1 チートがないならせめて美人にしてほしかった
中編小説として書いてみました。完結していますので、よろしければ最後までお楽しみください。
「ああ、疲れた……」
金曜日の夜。古びたアパートの、狭い自室のベッドに倒れ込みながら、佐藤祐子は深いため息を吐き出した。齢、五十。契約社員として働き始めて、もう十年以上が経つ。正社員への道はとっくに閉ざされ、かといって今さら新しい仕事を探す気力もない。毎日毎日、代わり映えのしないデスクでパソコンと睨めっこし、若い上司の嫌味をBGMに、ただひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
恋愛経験は、ない。
いわゆる「喪女」というものだ。学生時代は奥手で、社会人になってからは仕事に追われ、気づけば鏡の中にいたのは、疲れ果ててくすんだ肌と、重力に逆らうことを諦めた肉付きのいい身体を持つ、ただの中年女性だった。色気なんて、どこかに置き忘れてきたらしい。
そんな祐子の唯一の趣味であり、誇りでもあったのが料理だった。
休日になると、彼女は水を得た魚のようにキッチンに立つ。平日、仕事のストレスでささくれ立った心は、野菜を刻むリズミカルな音や、スパイスの芳醇な香りに包まれるうちに、少しずつ癒されていく。
冷蔵庫にあるものでパパッと作る手軽な一品から、何時間もかけてコトコト煮込む本格的なシチューまで、彼女の手にかかればどんな食材も極上の一皿へと姿を変えた。数年前、ふとしたきっかけで応募した地方の料理コンテストでは、並み居る主婦たちを抑えて優勝した経験もある。
「グランプリは、契約社員の佐藤祐子さんです!」
司会者の声が、今でも耳に残っている。あの時ばかりは、人生で一番輝いていたかもしれない。けれど、その栄光も日常の灰色に塗りつぶされて久しい。コンテストの賞金で買った少し高級な包丁セットだけが、かつての輝かしい記憶を静かに物語っていた。
「はぁ……。お腹すいたな。何か作ろうか」
むくりと身体を起こす。今夜は、特売で買った豚バラブロックがある。あれを使って、とろっとろの角煮でも作ろうか。それとも、香味野菜とじっくり煮込んで、本格的なポークシチューにしようか。想像するだけで、口の中にじゅわっと唾液が広がる。
それが、佐藤祐子の、この世界での最後の記憶だった。
次に意識が浮上した時、彼女はまばゆい光の中にいた。いや、光そのものというよりは、どこまでも続く、温かみのある白に包まれていた。身体が軽い。いつも肩にのしかかっていた重い疲労感も、腰の鈍痛も嘘のように消えている。
「……え? ここ、どこ? 私、死んだの?」
呟きは、誰に届くでもなく空間に溶けた。その時だった。
『いかにも。おぬしは死んだ。過労とストレスによる、まことに気の毒な突然死であった』
頭の中に、直接響いてくるような、穏やかでいて、どこか食いしん坊な響きを帯びた声がした。見渡しても誰もいない。
「だ、誰です? 神様……とか?」
『いかにも。我こそは、この世界の理を司る者。まあ、神と呼んでもらって差し支えない』
あまりにもあっさりとした肯定に、祐子は拍子抜けする。もっとこう、荘厳な音楽が流れたり、後光が差したりするものではないのか。
『おぬし、佐藤祐子。享年五十。まことに短い人生であったな』
「は、はあ……。まあ、自分でもそう思いますけど」
『うむ。だが、おぬしの人生は実に興味深かったぞ。特に、その料理!』
声のトーンが、明らかに一段階上がった。まるで、推しのアイドルの話でもするかのように、神様の声は弾んでいる。
『あのポークシチュー! 香味野菜の甘みを引き出し、肉はホロリと崩れるほど柔らかく、それでいてソースは深みとコクがあった! あのビーフストロガノフも絶品であったな。サワークリームの酸味が全体の味を引き締めておった! そして何より、あのシンプルな塩むすび! 米の一粒一粒が立ち、絶妙な塩加減……!』
「え、えっと……見てたんですか?」
『見ていたとも! 毎日毎日、おぬしが作る料理をな。我は、おぬしの料理の熱烈なファンなのだよ』
神様は、もはや興奮を隠そうともしない。なんだか、自分の趣味を熱く語るオタクのようだ。祐子は若干引き気味になりながらも、自分の料理が神様にまで届いていたという事実に、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
『そこでだ、佐藤祐子。おぬしに、一つ頼みがある』
「頼み、ですか?」
『うむ。我の管理する、別の世界に行ってほしいのだ』
(きた……! いわゆる異世界転生ってやつだ!)
最近の小説や漫画でよく見る展開に、祐子の心臓が、あるはずもないのに高鳴った。
『我の管理するその世界……まあ、いわゆる剣と魔法のファンタジー世界なのだが、一つだけ、致命的な欠点がある』
「欠点?」
『料理が、驚くほど不味いのだ!』
神様の声に、心からの嘆きがこもっていた。
『肉はただ焼くだけ。野菜は茹でるだけ。スパイスの概念は希薄で、味付けは塩が基本。たまに甘い木の実のソースがあるくらいで、とにかく単調で、素材の味を殺しておる!』
それは確かに、料理好きとしては聞き捨てならない話だ。
『我は神であるからして、その世界の住人たちから供物を捧げられるのだが、まあ、これが毎度毎度、期待外れでな……。そこで、おぬしだ! おぬしのその卓越した料理の腕で、かの世界の食文化に革命を起こし、ひいては我への供物のグレードを上げてほしいのだ!』
なんともまあ、神様らしからぬ、俗っぽい理由である。しかし、祐子にとっては悪い話ではない。むしろ、願ってもない申し出だった。くたびれた五十年の人生を終え、新しい世界で、自分の好きなことで生きていけるかもしれない。
「やります! やらせてください!」
思わず食い気味に答えると、神様は満足げに『うむ!』と頷いた。
『よろしい。では、おぬしを転生させよう。新たな世界で、第二の人生を謳歌するがよい。ああ、そうだ。餞別として、特別な力を二つ授けよう』
おお、チートスキルというやつか! 祐子の期待は最高潮に達する。これで私も、物語の主人公のように……!
『一つは、食材のことが手に取るように分かる【鑑定】の力。最高の食材を見極めるのに役立つだろう』
なるほど、料理人にはもってこいのスキルだ。これは嬉しい。
『そしてもう一つは、いかなる病にもかからぬ【頑丈】な身体だ。これで、食中毒の心配もないぞ』
……ん?
え、それだけ?
祐子の頭の中に、大きなクエスチョンマークが浮かんだ。
「あ、あのう、神様?」
『なんだ?』
「その……あれとかは、ないんでしょうか。ほら、絶世の美女になるとか、誰もが見惚れる八頭身のナイスバディとか……」
今度こそ、素敵な恋がしたい。物語のヒロインのように、イケメンの騎士様や、ミステリアスな魔法使い様と、甘いロマンスを……。そんな淡い期待が、胸に渦巻いていた。
『む? 美貌? スタイル? なぜだ? 料理に必要か、それは?』
神様は、心底不思議そうに問い返してきた。その声には、一ミリグラムの他意も感じられない。
「い、いや、必要かって言われると、まあ、直接は……でも、その、気分的に! 女としての幸せも掴みたいというか……!」
『ふむ。我にはよく分からんな。おぬしの価値は、その料理の腕にある。見た目など、些末なことよ。それよりも、美味しいものが作れる方が、よほど素晴らしいではないか』
ぐうの音も出ない。正論だ。正論だが、しかし!
「そ、そんなぁ……! 私のささやかな夢が……!」
『まあ、安心しろ。転生先は、ちゃんと料理ができる環境を用意しておいた。そこそこの規模の町にある、小さな料理屋の娘だ。思う存分、腕を振るうがよい!』
「いや、だからそうじゃなくて!」
祐子の悲痛な叫びも虚しく、神様の声はどんどん遠くなっていく。
『さあ、行け! 佐藤祐子よ! 我はおぬしの作る新たな世界の逸品を、心待ちにしておるぞ! まずはそうだな、あの世界の猪を使った角煮など、どうだろうか……ぐふふ……』
最後の最後に聞こえてきたのは、なんとも締まらない、神様のよだれをすするような笑い声だった。そして、祐子の意識は、再び深い闇の中へと落ちていった。
次に目が覚めた時、視界に飛び込んできたのは、見慣れない木の天井だった。ごつごつとしていて、所々黒く煤けている。少し黴と埃の匂いがした。身体が、妙に小さい。手足を動かそうとすると、まるで自分のものじゃないみたいに、ぎこちなく動いた。
(ここが……異世界?)
ぼんやりとした頭で状況を把握しようとしていると、がらがら、と木の扉が開く音がして、優しそうな顔つきの女性が顔を覗かせた。
「あら、ユーユ。目が覚めたのね。よかったわぁ」
ユーユ? それが、私の新しい名前?
女性はベッドのそばにやってくると、私の額にそっと手を当てた。温かくて、大きな手だった。
「まだ熱があるかしら。昨日、木から落ちて頭を打った時は、本当に肝が冷えたんだから」
どうやら私は、木から落ちて気絶していたらしい。そして、その衝撃で前世の記憶が蘇った、ということか。なんてベタな展開だろう。
「おかあさん……?」
かすれた声で呟くと、女性は花が咲くように微笑んだ。
「なあに、ユーユ。お腹はすいてない? お父さんが、お昼の残りのスープを温めてくれるって」
おかあさん。その響きが、すとんと胸に落ちてきた。五十年の人生で、一度も口にすることがなかった言葉。温かい感情が、心の奥からじんわりと湧き上がってくる。
しばらくして、今度は人の良さそうな、がっしりとした体格の男性が入ってきた。手には、木の器に盛られた、湯気の立つスープを持っている。
「ユーユ、起きたか! 父さんの特製スープだぞ。これを飲んで、元気をお出し」
おとうさん。
二人とも、私のことを心から心配してくれているのが伝わってくる。これが、私の新しい家族。
スープを受け取ると、ふわりと素朴な香りがした。野菜を煮込んだだけの、シンプルなスープのようだ。一口すすると、優しい味が口の中に広がった。だが、正直に言って、味は薄い。野菜の旨味も、あまり引き出せていない。前世の私なら、ここにハーブの一本でも加え、ベーコンでコクを出すところだ。
(……鑑定)
ふと、神様にもらったスキルを思い出し、心の中で念じてみる。すると、スープの具材に、ふわりと光の文字が浮かび上がった。
【ポポイモ】:イモの一種。煮崩れしにくく、ほんのりとした甘みがある。栄養価は高いが、少し土臭さが残る。
【カブナ】:葉物野菜。独特の苦味がある。火を通しすぎると食感が悪くなる。
【岩塩】:ミネラルを豊富に含んだ塩。
おお、本当に見える! これはすごい。食材の名前だけでなく、特徴まで分かるなんて。これなら、初めて見る食材でも、最適な調理法をすぐに見つけ出せそうだ。
スープを飲んでいると、ひょっこりと二人の小さな子供が部屋を覗き込んできた。一人は私と同じくらいの歳の女の子、もう一人はさらに小さい男の子だ。
「おねえちゃん、だいじょうぶ?」
「ゆーゆねえちゃん……」
心配そうにこちらを見つめる二つの瞳。この子たちが、私の妹と弟か。二人とも、痩せていて、着ている服も継ぎ接ぎだらけだ。そして何より、その目は「お腹がすいた」と訴えかけているように見えた。
両親の顔を見る。二人とも、優しい笑みを浮かべてはいるが、その顔には隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。そうだ、神様は言っていた。ここは、そこそこの町にある、小さな料理屋だって。
私はゆっくりとベッドから身体を起こし、部屋の窓から外を眺めた。窓の外には、レンガ造りの建物が並ぶ、活気のある街並みが広がっている。ここは、一階が店舗で、二階が住居になっているようだ。店の名前は、看板にかすれた文字で『旅人の食卓』と書かれていた。しかし、その看板とは裏腹に、店の前を通り過ぎる人はいても、中に入ってくる客は一人もいなかった。
繁盛していない料理屋。
貧しいけれど、優しい両親。
いつもお腹をすかせている、可愛い妹と弟。
そして、私の手には、食材の全てを見抜く【鑑定】の力と、病気知らずの【頑丈】な身体。
美貌も、八頭身のスタイルも手に入らなかった。イケメンとのロマンスなんて、夢のまた夢かもしれない。
でも。
目の前には、守りたい家族がいる。私の料理を待っていてくれる人がいる。
スープの器を、ぎゅっと握りしめる。五十年間、たった一人で、自分のためだけに作り続けてきた料理。これからは、この温かい家族のために、私の全力を注ごう。
「お父さん、お母さん」
私が声をかけると、二人は不思議そうな顔でこちらを見た。
「私、お店を手伝う。もっともっと、美味しいものを作って、たくさんのお客さんに来てもらうの」
まだ十歳の子供の言葉。普通なら、誰も本気にはしないだろう。けれど、私の目には、五十年の経験と、料理への揺ぎない情熱が宿っていた。その力強い光に気圧されたのか、両親はただ、目を丸くして私を見つめていた。
妹と弟のお腹を、美味しいものでいっぱいにしよう。
父さんと母さんを、楽させてあげよう。
そして、この『旅人の食卓』を、街で一番のレストランにしてみせる。
ついでに、あの食いしん坊な神様の度肝を抜くような、最高の供物も作ってやろうじゃないの。料理人・佐藤祐子の名にかけて!
私の異世界料理革命が、今、静かに幕を開けた。恋は、まあ、美味しいものをたくさん食べて、お店が繁盛してから、ゆっくり考えることにしよう。きっと、その頃には、美味しい料理の匂いに釣られて、素敵な出会いが……あるといいな、なんて。そんなことを考えながら、私は目の前の、少し物足りないスープを、最後の一滴まで飲み干したのだった。
ユーユ、享年五十、新生十歳。
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