10
「仕事がすめば両親は返してやる」
と彼は言った。
なにもかもが真っ黒な森の中で。
森の奥から現れた化け物に喉をしめられ、気を失っていた彼女が目覚めた時、目の前に吸い込まれてしまいそうな深い夜色の瞳があった。とてつもなく魅力的で怖ろしい瞳。
「ルシという男の子をここへ連れてこい」
というのがその仕事だった。
その子が絶対に近寄ってはならないと厳しく言い渡されている場所へ。誰にもわからないよう、こっそりと。できれば真夜中。
その子の周りには結界というものが巡らされていて、彼には彼が知られたくないと思っている人達に気付かれずに、その男の子に話しかける事ができないという。
「その子になんて言ばいいの?」
彼女の問は意外な返答を得た。
「話す必要はない」
と。
彼の獲物の保護者達は偽りを見抜く力を持っていて、薄っぺらな作り話など何の役にも立たないと。
それよりは真実を語らぬ事で偽り、彼女への愛情ゆえに彼女を信じるようにすればいいのだと。
(そんなこと……)
できる訳がない、と言おうとした彼女の喉からは意味のない呻き声が漏れただけだった。
「言っただろう? 話す必要はない、と」
彼は親切そうにさえ見える微笑みを浮かべ、その背後から半ば異形と化した父さんと母さんが姿を現して苦しそうに助けてくれと訴えた。
痛みを感じて目を開いた。頬に固い木の根があたっている。
《輪》の中ではなく、正常な森の大地にうつ伏せに倒れている事に気付いたルシは両手をついてゆっくりと身を起こした。
辺りはまだ暗く、明かりひとつない。
「用意はいいか――」
耳慣れない声。不思議な話し方。だが、それはまったく未知のものではなく、何かを思い起こさせた。
振り返ったルシの眼に一目で《人界》のものではないとわかるヴァーガ・ジュードの巨大な姿が映る。
「おまえは……」
「我はヴァーガ・ジュード。目覚めさせるもの。
用意はいいか、エルシアード」
エルシアード!
まばゆい閃光がルシの心を貫く!
封印されていた箱が内側から弾け飛び、力が、記憶が、彼を構成している要素の隅々までも駆け巡る。
そのあまりの大きさ、重さにめくるめき、怯えるその主人にはお構いなしに。
《エルシアード》
それはルシの本当の両親がつけてくれた彼の真実の名前だった。まだ彼が生まれる前、母の胎内にいた時に。
そして、それは彼の記憶と魔力にかけられた封印を解く鍵でもあった。
彼の――記憶――生まれる前の――
闇の王子ジェレアクが語ったルシの出自は本当だった。
光と闇とヒトとの結合。それも創造主の直系であるとされる王家の血の交わり。
ウェリア創世の昔に分かたれて以来、決してひとつになる事がなかった三つの種族の血が、彼の身体に流れている。
その血がどんな魔力を生み出すのか?
どんな性癖を与えるのか?
すべては謎だった。
それゆえ彼の特異性はその存在を知った者達を不安にさせた。
闇の心を持った者が光の力を振るい、闇の侵入を阻んでいる《光の原》を破壊するのではないか?
あるいはヒトの弱い心で妖精や魔族の強い魔力を御しきれず、世界に致命的な打撃を与えてしまうのではないか?
おまけに問題の赤子は胎内にあってすら強い魔力の片鱗を示していた。その身体は紛れもなくヒトとしての弱い器であり、不安定な心を持っていると判断されたというのに。
「母親の命を奪ってしまう前に、そのような呪われた子供は処分してしまうべきだ」
エルリアーナは《光の民》の王子であるナイジェルが愛してやまなかった妹が、命と引き替えに生んだ、たった一人の姪。
ナイジェルがたとえエルリアーナの不興を買う事になってもその命を救いたいと実力行使に及ぼうとした時、ラリックがそれを発動させた。
《冥府の鍵》
闇の王族の死をもってのみ贖われる強力無比な呪い。
たとえ命と引き替えても子供を産みたいというエルリアーナの強い願いが、子供をあきらめても愛する女性を救いたいと思っていた闇の王子の心をも動かしたのだ。
ラリックは自らの短剣でその胸を貫き、開かれた冥府への扉から魔力を引き出した。彼とその愛する女性の生きた証を護る力を。
残されたエルリアーナは駆けつけた賢者達と妖精王エイジェルステインの力を借り、生まれてくる子供の魔力を封印した。彼女とラリックからの愛と彼の真の名と共に。
それは誕生以前とはいえ、確かに彼自身の合意があったからこそ可能だった。
ヒトの普通の子供として生きる事。
それを選択する事で彼は生きのびる為の条件を満たし、ひと時の平安を得たのだ。
「心が痛むか――」
ヴァーガ・ジュードの声がルシの追憶を破り、裡へと沈み込んでいた意識を引き戻した。
「どうしてそんな事を……?」
「汝の頬が濡れておるのでな」
その通りだった。知らぬ間にルシの眼から涙があふれ、頬から顎へ伝っている。
現実には十五年近くも前の事だが、ルシにとっては、ほんの今しがた父と母を亡くしたようなものだったから。
それも胎児だった彼が『生まれたい、生きたい』と望み、父母がその願いを聞き届けてくれたせいで。
「ヴァーガ……ジュード?」
その奇妙な発音を確かめるように口にする。
「そうだ」
「目覚めさせるもの、だって?」
「汝は記憶を取り戻したのだろう。いや、親の記憶の一部を継いだというべきか」
「どうしてそれを……?
それより、賢者様達とエイジェルステイン様しか知らないはずの名前を、なぜ?」
「我は汝のすべてを知っている。創始者の遺志が汝を選びし時より」
「ディスファーンの遺志だって?」
「闇の王ではない。世界を創りし者。かつて賢者が予言したように、汝は選ばれたのだ。ウェリアの守護者として。
来い! 時期は来た――」
同じ言葉!
では夜毎ルシに呼びかけていたのはこの獣だったのだ。
先刻、彼は用意はいいかと訊かれた。だがそれは形式的なものだったらしい。
彼の返事を待たず、ヴァーガ・ジュードは勝手に始めてしまったのだから。
「エルシアードよ。光と闇と混沌との御子よ。我の前に来たれ」
ヴァーガ・ジュードの翡翠の双眼が眩しいほどに輝き、長い尾がそれ自体意志を持った別の生き物のようにくねる。
その音楽的な動きに操られるようにルシの身体が動き、無防備に恐ろしい牙を持つ獣の前に立ちつくしていた。
底知れぬ恐怖が身内を走り抜ける。
だが、なぜかルシにはわかっていた。抗う必要はない。
グルグルという混沌の獣の低い唸りが現実と非現実との境を揺り動かす。
すべてのものが震え、にじみだし、二重写しの世界が現出した。
重なり合った現と幻の世界。
そして、咆哮――
ヴァーガ・ジュードは高く吼え声をあげると前肢でルシの胸を引き裂き、その牙で心臓を抉り出す。
それは幻――ヴァーガ・ジュードが創り出した非現実のはずだった。
しかし、鋭い爪が肌を裂く痛みは、吹き出したあたたかな血の感触は、鼓動する心臓を抉られた衝撃は、本物だった。
痛みのあまり実際に心臓が止まってしまうのではないかという恐怖と戦いながら、頭に響いてきたヴァーガ・ジュードの言葉を反復する。
「混沌の御子ディスファーンの正統なる後継者として、ウェリアの意志に選ばれたる者としてエルシアードの名において命じる。《ウェリアの護り》よ、封印を解け!」
あらゆる非現実が崩れ去る。
ルシの胸は引き裂かれてはいず、心臓も興奮に高鳴ってはいるが力強い鼓動を響かせている。その頬を、衣服を、大地を染めた血も一点の染みさえ残してはいない。
ただヴァーガ・ジュードの牙の間にある物のみが、それがもうひとつの世界で実際に起こった事なのだと証明している。
赤い血をぬめらせながら、まだ脈打っているもうひとつのルシの心臓。それは彼の持つ生命の力のすべて。
ルシは血の気の引いた唇を噛んで、痛みのあまり爪が食い込む程に握りしめていた右手をヴァーガ・ジュードの口元へと差し出す。
ルシの心臓、幻の牙によって抉られた彼の生命は赤い霧となって流れ出し、ルシの右手首に巻きついた。
冷たい金属の感触が手首を包む。
ルシは右腕を曲げ、手首にはめられた腕輪を見た。血の色をした宝石が嵌め込まれた腕輪を。
「ウェリガ……ナイザ……」
「そうだ」
かすれたルシの声にヴァーガ・ジュードの太く低い声が続く。
「今からは汝がウェリガナイザの主人、そしてウェリガナイザもまた汝の主。
聞くがよい、ウェリアの悲鳴を」
「悲鳴……?」
ルシの視線が腕輪の宝石に引きつけられ、その小さな石で視界が満たされる。
次の瞬間、ルシはウェリアの大地を見下ろしていた。雲を突き抜けて聳える《灰色の巨人達》の頂上よりも遥かな高みから。
天井に瞬く星々や、月の管理を任された精霊達の微かな歌声が聞こえる。
下降していく――。怖ろしい程の速さで。
眼前に拡がったのはグァドの森。
その中心部を黒く染めた闇。それはあるべきでない場所であり、それゆえ混沌を強く引きつける。
混沌の海の圧力との際どい均衡を保っているこの世界の外壁の一部に、強力な負荷がかかっているのがわかる。
幻視が途切れる間際、ルシはチラリとヴァーガ・ジュードの傍らで腕輪の宝石を覗き込んでいる彼自身を見たと思った。
「汝の為すべき事をなせ」
その言葉の意味を問おうとしたルシが顔をあげた時、ヴァーガ・ジュードはすでに何処かへ走り去っていた。
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