09
「きゃあっ!」
エリシャの身体が何かに跳ね飛ばされ、驚きで心の接触が断たれた。最も深い場所からの突然の離脱は彼女の精神に大きな衝撃を与える。
その衝撃はルシにも同様に伝わった。彼の身体は弾かれたように跳ね上がり、そのまま大地へと倒れ伏す。
そして、危ういところでルシとの接触を解いたジェレアクもまた、精神に打撃を受けてフラフラとよろめき、背にあたった幹に寄りかかった。
「……ヴァーガ・ジュード?」
怪訝そうに顔をしかめたジェレアクの唇から混沌の魔獣の名が漏れる。
《冥府の門》の番獣。ジェレアクがエリシャ達の奸計によって処刑され、《奈落》に落ちた時、その帰途を阻もうとした青銅の鱗を持つ獣。
「久しいな、闇の王子――」
獅子のような巨体とは不釣り合いな身軽さで森の奥から走り出、エリシャに体当たりした背鰭のある山猫が、言葉を発するに適さない大きな口を醜く歪めてジェレアクの顔を覗き込んだ。
滅多に動じる事のないジェレアクだが、その生暖かい息を感じられるほど間近にこの化け物の貌を見て、多少のたじろぎは隠し得ない。
「どうやら我の忠告を上手く利用したとみえる」
ヴァーガ・ジュードはグルリと周囲を睨め回すようにして言った。この《暗黒の輪》の事を指しているのは明らかだ。
「こんな所に何の用だ、ヴァーガ・ジュード?
おまえがいなくなれば、冥府から亡者共がさまよい出してしまうんじゃないのか?」
その音と表情をなんと表現すればよいのだろう?
なぜかはわからないが、ヴァーガ・ジュードは水晶のような牙を剥きだして可笑しそうに笑った。
「なに、門は影が護っておるから大事ない。大抵の者は我の姿を見ただけで恐れをなし、あえて無駄な労力を払ってみようとはせぬ」
「だが、鎖はどうした? おまえは鎖で門に繋がれていたはずだろう?」
「眼に見ゆる鎖は幻よ。我が束縛されておるように振る舞っているのはただ亡者に機会を与えてやる為。我が囚われておる牢獄はこの世界そのもの」
ジェレアクの表情から疎ましそうな色が消え、その眼が考え深げに細められる。
「面白い事を言う。じっくり話を聞かせてもらいたくなったな」
「フン。そのように言われると話を続ける気が失せたわ」
ヴァーガ・ジュードはクルリと背を向けると、気絶して倒れたままのルシに近づいてフンフンとその臭いを嗅いだ。
「天の邪鬼め。そいつから一体何の臭いがするというんだ?」
「たぐい稀なる血の臭い。ウェリアが選びし守護者の目覚めかけし魂」
言うなりヴァーガ・ジュードはルシのベルトを咥えて、その身体を持ち上げる。
「彼をどうする気?」
ぼんやりしていた頭がやっと冴えてきたエリシャが問うた。
答えは低い獣の唸りのみ。
一瞬後、ヴァーガ・ジュードはルシを連れて疾風のように駆け去った。
「フギ!」
ジェレアクの呼びかけに応えて、枝に留まったまま一部始終を見ていた大鴉が飛び立ち、ヴァーガ・ジュードの後を追う。
「……どういう事なの、これは?」
立ち上がったエリシャが身体についた朽ち葉や土を払いながら言った。
「見た通りさ」
ジェレアクの言葉には明らかに棘が含まれている。
「私のせいだって言うの?」
「さあな。おまえが余計な真似をしなければ奴を説得し、深く埋もれた記憶をたぐらせて、必要な力の封印だけを解く事だって出来たかもしれない」
「必要な力の封印だけ、ですって?
あの子の力がそこまで大きいって言うの? すべてを解き放てば私達にも制御できない程」
「俺がわざわざ奴をここにおびき寄せたのは《塔の賢者》共や光の一族が煙たかったせいだけだと思っていたのか?
なんの為に俺がこの《輪》を用意し、奴が本来の力を受け止められる身体に成長するのを、ラリックの呪いが効力を弱めるのを待っていたと思うんだ?」
「彼の為に……用意した、と言うの、この《輪》を?」
ジェレアクの顔に少し、しゃべりすぎた、という表情が浮かんだ。が、構うものかと続ける事にする。
「……もちろん、その為だけじゃない。
が、この場所を選んだのは奴があそこに、《賢者の塔》にいたからだ」
「一体彼は何? 我らが不遇な兄弟ラリックの忘れ形見、光と闇双方の王家の魔力を持つ変わり種、というだけじゃなさそうね?
『ウェリアが選びし守護者の目覚めかけし魂』ですって?」
薄く微笑んでいるようなエリシャの唇を見て、ジェレアクはヴァーガ・ジュードに余計な事を訊くんじゃなかったと思いながら、一瞬天をあおいだ。
「気付きかけているようだから教えてやるよ。
奴は賢者ヴァルデリュードが《ウェリアの守護者》になると予言した者さ」
「ヴァルデリュード? あらゆる過去と未来を視るという?
でも、ウェリガナイザですって?
だって彼は厳密な意味でヒトじゃないわ。ウェリガナイザといえば……」
「そう、ウェリアの均衡が崩れそうになった時に現れるヒトの勇者を指す。
その力は絶大で過去数回起こったウェリア崩壊の危機はウェリガナイザの力によって回避されたという。
だが、奴の心には純粋な闇も宿っている。だから……」
「だから、あなたがウェリガナイザの力を利用する事もできると?」
「ウェリガナイザとして目覚める前にヒトとしての心を縛り、闇の王子としての力を解放してやる事ができれば、ウェリガナイザの力の幾何かを手にできるんじゃないかと思ったのさ」
「なんだか、とても危うい計画ね」
「その通り。あまりにも微妙で未知数が多過ぎる。
だが、それほど賭け率の悪い勝負じゃあない、と思っていたんだが……」
ジェレアクは言葉を切って肩をすくめた。
「考えが変わった、と?」
「勘、というか……。ヴァーガ・ジュードが現れた時、思ったんだ。俺のやり方も間違っていたかもしれないと」
「どういう事?」
「ヴァーガ・ジュードが現れたのはおまえが封印を解こうとしたのと同時だった。こいつは偶然じゃないんじゃないか?
以前、奴は言ったんだ、《冥府の門》の番など二義的な役目だと。なら奴に負わされた真の役割とはなんだ?
今思い出したんだが、伝承によれば創始者はウェリアと一緒にウェリガナイザを創り、その直後に混沌の獣を呼び出したという」
「ヴァーガ・ジュードとウェリガナイザの間に何か繋がりが……。
だからあの獣をあっさり行かせたの?」
「通常《ウェリアの守護者》と言えば選ばれた勇者を指すが、その勇者の振るう魔剣もまた《ウェリアの護り》と呼ばれる。
ではその魔剣はどこにある?」
「勇者が覚醒した時に天から授かる、としか伝えられていないわね」
「天、すなわち創始者が創ったウェリアの摂理。その一部がヴァーガ・ジュードだとしたら……」
「う……」
《輪》に足を踏み入れると同時に気絶し、忘れ去られていたエリアが身動きした。
「お姫様がお目覚めのようだ」
「忘れていたわ。あなたが手に入れかけた獲物をあっさり手放したもうひとつの理由は、あの子ね?
彼女を連れ戻しに来ると思ってるんでしょ」
「それよりも奴がウェリアの守護者として覚醒したなら、この《輪》の存在そのものを抹消しに来るだろう。それこそ、ウェリアの均衡を崩すものに他ならないんだから」
「その時、また彼女が役に立つかしらね?」
「そういうのは、おまえの方が得意だろう?」
「私の力を借りたいって言うの? 彼を独り占めしようとしたクセに?」
「事情が変わった。多分、二人がかりでも際どいぞ」
少しでもこの作品に好感を持っていただけたら、下の★をクリックしていただけると嬉しいです。
感想大歓迎。よろしくお願いします。