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06

 風が(うな)る――

 肌ではなく魂に感じる冷気に身を震わせたルシは寝台に横になったまま目を開いた。

 真夜中。

 扉も窓の板戸も閉ざされ、蝋燭(ろうそく)の明かりひとつない室内は、猫でさえ目が利かぬのではないかと思えるような暗闇。

 だが、ルシには見える。天井の羽目板の木目、節穴、土塗りの壁の(こて)(あと)……。

(どうして……?)

 いつもいつも、浮かんでくる疑問。

 なぜ、自分には闇を見透かす事ができるのか?

 レイドもマリエンも、いや、彼の知っているすべての人々は夜になると蝋燭や洋燈(ランプ)(とも)し、あるいは暖炉に火をいれる。それは彼らが闇の中での視力を持たぬからだ。

 だが、ルシは違う。

 彼は明かりを持たずに暗い地下室に降りて蜂蜜の(びん)を探したり、月のない夜道に落ちている銅貨(ペニングル)を拾う事ができる。

 それを知った時、レイドはルシにこう言った。

「皆の前では暗い所では見えていない振りをしなさい」と。

 つまり、あまり()められた能力 ではない、という事だ。

 何年か前、知った。魔族とも呼ばれる闇の一族の者達は真の闇を見通す事ができると。

(魔族……?)

 ルシは本当の両親を知らない。別に知りたいとも思わなかった。レイドとマリエンは実の子としてルシを可愛がってくれたし、ルシも二人をとても愛していたから。

 だけど……

 この頃、夜になると声が聞こえてくる。

 声、というのは間違いかもしれない。それは普通に耳で聞く音とは違っていたから。

 なんと言えばいいのだろう? ルシには心話の力はないはずだったが、もしかしたら心話というのはこういう感じなのだろうかと思える声。

 何を言っているのかはわからない。でも、それはルシに呼びかけているとしか思えなかった。何かを伝えようとしている声。

時期(とき)は近い――』

 またしても闇から湧きでてきたような声を感じて、ルシはガバと寝台に半身を起こした。驚いた事に今夜ははっきりとその言葉を聞き取れる。

時期(とき)……? なんの……時期だ?」

 ルシの舌は重く、乾いた唇から()れる声は細くかすれていた。

『来ればわかる。――来い! 来い……来い……』

 頭の中で言葉が渦巻く。

『来い……来い……来い……来い……』

「どこへ……一体どこへ行けって言うんだっ?」

 髪をくしゃくしゃにして頭を抱えたルシが叫ぶと、その言葉の洪水は去った。唐突に。

 「なん……だったんだろう、あれは?」

 さっき自分が叫んでしまったのを思い出して、レイドとマリエンを起こしてしまったのではないかと懸念(けねん)したが、隣の寝室から物音が聞こえる様子はない。

 が、澄ませたルシの耳に板戸を叩く小さな音が飛び込んできた。ぎくりとして思わず寝台から落ちかける。

 コンコン――

 間違いない。彼の部屋の窓を誰かが叩いているのだ。

 唾を飲み込んで、そっと床に足をおろす。板戸に口を近づけて(ささや)いた。

「誰?」

 返事はない。聞こえなかったのだろうか?

 コンコン――

 ルシは掛け金を外して、観音開きの戸をゆっくりと押し開けた。

 震えるほどではないけれど、露を含んでしっとりと冷たい春先の夜気が流れこんでくる。

「エリア……?」

 ルシの目に映ったのは寝間着姿のエーリアル。公爵の小間使いのニーナがいくら()かしつけてもすぐにクシャクシャにしてしまう金髪も、与えられた靴を決して履こうとはしない泥に汚れた素足もいつものまま。

「どうしたんだい? こんな夜中に?」

 口のきけないエリアは黙ってルシの顔を見つめると、五、六歩さがって、おいでおいでをした。

「いっしょに来いって言うの?」

 エリアが(うなづ)く。その琥珀(こはく)色の瞳はいつもに増して寂しげで哀しげ。

 ルシの心にその寂しさや哀しみを(いや)す為ならどんな事でもしてやりたいという衝動が湧き起こる。

 エリアの小さな体は幻のように(はかな)げで、早く捕まえないと消えてしまいそうだ。

 まぼろし――

(あの声――)

 あれは言った。『来い』と。そして、その直後にエリアが彼においでおいでをしている。

「エリア……君は、一体……」

(ううん。そんな事はどうでもいい。僕は……)

 知らぬ間にきつく握りしめていた窓枠を放して、静かに、手早く身支度を整えた。

 寝間着で出歩くにはまだ寒い季節だし、ルシにはエリアのように素足で外を歩き回る事はできない。

 身軽に窓枠を乗り越えて外に出ると、持って出た肩掛けをエリアに掛けてやった。落ちないように胸の辺りで結んでおく。




 その音色は とても やさしくて

 その声は とても あたたかで

 なのに その調べは とても切なくて――


 ルシの竪琴と歌に耳を傾けていると心がどこかに漂いだしてしまいそうだ。その黒い瞳を見つめると無限の深淵に吸い込まれてしまいそうになるように。

 初めて会った時、なんて綺麗な男の子なんだろうと思った。まるでお伽噺(とぎばなし)にでてくる旅人を(まど)わす精霊のようだと。

 親切に話しかけてくるその声は、公爵の館で生まれて初めて口にした高価な砂糖菓子のように甘く、(おび)えていた彼女の心を包み込んだ。

「さよなら」

 とルシが言った時、なぜだかとても悲しかった。

「……また明夜(あした)

 とその唇が言葉を(つな)いだ時、胸の奥がキュッとなった。

 あれから三月たった今もその感じは変わらない。

 ううん、前より強くなったみたいだ。

 彼女にはその気持ちに名前をつけてはっきり意識する事はできなかったけれど、もしも声を出す事ができたなら、ルシにむかってこう言っただろう

「大好き!」と。

 それでも彼女はルシをあそこへ連れて行かなければならない。

 彼女にはそれが意味する事を理解できなかったし、何よりも優先させなければならない事があったから。




 月明かりを頼りにエリアはルシを(いざな)っていく。

 何かを決意したように真っすぐに口を引き結び、懸命に足を動かし続けていた。

 ラスティの暮らしは旅そのものだ。だからエリアのような小さな女の子でさえ、かなりの速さで、かなりの距離を歩く事ができる。

 夜闇になお黒々と(かげ)をなす巨大な木々を認めて、ルシはエリアの目的地を知った。

 グァドの森。

 エリアの身内の死体が発見された場所。

「エリア、だめだよ。このままじゃ、あの《黒い輪》に……」

 言いながらもルシには何となくわかっていた。その《黒い輪》こそ彼らの目的地なのだと。なぜそんな風に思ったのか、説明する事はできなかったけれど。

 天蓋(てんがい)のように空を(おお)った木々の枝葉に(さえぎ)られて僅かばかりの月光さえ届かなくなり、道を見失ったエリアが足を止めた。

 と、バサバサという羽音をさせて一羽の大鴉(おおがらす)が二人の前に降り立ち、光を発し始める。

 赤っぽい、ぼんやりとした光。

 その尋常(じんじょう)でない光景に、ルシは安全な我が家に向かって逃げ出したいという衝動を必死で(こら)えた。

 羽音に(おび)えてルシにしがみついていたエリアと二人、その鴉を凝視する。

 が、しばらくするとエリアはゆっくりとルシから離れ、再び歩き始めた。

 光る鴉は少し先へ飛んでは止まり、飛んでは止まりして、彼らの行く先を照らし続ける。ルシには用のない光だが、エリアには必要なのだ。

(明かりがいらないっていうのは、僕も充分化け物の(たぐ)いに入っちゃうのかな)

 昼間のように、というのとは少し違うのだが闇の中で物を見分けられる自分の能力を(うと)ましく思いながら黙々と鴉の後についていく。

 ここまで来て引き返す訳にはいかない。ルシはどんな事があっても最後までエリアに付き合うつもりだった。

 そして、とうとう、彼らはそこに達した。

 《黒い輪》

 大地を染め、瘴気を放つ暗黒の領域。

 話には聞いていたがルシも目のあたりにするのは初めてだ。

 数歩前にいるエリアの体が小刻みに震え始めた。その理由は明白だ。多分、ルシも彼女と同じものを感じていたから。

 恐怖――

 そこから発散される何かが心の奥深く働きかけ、肌を粟立(あわだ)たせ、胃をしめつける。恐ろしさに立ち(すく)み、息をする事さえ忘れてしまいそうだ。

 案内を務めてきた鴉が羽ばたき、闇に(おか)されて全体が黒く変色してしまっている木の大枝にとまった。

 今までずっと後ろをついてきたせいでわからなかったが、正面を向いた鴉の眼には残忍な知性が宿っている。

 まるで、何かを伝えようとするかのように、鴉はしわがれた声で鳴き声をあげた。

 エリアがビクンと跳ね上がり、小さくあえぐ。ソロソロと左足を踏み出し、続いて右足……。

 のろのろと、一歩ずつ、《輪》へと近づいていく。

(エリア!)

 舌が喉の奥に張り付いたように動かない。早鐘のように打つ自分の鼓動の音が耳を圧し、血が血管を(こす)っていくザーッという音さえ聞こえるような気がする。

 行くなと呼びかける事も、手をつかんで止める事もできないまま、ついにエリアは《輪》に足を踏み入れた。


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