05
パチパチとはぜる薪の音を聞きながら、アルフィスは暖炉の前の安楽椅子に身を沈めていた。
寒い訳ではないのだが、煙の臭いや火影の踊る様子、時折舞い上がる金色の火の粉を眺めるのが好きなのだ。
右手の硝子の杯には領内で醸し、蒸留された琥珀色の酒。掌で温められて、その得も言えぬ香りで鼻孔をくすぐる。
そして足下の高価な敷物の上にエーリアル。彼の足に身をすり寄せ、猫か犬のように丸くなって眠っている。
つい最近まで大家族で放浪していた彼女は独り、寝台で眠りにつく事に慣れていない。
彼女の世話を任されている侍女がエリアに与えられた部屋で寝間着を着せてきても、すぐに書斎で手紙を書いたり、居間でくつろいだりしているアルフィスの元へと現れ、何をするでもなくいっしょに過ごし、そのうち寝椅子や敷物の上で眠ってしまうのだ。
別に邪魔になるわけでもないし、妻に先立たれ、子もいないアルフィスとて寂しさを覚えている事にかわりはなく……。
いつの間にかエリアの姿が見えないと苛々する事が多くなった自分に気付いていた。
エーリアル。年も、本当の名もわからぬラスティの娘。
あれは三月程前、雪が積もることのない温暖なこの地方とはいえ、寒風が吹きすさぶ初日月の終わり――
グァドの森の周辺を巡回していた兵士の一団が彼女を見つけた。小川の畔に一人で倒れていたのだ。
服装や顔立ちから、コーサの村で騒ぎを起こしたラスティの一家の娘だろうと思われたが、周囲に家族がいる様子はない。
もしやと思った警備隊の隊長が、嫌がる兵士を引き連れて森の縁辺へと踏み入り、七人のラスティと二頭のラバの死体、彼らの箱馬車を発見したのだった。
十四年前、不気味な波動が感知されたとして、《賢者の塔》より数人の魔法使いがグァドの森へと赴いた。
そして、その中心部にそれを見つけた。
木々や朽ち葉、草や羊歯、果ては苔や石までもが黒く変色し、瘴気を放つ円形の場所。
まるで巨大な円規で描かれた輪のように外縁だけが強い魔力を発しているのは、周囲を侵す力がそこに凝縮されているせいだと思われる。
魔法使い達がそこを円ではなく《輪》と呼ぶのは、魔法の視覚ではそれが禍々しい力を放つ輪に見えるからだ。
まともな感覚を持つ者なら誰でも「これは近寄ってはいけないものだ」と感じられるだろうその場所は、塔の賢者の名において『何人たりとも彼の地に足を踏み入れるなかれ』と宣言された。
そして報告を受けたエーリアル公爵は《輪》そのものだけでなく、グァドの森全体を立入禁止としたのだが、人間には怖い物見たさ、という始末に負えない性癖がある。
噂を聞いて、禁を犯して森へ入って行った何人かが行方知れずとなり、その頃から夜間、奇妙な遠吠えのような音が森から響き始めた。
『グァドの森に足を踏み入れた者は物の怪になる』
そんな噂さえ囁かれ始めたのだ。
《塔の賢者》達は定期的に《輪》の調査を行わせているが、消滅させる事も、それが発生した原因をつかむ事もできないでいた。
それどころか《黒い輪》はじわじわと範囲を拡げ、今ではそれが円形であるというのは、水晶を使って視点を遥かな高みに引き上げるか、竜にでも乗って空から見下ろすかしなければわからないほど大きくなっている。
もしもラスティの一家を襲った悲劇が《輪》と関わりがあるのなら、僅かでも事情を知りたい、とアルフィスの元へ連れてこられた少女は三日三晩眠り続け、目を覚ました時、声を出す事ができなくなっていた。
《賢者の塔》の若い治療師の見立てでは、喉そのものに問題はなく、心の病だろうという事だ。
きっと彼女は世にも怖ろしい経験をしたに違いない、と。
彼女は文字を知らず、事情どころか名前を訊く事すらできなかった。
ラスティには戸籍というものがなかったし、流れ者の娘の名など、知っている領民もいない。
心根のやさしいアルフィスは彼女が不憫になってしばらく面倒をみてやる事にし、名無しでは不便だからと自分の領地の名を与えた。エーリアル、と。
怖すぎて声もでない。
穴の中で燃える焚き火の僅かな明かりだけでは、その姿をはっきり見定める事はできなかったけれど、二本足で歩く、何か異形のものが何体も暗いグァドの森の奥から現れて、鋭い鉤爪であっという間にエド叔父さんとエリン叔母さんを引き裂いた。
立て続けに響くリリンのけたたましい悲鳴。
グリンの泣き声。
母さんは倒れたエド叔父さんに縋りついて半分泣きながら何か訳のわからない事を口走っている。
父さんが馬車から斧を取ってきた時には、爺ちゃんと婆ちゃんも血まみれになっていて、カリンはおしっこを漏らして座り込んでいた。
「うおぉ――っ!」
とうさんが斧を振りかざして化け物に向かっていく。
「ぐぅっ……」
怪物の一匹の太い鞭みたいな腕が彼女の喉に巻き付いた。
苦しい!
ぼやけた視界の中で父さんの腕にも物の怪の蔓が巻き付く。
彼女の身体がぐったりとくずおれ、そのまま森の奥へと地面を引きずられていった。
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