03
「……いらっしゃったようですね」
ヴァルデリュードの部屋へ盆に載せた茶道具を運んできたエステヴェートは、この部屋の主とアルドリュースが向き合って座る円卓の奥の空間がゆらめくのを目にして言った。
女性としても小柄なエステヴェートは今年六十二。
栗色だった髪は白くなり、肌には年齢を現す皺が刻まれているが、てきぱきとした物言いや物腰、まっすぐにのびた背筋、そして何よりも好奇心いっぱいの子供のようにクルクルとよく動く茶色の瞳のせいで、とてもそんな年には見えない。
それを言うなら、男らしい顔立ちでがっしりとした体格のアルドリュースが九十近く、凛とした雰囲気を漂わすヴァルデリュードが百を十近くも過ぎているとは誰が見ても思わないだろうが。
卓上に盆が置かれると同時に異空間からの扉が開かれ、妖精とか光の民とか呼ばれる種族を束ねる長の長子が現れた。
「《賢者の塔》へようこそ、ナイジェル殿」
席についていた二人が立ち上がり、ヴァルデリュードが歓迎の辞を述べる。
「ご機嫌はいかがですかな、賢者ヴァルデリュード、アルドリュース、そして……」
「先年お隠れになった賢者クライベルクの後任、エステヴェートでございます」
賢者の証である青灰色の寛衣の裾をひいて、エステヴェートがお辞儀をした。それを受けてナイジェルが微笑む。
「以前お会いした時はまだ塔の教師のお一人であられた。ヴァルデリュード殿の使者として《光の館》においでになりましたね」
「わたくしのような者の事を覚えておいでとは恐縮です。年をとって容貌が衰えたうえ、一五年も前の事ですのに」
「光の民にとって十五年は決して長い時間ではありませんよ。それに異例の若さで《塔の賢者》の称号を得られたあなたの、どこがお変わりになったとおっしゃるんです?」
「まあ、お上手ですこと」
行儀良くはにかんでみせたエステヴェートの様子は若い娘のように可愛らしく、それでいて品位も保っていた。
「どうぞ、おかけくだされ。せっかくの茶が冷めてしまう」
ヴァルデリュードの勧めでエステヴェートが用意してきた四つの碗に茶が注がれ、全員が背もたれの付いた木の椅子に落ち着く。
立ち昇る香りをゆっくりと楽しみ、頭をすっきりさせるような少し渋みのある茶をすすった後、ナイジェルが口をきった。
「先触れを出した覚えはないというのに、歓迎会の用意が整っていたようですな。これもヴァルデリュード殿の予知のお力の故という訳ですか?」
「儂の幻視など大してあてになるわけではないが、あなたの時間を少々節約して差し上げる事が出来るかも知れぬと思いましたのでな。
はずれたところで、三人で茶飲み話をする口実ができるだけの事」
答えるヴァルデリュードの眸は白く濁り、実際に物を見る事ができないのは明らかである。
が、彼には有名な幻視の力があり、見知らぬ地に赴いても手を引いてもらう必要がないばかりか、未来の事をも見通せると言われていた。
「では折角のお心遣いを無駄にせぬよう、すぐに本題に入りましょう。
私は最近あの子に接触しようとしているのではないかと思われる得体の知れぬ波動を感知しました」
「得体の知れぬ……。確かにその通りですな。あれは闇でも光でもない」
ナイジェルの言葉にアルドリュースが頷いた。
「やはり、あなた方もお気づきでしたか」
「もちろんですわ。私達は常にあの子を見守っています。あの子がヒトとして正しく成長できるように」
「あなた方を信頼していなかった訳ではないのです、エステヴェート殿。現にアレはあなた方の結界に阻まれて、まだ接触を果たせてはおらぬようですし。
ただ、私はあれがあの子の……忌まわしい血筋を呼び覚ましはしないかと案じているのです」
ヴァルデリュードは陶器を通して伝えられる茶の温かさを楽しむように両手で包んでいた茶碗をコトリと音をたてて円卓に置いた。
「……あの子が生まれようとしていた時、儂はあの子がウェリアに選ばれし者かもしれぬとあなたに伝え、忌まわしい者として葬ったり封印したりするのでなく、まっとうなヒトの子として育てるよう進言しましたな」
「どのみち、我らが直接手にかける事はできませんでしたがね」
軽く肩をすくめたナイジェルの後をアルドリュースが引き取った。
「あの子は父親がかけた呪いによって、強力に護られておりましたからな。
いつぞやもあの子の才を嫉んで、あの子を傷つけようとした者が命を落としかけて大騒ぎになり、心ない噂が流れぬよう細心の注意を払わねばなりませなんだ」
「ええ、あの時は本当に大変でした。
あの子自身は何か、自分の身を守る為に尋常でない力が働いたと気付いてしまったようですけれど……」
「頭も勘も良い子だからな。仕方がなかろう、エステ。それにしても、《冥府の鍵》にあのような使い方ができるとは……」
溜め息をつきながら考え込むアルドリュースの様子は、これまで幾度となく同じ事を呟いてきた事をうかがわせる。
「それも父親の、あの子の母に対する強い愛情ゆえであろうよ。
さて、話がそれてしまった。ナイジェル殿が感知したという波動のお話でしたな。
儂は……あれはあの子が真の力を目覚めさせようとしている証ではないかと思うております。あの子を護ろうとする力がここ数日、急速に衰えてきておるのもそのせいではないかと」
「私達はあの子にはもう父親の保護が必要なくなろうとしている、と考えているのです」
「では放置しておいて構わぬと?」
ピクリと跳ね上がった片眉がナイジェルの懸念を露わにしていた。
「しかし、それは定かではないのでしょう?」
「定かな事など何もないと何度も申し上げておりましょう。
いつもお話している通り、儂の幻視は可能性にすぎません。未来は無限に枝分かれしておるのです。どの選択が最も正しい道かなど、誰にもわかるものではない」
「では、あなたのお力は何の為にあるのです? 皆を正しい道に導く為ではないのですか?」
「儂の能力は『ただ、そこに存在している能力のひとつ』に過ぎませぬ。目が見えるとか、耳が聞こえるというのと同じ事。
船の物見に登った者が、下にいる者に皆より少しばかり先に目に入った景色を説明する以上の事はできんのです。そこに島があれば島の向こうは見えず、霧がかかれば霧しか見えぬ。
ましてや船が波の下に隠されていた暗礁に乗り上げるのを防ぐことなど、できはせぬのです」
「申し訳ない。私としたことがつい……。
すべての責任を物見に押しつけようとするなど愚の骨頂。
風や潮を読み、船を安全に進めるのは生という航路を行く船の長である我々一人一人の責任ですな」
「しかし、我らとて不測の事態に対して多少の予防措置を講じるに吝かではありませぬ」
妖精としては珍しく、いささか激しやすい気質のナイジェルの謝意を受けて、アルドリュースが話を繋いだ。
「と、おっしゃると?」
「我々には貴公とエイジェルステイン王の承認が得られ次第実行に移す、という事でブライス王に内諾を得ている計画があるのです」
「ブライス王に? ……では、あの名高い魔術師に?」
ナイジェルの問にエステヴェートは首を横に振る。
「いいえ。ウェイデル様はそう簡単には陛下のお側を離れられませんわ。
それに、ご存じの通り彼の力の半ばは暗き側より得られるもの。今のあの子にそれと接触させるのが良い事とは思えません」
「確かに。となると、竜騎士の力をお借りになる?」
「幸い、最適と思われる竜騎士がさして遠くない所に滞在しているのです」
「ふむ。果たしてそれは偶然なのでしょうかな?」
ナイジェルの皮肉にヴァルデリュードは黙したまま悪戯っぽいとさえ言えそうな微笑を返した。
「さ、皆さん、お茶をもう一杯いかが?」
「いただきましょう」
エステヴェートの笑みにナイジェルも微笑み返し、茶碗を差し出した。
「そうそう、アルフィス殿が後見をなさっているという少女の事ですが……」
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