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13 友情のコロッケ

数時間後。


カイン様の部屋に、出来立ての『命芽吹く鶏レバーのポタージュ』が、神様から頂いた美しい銀の器に入れられて運ばれた。

侯爵夫人と、そして私も、部屋の隅で、固唾を飲んでその様子を見守っていた。


カイン様は、メイドに体を支えられながら、ゆっくりと上半身を起こした。その顔には、「また、食べられないものを、無理に食べさせられるのか」という、諦めの色が浮かんでいる。


「カイン、新しい料理よ。少しでいいから……」


侯爵夫人の声も、不安に震えていた。


メイドが、スプーンにすくったポタージュを、カイン様の口元へと運ぶ。彼は、仕方なさそうに、小さく口を開けた。

スープの、優しい、滋味深い香りが、彼の鼻腔をくすぐる。


(……あれ?)


いつも感じていた、食べ物に対する嫌悪感が、ない。むしろ、その香りは、体の奥底で眠っていた、本能的な食欲を、かすかに刺激するようだった。


彼は、こくりと、スプーン一杯のスープを飲み込んだ。

次の瞬間。

カイン様の紺碧の瞳が、驚きに、大きく、大きく見開かれた。


(……おい、しい……)


それは、今まで、両親を安心させるために、無理やり口にしてきた、偽りの言葉ではなかった。

体の、細胞の一つ一つが。一年以上も、飢え、乾ききっていた彼の命そのものが、歓喜の声を上げている。

滑らかで、温かくて、どこまでも優しい味が、彼の弱りきった胃に、すうっと染み渡っていく。レバーの力強い生命力が、砂漠に水が染み込むように、全身に広がっていくのが分かった。


「……」


カイン様は、無言のまま、メイドの手からスプーンを奪い取ると、自らの手で、夢中になってスープを口に運び始めた。

一口、また一口と。その動きは、次第に力強くなっていく。

あっという間に、器は空になった。

彼は、名残惜しそうに、器の底をスプーンで何度もかき回し、そして、ぽつりと、呟いた。

一年間、誰も聞くことのなかった、奇跡の言葉を。


「……おかわり」


その瞬間、彼の隣にいた侯爵夫人が、ハンカチで口元を押さえた。その美しい瞳から、堰を切ったように、大粒の涙が、次から次へと溢れ出した。


「ああ……。ああ、カイン……! おかわり、って……今……!」


彼女は、言葉にならず、ただ嗚咽を漏らしながら、息子の痩せた体を、壊れ物を抱きしめるように、そっと抱きしめた。嗚咽は、止まらない。一年間、胸の内に溜め込んできた不安と悲しみが、喜びの涙となって、とめどなく溢れ出していた。


メイドの一人が、静かに部屋を飛び出し、廊下を駆けていく。


「旦那様! 旦那様! カイン様が、おかわりを!」


その報せは、執務室で書類の山に埋もれていた侯爵の耳に、雷鳴のように突き刺さった。彼は、ペンを放り出し、椅子を蹴るようにして立ち上がると、厨房へと駆け出した。そして、グラン料理長が慌てて用意したおかわりを、自らの手で盆に載せると、息を切らしながらカインの部屋へとやってきた。


「カイン!」


部屋に飛び込んできた父の姿に、カインは少し驚いたように目を見開いた。


「父上……」


「お前……おかわり、と申したそうだな」


侯爵の声は、威厳を保とうとしながらも、わずかに震えていた。


侯爵が自ら運んできた二杯目のポタージュを前に、カインは少し照れくさそうに頬を掻いた。


「なんだか、大勢に見られていると、少し恥ずかしいな……」


そう言いながらも、彼は再びスプーンを手に取ると、一杯目と同じように、夢中になってスープを飲み干した。そして、空になった器をテーブルに置くと、ふう、と満足そうな、小さなため息をついた。


その姿を見ていた侯爵の目から、一筋、熱いものが静かに流れ落ちた。厳格な領主である彼が、人前で涙を見せるなど、誰も見たことがなかった。彼は、慌ててそれを手の甲で拭うと、ゆっくりと、私の前に進み出た。


そして、この地の支配者であるアッシュフォード侯爵は、平民の、十歳の少女である私に向かって、深々と、頭を下げた。


「ユーユ殿。礼を言う。いや、礼などという言葉では、足りない。君は……君は、私の息子の、命の恩人だ」


一人の父親としての、魂からの感謝の言葉だった。


その時、ベッドの上のカインが、少しはにかみながら、私に向かって、小さな声で言った。


「ユーユ。……ありがとう。すごく、美味しかった」


初めて呼ばれた、私の名前。

そして、一年ぶりに、彼の心から発せられたであろう、感謝の言葉。


私は、部屋の隅で、その光景を静かに見つめていた。

よかった。

私の料理が、ちゃんと、届いた。

料理人としての熱い喜びと、一人の少年を絶望の淵から救い出せたかもしれないという、深い安堵感で、私の胸も、いっぱいになった。


これは、まだ、ほんの始まりに過ぎない。

でも、確かな、希望への第一歩だ。


私は、涙ぐむ侯爵夫妻の前で、静かに、しかし力強く、拳を握りしめたのだった。



カイン様の「おかわり」という奇跡の言葉から、一ヶ月が過ぎた。

その一ヶ月間、私は週に三度、侯爵邸に通い、カイン様のための特別メニューを作り続けた。それは、彼の回復具合に合わせた、緻密に計算された食のロードマップだった。

最初の週は、徹底して胃腸に優しい料理を。二週目からは、徐々に固形物を。三週目には、噛む力を取り戻させるための料理へとシフトしていった。彼の体は、驚くべき速さで栄養を吸収し、血色を取り戻していった。


そして、一ヶ月が経った今。

私の目の前にいるカイン様は、もはや、あのガラス細工のように儚げだった病人の面影はどこにもなかった。痩せこけていた頬はふっくらと色づき、紺碧の瞳には、本来の快活で、知的な光が力強く宿っていた。一年ぶりに体重を計った侍医が、「信じられん…奇跡だ…」と何度も呟いていたほどだ。


「すごいな、ユーユ。君の料理は、本当に魔法みたいだ」


その日、日当たりの良いサンルームで、カイン様は窓の外を眺めながら言った。


「もうすっかり、普通の食事も美味しく食べられるようになった。医者からも、何を食べてもいいと許可が出たんだ」


彼は、少し照れたように、こちらに向き直った。


「それで、ユーユ。一つ、お願いがあるんだけど……いいかな?」


「はい、もちろんです。なんでしょう?」


「町で、ずっと噂になっているんだ。君のお店、『旅人の食卓』で一番人気だという、あの……『コロッケ』という料理を、僕も食べてみたいな」


そのリクエストに、私は、満面の笑みで頷いた。


「はい、喜んで! 私の、最高の自信作です。腕によりをかけて、作ってきますね!」



その日の午後、侯爵邸の厨房は、いつもと違う熱気に包まれていた。

私が、コロッケを作る。その噂を聞きつけた、グラン料理長をはじめ、厨房の料理人たちが、仕事そっちのけで、私の周りに集まってきていた。

この一ヶ月で、彼らとはすっかり打ち解け、今では私のことを「ユーユ先生」と呼んでくれるまでになっていた。


「ほう、これが、あの町を行列させているという、コロッケの……」


グラン料理長が、興味津々で私の手元を覗き込む。


「はい。材料は、いつもお店で使っているものと同じです。でも、今日は侯爵家の厨房にある、最高級のラーナ油と、産みたての新鮮な卵を使わせていただきますから、いつもより、もっと美味しくなるかもしれませんね」


私は、山のようなポポイモをふかし、熱いうちに皮を剥いて潰していく。その手際の良さに、周りの料理人たちから「おお…」と感嘆の声が漏れた。


飴色になるまで炒めたルタオオニオンと、丁寧に叩いたボアのひき肉を混ぜ合わせ、塩とピペリで味を調える。その完璧な調合と、成形の美しさ。衣をつけるリズミカルな動き。

そして、いよいよ、揚げの工程へ。

黄金色のラーナ油が満たされた深鍋に、衣をまとったタネをそっと滑り込ませる。


ジュワアアアアァァァァッッッ!!!


魂を揺さぶる揚げ音と、天国的な香りが、広大な厨房を満たした。


「こ、これは……!」


「なんという、食欲をそそる香りだ……!」


プロの料理人である彼らでさえ、その悪魔的な香りの前には、ただゴクリと喉を鳴らすことしかできないようだった。

やがて、完璧なきつね色に揚がった、ふっくらと丸いコロッケが、皿の上に並べられる。もちろん、漆黒のデミグラス風ソースと、鮮やかな太陽色のトマト風ソースも添えて。

それは、芸術品のように、美しかった。


「……むん。ユーユ先生」


カイン様の元へ運ぼうとした私を、グラン料理長が呼び止めた。


「カイン様にお出しする前に、毒見も兼ねて、我々が味を確かめねばならん。これも、我らの務めだ」


その顔は真剣そのものだったが、その瞳が好奇心でキラキラと輝いているのを、私は見逃さなかった。


「はい、もちろんです、料理長」


私はにっこり笑って、試食用のコロッケをいくつか、料理人たちの前に差し出した。


グラン料理長は、まずソースをつけずに、コロッケそのものを一口食べた。

次の瞬間、彼はカッと目を見開き、わなわなと震え始めた。


「馬鹿な…! この衣の軽さは何だ!? 油を全く感じさせん! そして、中のポポイモの、この滑らかさは! 裏ごしだけではこうはならん。乳か何かを加えたのか? いや、それだけではない…素材の甘みを最大限に引き出す火加減…! そして、このタネの調和! 叩いたボア肉の野性味を、炒めたルタオニオンの甘みが完璧に包み込んでいる! なんという計算だ…!」


プロの視点からの、的確すぎる分析。彼は、スプーン一杯で私の仕事の全てを見抜いたのだ。


他の料理人たちも、恐る恐るコロッケを口に運び、そして、次々と絶句した。


「これが…あの店の前に行列を作らせている料理の正体か…」


「銀貨一枚…? 安すぎる…これは金貨の価値があるぞ…」


「悔しいが…完敗だ。こんな料理、俺たちには逆立ちしても作れん…。庶民の料理などと、侮っていた…」


一人の若い料理人が、目を潤ませながら私のところに駆け寄ってきた。


「先生! どうしたら、こんな完璧な揚げ物ができるんですか!? 油の温度ですか!? 衣のつけ方ですか!?」


もはや、弟子入りの勢いだ。


グラン料理長は、感嘆のため息を深く、深くつくと、二種類のソースを試し、その都度天を仰いで唸っていた。そして、全てを味わい終えると、満足げに頷いた。


「よし! これならカイン様も、きっとお喜びになるだろう。早く、最高の状態でお届けしろ! 我らが、責任を持って運ぶ!」



「わあ……! これが、コロッケ……!」


サンルームのテーブルに運ばれた一皿を見て、カイン様は、子供のように目を輝かせた。


「さあ、カイン様。熱いうちに、どうぞ」


「うん!」


彼は、銀のナイフとフォークを手に取ると、少し緊張した面持ちで、コロッケにナイフを入れた。


サクッ……!


部屋に、あまりにも心地よい、軽やかな音が響いた。カイン様は、そのひとかけらを口に運んだ。

そして、その紺碧の瞳が、驚きに、これ以上ないというほど大きく見開かれた。


「うわっ……! なんだ、これ!?」


彼は、叫んだ。


「外は、こんなにカリカリと香ばしい音がするのに、中は、まるでクリームみたいだ! とろけるように柔らかくて、甘い……!」


その顔は、初めて宝物を見つけた子供のように、驚きと喜びに満ちている。


「美味しい! 本当に、美味しいよ、ユーユ!」


彼は、夢中になって、次から次へとコロッケを口に運んでいく。その食べっぷりは、一ヶ月前の、スプーン一杯のスープさえ、飲むのがやっとだった姿とは、もはや別人だった。


「このソースもすごい! 黒い方は、こってりしていて、白パンが欲しくなる味だ! 赤い方は、さっぱりしていて、コロッケがいくらでも食べられそう!」


その幸せそうな顔を見ているだけで、私の胸は、温かいもので満たされていった。


「君は、本当にすごいな、ユーユ」


コロッケを半分ほど食べたところで、カイン様は、ふと顔を上げて言った。


「ただのイモや肉の切れ端を、こんなにも人の心を幸せにする宝物に変えてしまうなんて。まるで、魔法使いみたいだ」


「魔法じゃないですよ、料理です」


私は、少し照れながら言った。


「でも、カイン様が、こんなに元気になって、美味しそうにお食事を召し上がってくださる。それが、私にとって、一番の魔法かもしれません」


私の言葉に、彼は、少し顔を赤らめた。そして、意を決したように、言った。


「……ねえ、ユーユ。もう、『様』付けで呼ぶのは、やめてくれないかな。僕たち、友達だろ? カイン、でいいよ」


「……!」


その、思いがけない言葉に、今度は私が、どきりとする番だった。


「……じゃあ様付け無しで呼ぶよ⋯ カイン」


「うん、ユーユ」


彼は、はにかむように笑った。一年ぶりに見る、彼の心の底からの笑顔だった。


そこからは、もう、様付けも敬語もなくなった。私たちは、ごく普通の、十歳の子供らしい、たわいのない会話に花を咲かせた。彼と話していると、私の中の、五十歳の佐藤祐子ではなく、十歳のユーユが、自然と顔を出す。それは、とても不思議で、心地よい感覚だった。


その、微笑ましい光景を、サンルームの入り口、柱の陰から、一人の男性が、静かに見守っていた。アッシュフォード侯爵だ。


彼の目に映っているのは、一年ぶりに聞く、愛する息子の、心の底からの笑い声。そして、その笑顔を引き出してくれた、一人の、不思議な少女の姿。


侯爵は、二人の邪魔をしないように、そっと踵を返した。その口元には、深い感謝と、そして、二人の未来を温かく見守るような、父親の優しい笑みが浮かんでいた。


(あの子は、もはや、ただの料理人ではない。我がアッシュフォード家の、いや、この領地全体の、かけがえのない宝かもしれんな……)


彼の胸に、温かい感情が、静かに、しかし確かに、込み上げてくるのだった。

ご一読いただきありがとうございます!

思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。

もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。

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よろしくお願いします(^O^)/

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