02
《王国》の東の果て。
《灰色の巨人達》と呼ばれる山脈の西の麓に、三つの塔を持つ白い石造りの砦が聳える。いつの世からか《塔の賢者》の称号を持つ三人の魔法使いによって統べられている《賢者の塔》。
白魔法を修める者の学び舎であり、世俗の支配を受けぬ聖域。
《超えたる者》の遺産であるとも言われる建物は、何層も迷路のように連なる地下室を含めて三千を超す部屋を備えている。
そしてその《賢者の塔》に寄り添うようにしてエーリアル公爵家の別邸が建っていた。馬で一夜の東都エラリアルに立派な本邸がある為、東の王とまで呼ばれる大貴族にしては質素で小さな館だ。
現公爵アルフィス=リーンは子宝に恵まれず、十年前アルミナ夫人が亡くなった時、キリアに嫁した妹の末子ルドルフを養子に迎えた。
六十の声をきいた今は政務のほとんどをルドルフに任せて、この別邸と《星の淡海》の畔にある別荘とを往き来する隠居暮らしをしている。
「今夜もエリアといっしょか、ルシ?」
別邸の雑事を任されているロイが薪割りの手を休めて、エリアといっしょに裏庭を通りかかったルシにからかいの言葉を投げた。もう十年も邸で働いているロイはルシが小さい頃からの知りあいだ。
「エリアは僕の歌を気に入ってくれてるらしいんだ」
「ふぅん、そうかい?」
ロイは少し恥ずかしげに顔を赤らめたルシを見てニヤニヤしている。
エリアはまだ小さいとはいえ、綺麗な顔立ちをしていて何か不思議な魅力といったものを備えている。口がきけず、氏素性の知れぬ身の上でさえなければ、七、八年もすれば求婚者に事欠くことはないだろうに。
不憫な事だとロイは思った。
「ああ、そうだ。公爵様がお部屋に顔を出すように伝えろとおっしゃってたぞ」
「何か特別なご用なのかな?」
「さァな。俺なんかにゃ、公爵様のお考えはわかんねェけど、将棋か碁か、でなきゃ剣術のお相手が欲しいだけなんじゃないか?
おまえ、エリアが来てからあまりご挨拶に伺わなくなっただろ?」
「わかった、すぐに伺うよ。ありがとう」
エリアといっしょに裏口から邸内に入っていったルシの後ろ姿を見送ったロイはこれから割らなければならない薪の山を眺めて溜め息をついた。
「まったく、たいした子だ。剣もうまけりゃ、頭もいい。皆が言うように、じきにルドルフ様のお手伝いが出来るようになるだろう。公爵様が目をおかけになるのもわかるってもんだ。
あの御方は身分などあまりお気になさらないから、俺にもあれくらいの才覚がありゃあ、ちっとは出世できたんだろうに……」
ロイはやれやれという風に首を振って斧を握り直すと、もう一度大きな溜め息をついてから、それを振り上げた。
エーリアル公爵アルフィス=リーンは喉元に鋭い剣の切っ先を突きつけられて動きを止めた。
眼前では額に汗を光らせたルシが剣の柄を握りしめて息を弾ませている。
老いたりといえどアルフィスは名剣士として《王国》全土に名を馳せた剣術の達人である。その彼をルシが破ったのだ。
驚きとそれに続く悔しさが去ると、アルフィスの中に愛弟子への賛嘆と誇らしさが湧きあがった。
「おめでとう!」
破顔したアルフィスは自らの剣を投げ出し、大きく両腕をひろげて歩み寄ると、ルシの両肩を手荒くどやしつけた。
驚いたルシの手から剣が滑り落ちる。
「とうとうやってくれたな。おまえは私の誇りだ!」
「公爵様……?」
ルシは喜びをおさえきれないようにそのまま抱きついてきたアルフィスの態度に戸惑いを覚えた。
やんごとなき公爵が、ただ一人の供を連れただけのお忍びの旅の途上で知り合った駆け落ちした男女。
彼らの通り道に崖崩れがあった時、周囲から祝福されずに結ばれた夫婦は運命の悪戯で土砂に飲まれて命を落とし、わずかに前を進んでいたアルフィス達と、死の直前にその父親が投げ出した籠の中で眠っていた赤子だけが助かったという。
男女の出身地すら聞いていなかったアルフィスは赤子の身寄りを探す術もなく、ちょうど一人子を亡くして間もなかった《賢者の塔》の雇い人レイド夫婦に赤子を託し、これも何かの縁とその後も何くれとその子供の成長に心を砕いている。
その赤ん坊がルシだ。
だから公爵様がルシに眼をかけてくれているといっても、常に節度を保った態度で接するように求められ、アルフィスも高位の者として振る舞ってきた。
それなのに今夜のアルフィスはまるで本当の孫のようにルシを抱きしめ、その成長を心から喜んでくれている。
ルシの戸惑いに気付いたアルフィスはハッと身を引き、きまり悪そうに咳払いをして胸を反らせると、左手を右肘に添え、右手で短く刈り込んである顎髭を撫でた。
「うむ。まあ、なんだな。さっきは私も少し油断していたとはいえ、実に見事な剣さばきだった。師匠として鼻が高いぞ」
「ありがとうございます、公爵閣下」
あわてて尊大な態度をとった公爵の顔が僅かとはいえ恥ずかしそうに赤らんでいるのを見て、笑いを堪えねばならなくなったルシは、ひきつった口元をアルフィスに見られないよう深々とお辞儀をした。
ルシの剣の腕前が一流といえる程にあがったのはアルフィス一人の手柄ではない。
むしろルシが実際にアルフィスと剣を交える事はそう多くはなく、護衛としてアルフィスが連れ歩いている兵士のガーセンや《賢者の塔》で剣術を指南している数人の師範達の力がなければ今夜の勝利を得る事は出来なかっただろう。
アルフィスにもそれはよくわかっているはずで、だからという訳ではないが、ルシはアルフィスの手放しの喜びように師匠の弟子に対する誇りではない、肉親への愛情のようなものを感じて戸惑い、大きな喜びを覚えた。
そしてもうひとつ、彼の口元をほころばせる原因となった事実。これで、ルシは彼の師匠のすべてから一度は一本とった事になる。
この作品の舞台となる世界では昼ではなく夜を数え、日没をもって一夜の始まりとします。
我々の世界で言う前夜はその夜[日]にあたり、その日の夜はもう翌夜と、夜付[日付]の区切り方が違います。王国の人々が昼間<昨夜>という時は我々の一昨夜。
作中の今夜とか、明夜といった妙な表記はその為です。
作中の暦や度量衡に興味を持ってくださった方は「ウェリアと呼ばれる世界」というタイトルの短編扱いで投稿していますので、そちらをご覧ください。
※将棋か碁(この世界のそれではなく、それっぽい盤上遊戯です。その他諸々、よく似た物をそういう風に翻訳していると思っていただければ)
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