妻だった。
「約束通り、来たよ。僕が、最初のお客さんだ」
カインの言葉に、私たちは顔を見合わせ、ぱっと笑顔になった。
「いらっしゃいませ、カイン! 約束、守ってくれてありがとう!」
「もちろんだよ。この日を、ずっと楽しみにしていたんだ」
私たちは、侯爵様ご一家を、一番眺めの良い窓際の席へと案内した。
「今日は、カインのための、とびっきりのフルコースを用意したの」
私がそう言うと、カインは子供のように目を輝かせた。
前菜は、母さんの自信作『大地の恵みの彩りプレート』。メインは、父さんが完璧な焼き加減で仕上げた『熟成ボアのジューシーステーキ』。そして、もちろん、絶対的エースの『黄金のコロッケ』も、揚げたて熱々でテーブルに並んだ。
「やっぱり、ユーユの料理は世界一だ!」
カインは、夢中で料理を頬張りながら、心の底からそう言った。その幸せそうな顔を見ているだけで、私たちのこれまでの苦労が、全て報われるようだった。
侯爵夫妻も、穏やかな笑みを浮かべて食事を楽しんでいる。この光景こそ、私がこの世界で手に入れた、何物にも代えがたい宝物だった。
◇
開店の翌日。私は、学校の帰りに、約束通り友人のエリーを店に招待した。
「わ……わぁ……!」
店の前に立ったエリーは、そのあまりの立派さに、ただただ口をあんぐりと開けて固まっていた。
「こ、ここが本当にユーユちゃんのお店なの……? まるで、お城みたい……」
「さあ、入って入って!」
ラーラと二人でエリーの手を引き、店内に案内する。活気と、美味しい匂いに満ちた空間に、エリーは目を白黒させていた。
「エリーちゃんのために、特別なお子様ランチを作ったのよ!」
私がテーブルに運んだのは、大きな木のプレートに、ミニコロッケ、ミニハンバーグ、ポポイモのサラダ、虹色ニンジンのグラッセ、そしてデザートのフルーツコンポートが、彩り豊かに盛り付けられた、夢のような一皿だった。
「すごい……! きれい……!」
エリーは、その一皿を前に、しばらくうっとりと見つめていた。そして、小さなフォークでコロッケを一口食べると、その大きな瞳から、ぽろりと涙をこぼした。
「おいしい……。こんなに美味しいもの、生まれて初めて食べた……」
「でしょー!」
ラーラが、自分のことのように胸を張る。
「いつでもおいで。ここは、エリーのもう一つのおうちみたいなものだから」
私がそう言うと、エリーは何度も、何度も、こくこくと頷き、この日のことを一生忘れないと心に誓うように、大切に、大切に、お子様ランチを味わっていた。
◇
そんな幸せな開店の日々から、数ヶ月が過ぎた。
『旅人の食卓』は、名実ともに、このアッシュフォードで今一番活気のある店へと変貌を遂げ、メニューも大幅に増えていた。
ある日の昼下がり。店が、ランチタイムの喧騒で最も賑わっている時間帯だった。
その、けたたましい喧騒をさらに上書きするように、店の扉が、乱暴に開かれた。
入ってきたのは、いかにも金持ちであることを誇示するような、けばけばしい服装をした二組の家族連れ。ワリー・ブルゲルと、キララ・ゴクア。そして、その両親たちだった。
「まあ、ここですの? 侯爵様が贔屓にしているという、噂のお店は」
ワリーの母親が、扇子で口元を隠し、品定めするような視線で店内を見回す。
「ふん、思ったよりは綺麗にしているじゃないか。だが、所詮は元貧民のやっている店。すぐに化けの皮が剥がれよう」
ワリーの父親、ブルゲル氏が、これみよがしに大きな声で言った。彼らは、私たちの店の評判を耳にし、冷やかし半分で見に来たのだろう。その目には、嫉妬と侮蔑の色が、醜く浮かび上がっていた。
「ブルゲル様、ゴクア様。いらっしゃいませ。お席へ、ご案内いたします」
私が、営業用の笑顔で深々と頭を下げると、キララが、鼻で笑った。
「ラーラ! あなた、まだそんなみすぼらしいリボンしか持っていないの? 私のなんて、王都の最新のデザインですのよ!」
ラーラの小さな手が、きゅっとエプロンを握りしめるのを、私は横目で見た。
私は、彼らの嫌味を無視し、窓際の広いテーブルへと案内した。だが、ワリーが、その行く手を阻むように、私の前に立ちはだかった。
「おい、ユーユ。なんだ、その態度は。俺たちを、誰だと思ってるんだ!」
その大声に、周りの客たちが、何事かとこちらに注目し始めた。
「お店の中では静かにしていただけませんか?」
「うるさいッ!!」
私が冷静に諫めようとした瞬間、逆上したワリーが、私の肩を、力任せに、強く突き飛ばした。
ガチャンッ!
私は、為す術もなく、床に倒れ込んだ。近くのテーブルにぶつかり、そこに置かれていた皿が、甲高い音を立てて砕け散る。
一瞬にして、店内の全ての音が、消えた。
「ははっ! いいざまだ!」
静寂を破ったのは、ワリーの甲高い嘲笑だった。
「やっぱりお前は、そうやって床を這いずり回っているのが、お似合いなんだよ! 貧乏人が!」
ラーラが、恐怖に顔を引きつらせ、目に涙を浮かべて立ち尽くしている。
私は、割れた皿の破片が散らばる床の上で、唇を、ぎりりと噛み締めた。悔しい。だが、ここで騒ぎを起こせば、店の評判に傷がつく。その一心で、怒りと屈辱を飲み込み、ゆっくりと、立ち上がろうとした。
その時だった。
店の奥、半個室のようになっているボックス席から、静かだが、冬の冷気のように、底冷えのする声が、店内に響き渡った。
「――それ以上、彼女に触れてみろ」
声変わり前の、まだ少し高い、少年の声。だが、その声には、聞く者全てを黙らせるような、絶対的な威厳が宿っていた。
「万死に値するぞ」
全員の視線が、声のした方へと、釘付けになった。
そこに立っていたのは、お忍び用の、上質だが簡素な服を着た、一組の親子だった。
氷のような冷徹な表情でワリーたちを睨み据える、アッシュフォード侯爵。その隣で、心配そうに眉を寄せる、美しい侯爵夫人。
そして、その二人の前に、まるで大切なものを守る盾のように、一人の少年が立ちはだかっていた。
すっかり健康を取り戻し、その瞳に、正義の、そして、静かな怒りの炎を宿した、カイン。
ワリーが、私を突き飛ばした、あの瞬間。彼は、弾かれたように、その席を立っていたのだ。
「こ、侯爵様……!? な、なぜ、このような場所に……」
ブルゲル氏の顔から、さっと血の気が引いていく。その顔は、見る見るうちに、土気色へと変わっていった。
だが、カインは、恐怖に固まるブルゲル氏たちには目もくれず、ただまっすぐに、嘲笑を浮かべたままのワリーを、射殺さんばかりの瞳で睨み据えていた。
そして、彼は、倒れている私の方へ、一歩、足を踏み出した。
「ユーユ! 大丈夫か!?」
カインの、心からの叫びが店内に響き渡る。
彼は、倒れている私の元へ、駆け寄った。そして、私の前にためらいなく跪くと、その手をそっと差し伸べた。
「ユーユ、大丈夫か!? どこか痛むところはないか?」
その紺碧の瞳には、燃えるような怒りと、私への純粋な心配の色が、同時に浮かんでいた。
「……カイン。私は、大丈夫よ」
私は、彼の手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。突き飛ばされた肩が少し痛むが、それよりも、この状況をどう収めるか、そちらの方が重要だった。
私とカインの親密な様子、そして、その後ろに氷のような表情で佇むアッシュフォード侯爵その人を見て、ワリーと、その父親であるブルゲル氏の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。
「ち、ちが……! ちがうんです、カイン様!」
ワリーが、急にどもりながら、情けない声で言い訳を始めた。
「こ、こいつが、俺たちを馬鹿にするような態度を取ったから……! それで、ちょっと、注意しようとしただけで……!」
「そうです、侯爵様!」
ブルゲル氏も、真っ青な顔で、必死に侯爵へと取りすがろうとする。
「これは、その、子供同士の、本当に些細な喧嘩でございまして……!」
見苦しい。あまりにも、見苦しい言い訳だった。
店の全ての客が、彼らの嘘を、冷たい目で見つめている。
だが、彼らの言葉に耳を貸したのは、侯爵ではなかった。カインだった。彼は、私を支えながらゆっくりと立ち上がると、ワリーをまっすぐに見据えた。
「君が、やったのか」
静かな問いだった。だが、その声は、隠しようのない怒気をはらんでいた。
「僕の、大切な友達を。君が、突き飛ばしたのか」
「い、いや、だから、こいつが……!」
「黙れッ!!」
カインの、少年らしい鋭い声が、店内に突き刺さった。
「僕は、見ていた! 君が、何の罪もない彼女を、ただ自分のくだらないプライドのために、嘲笑し、突き飛ばすのを! 君は、ユーユが僕の命を救ってくれたことも知らず、彼女の優しさを、その汚れた手で踏みにじったんだ!」
カインの痩躯から、誰も想像しなかったほどの、気高い怒りのオーラが放たれる。
「僕の……僕の大切な友達を傷つける者は、誰であろうと許さない!」
その気迫に、ワリーは「ひっ」と短い悲鳴を上げて後ずさった。
そして、ようやく、侯爵が口を開いた。地の底から響くような、絶対的な威厳を込めた声で、一言だけ、告げた。
「――これ以上口を開くな。下手人ども」
その言葉が発せられた瞬間、店の全ての空気が、凍りついた。下手人。それは、罪を犯した者を指す、問答無用の断罪の言葉だった。
「こ、侯爵様! なにとぞ、なにとぞご慈悲を!」
先程までの傲慢さは見る影もなく、ブルゲル氏とゴクア氏が、床に這いつくばって命乞いを始めた。
「この馬鹿息子には、私がきつく言い聞かせますので! 金ならいくらでも! 我が家の全財産を差し出しますので、どうか、どうかお許しを!」
「そうですわ! 私たちも、二度とこのようなことがないように!」
ワリーとキララの母親たちも、高価なドレスが汚れるのも構わず、床に額をこすりつけて泣き叫ぶ。その姿は、哀れを通り越して、醜悪だった。
侯爵は、そんな彼らを、虫けらを見るような冷たい目で見下ろした。
「我が息子カインの、命の恩人であり、そして、かけがえのない友でもあるユーユ殿に、公衆の面前で狼藉を働くとは。その罪、万死に値する。お前たちの汚れた金など、何の価値もない」
彼は、静かに、しかし、決して覆ることのない判決を言い渡した。
「――追って、沙汰を申し渡す。それまで、身を清め、首を洗って待つがよい」
「首を洗って待て」。
それは、もはや、慈悲など欠片も感じられない、最終通告だった。
ワリーも、キララも、その両親も、ただ、カタカタと震えることしかできない。
◇
数日後。
私たちは、侯爵邸で事件の証人として、ジョーを前に全てを話した。ラーラが、震える声で、教師のノルムに見て見ぬふりをされ続けた、長年のいじめの実態を涙ながらに語った時、ジョーの目には、静かな怒りの炎が宿っていた。
それから、一週間後。
アッシュフォードの町中に、侯爵様の名において、一枚の布告が張り出された。その内容は、あまりにも厳しく、そして、公正なものだった。
一つ。ブルゲル家、及び、ゴクア家に対し、お家お取り潰しを申し渡す。
全財産は没収。その財産を町の貧しい子供たちのための教育基金に充てるものとする。家長のブルゲル氏、及びゴクア氏は、その妻と共に、領内最北端の黒鉄鉱山へ、無期限の強制労働に処す。
一つ。ワリー・ブルゲル、及び、キララ・ゴクアは、その親と共に鉱山へ送致する。
ただし、子供であることに鑑み、過酷な採掘作業は免除し、鉱山施設での雑用と、厳しい監督下での再教育を命じる。己の罪を心から悔い、真人間になるその日まで、アッシュフォードの土を再び踏むことは許されぬ。
一つ。いじめに加担したネチット、ゴッツ、ミエッパに対し、その親には多額の罰金を科す。
本人たちは、一年間の登校を禁止し、その間、毎日、町の公共施設の清掃奉仕を命じる。
一つ。教師、ノルムは、聖職たる教師の務めを放棄し、子供の魂を踏みにじった大罪人である。
教職資格を永久に剥奪の上、ブルゲル氏らと共に、黒鉄鉱山での無期限強制労働に処す。
その、一切の情状酌量のない鉄槌に、町の人々は、侯爵様の怒りの大きさと、その公正さに、畏敬の念を抱いた。布告が張り出された日、騎士たちがブルゲル家などに乗り込み、泣き叫び、許しを乞う彼らを荷馬車に放り込み、連行していく姿を、多くの町民が目撃したという。
そして、誰もが、こう噂した。
『旅人の食卓』の、あの小さな料理人だけは、決して、怒らせてはならない、と。
◇
布告が張り出された、その日の帰り道。
ラーラは、私の手をぎゅっと握りしめ、夕焼けに染まる空を見上げた。
その顔には、もう、一片の曇りもなかった。
「お姉ちゃん。私、明日から、学校が、楽しみだよ」
その、心の底からの笑顔。
それこそが、私が、この世界に来て、勝ち取った、何よりも尊い、宝物だった。
私たちの戦いは、こうして、本当の意味で、終わりを告げたのだった。
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