第四章|司令部との断絶と最終判断
0947時 JST/〈いせ〉艦橋副通信室
「……応答なし。SATCOM、HF、VHF、全チャンネル沈黙継続。ビーコン発信もジャム波で反射中。現在、完全な情報遮断下です」
通信士・中根三曹の声には疲労と、わずかな怒りが滲んでいた。
敵の姿はない。目視できるのは、波頭に漂う無数の破片。
遠方の水平線には、再びうごめく白い点列が浮かび上がりつつあった。
「副長、AIS応答なしの目標群、接近再確認。数、およそ20」
「また来たか……スウォーム第2波かもしれません。だが、指揮権系統が反応しません。いま我々は、組織ではなく——単艦です」
艦長・山之内はゆっくりと振り向いた。
観測モニターの一つに、先ほど自沈したFRP船体の映像が再生されていた。破片の中から見つかったもの、それは小さなGPSトラッカー、ロシア製バッテリー、そして中華民間メーカーの制御基板。
「……敵かどうかを証明する法はあるか?」
「ありません」
「誰がこの艦を狙ったのか、確実な証拠はあるか?」
「ありません。今のところ、全て推定、間接情報です」
「だが事実は、隊員が死んだ。艦が破損した。制御が奪われ、判断が空になった」
山之内は、艦長席に腰を下ろし、軍帽を一度だけ膝に置いた。
その沈黙の時間——15秒。艦内すべての士官が、その呼吸を止めた。
0949時/同・艦橋 CIC(Combat Information Center)
「主砲、手動照準維持。弾帯残り18発。CIWS、冷却維持中、再装填停止。副火器、指向性維持できません」
「了解。艦長、方針は」
山之内は、初めて声に明確な命令を乗せた。
「——この艦は、生還を前提としない」
「……!」
「この艦が沈んでも、誰かが“この状況”を知る必要がある。情報伝達が不可能なら、記録を残す。よって、戦闘記録、全通信ログ、被害図、艦内戦死者名簿、全て“黒ボックスモード”に移行。艦内記録データを分散格納、緊急時自動浮上型記録体に転送開始」
副長・岸井は、唇を固く結んだ。
「了解。情報戦闘継続体制、実施します」
「CIWS再起動まで、残り20分。それまでに敵が接近すれば、127ミリで迎撃、間に合わなければ艦体ごと突入を許す。…その判断は、もはや“法律”ではなく、“生存”だ」
0952時/格納庫下層:非常用格納データポッド制御端末
工学士・市原一尉が、金属製の小型ポッド2基に記録装置を格納していた。
このポッドは、撃沈時に自動的に射出され、海面に浮上。衛星測位と太陽発電で、最大90日間、海上を漂いながら記録を保持する。
「本来、これは平時の事故用だ。でも、俺たちの“戦争”は、誰も“戦争”と呼ばないまま終わるのか」
一尉の手が、わずかに震えていた。
0955時/艦橋
「目標群、接近距離3000。速度14ノット、変わらず。航跡に変化なし。構造同一。パターン一致。敵と認定しますか?」
「……認定する。情報がなければ、判断するしかない。それが、艦長の役割だ」
0956時/射撃命令:発令
「全砲、斉射——」
【補足:指揮と法の“断絶”】
交戦規定と自衛隊のジレンマ:敵の明確な正体不明時、自衛隊法・交戦規定では即時攻撃はできない。しかし「被害が発生し、指揮命令が不通」という状況では、艦長には“独立した生存判断権限”が生じうる。これは非常にグレーな領域で、戦後日本が正面から扱ってこなかった「判断の空白」に直面する瞬間である。
データポッドの意味:艦が沈むとき、最も重要なのは「なぜ沈んだか」の記録。敵が誰かわからなくても、艦内の意志と被害が記録される限り、その戦死は“名のあるもの”になる。