とある狐守の滑稽な日常③
唐突に。
探し物が、見つかった。
今日は珍しく水筒の中で大人しくしていると思っていたら、いつの間にか逃げ出していたあいつが。
バイトに遅刻寸前という俺の切羽詰まった状況など露知らず、今の今まで呑気に遊び歩いていた、フリーダムでマイペースなオコジョのような茶色いキツネが。
――在里の肩の上に、ちょこんと乗っていた。
「キュー!!」
「ブラッキュ?」
「きゅ?」
俺の叫びを浴びた在里とキツネが、同じタイミングで、同じ角度で首を傾げる。いや、仲良しかお前ら。
なんでよりによってそんなところに、と思わなくもないが、目的のものが見つかったことで、とりあえずは安堵の息を吐く。あとは、気まぐれなキツネが、またどこかに逃げてしまう前に、とっとと捕まえればいい。
「はは、そんなに驚かなくても。ブラックにだって、いいところはあっただろ? それにしても本当に詳しいな、筒井」
キツネが見えていない在里は、どうやらまだヤイバーマンの話を続けるつもりでいるらしいが、俺はもうお前の肩に乗っているキツネのキューちゃんを捕獲することしか考えてないんだ。悪いな。
「ちょっとそのまま動くなよ、在里。ついでに目を閉じて耳を塞いでいてくれれば、尚いい」
「え、よくわからないけどわかった」
わかるのかよ。素直なのか、それとも考えが足りないのか。どちらにせよ、何の疑問も抱かず俺の言われるがまま行動する在里のことが色々と心配になるが、今はキツネもどきのオコジョを回収するのが先だ。いや、オコジョもどきのキツネだったか。どっちでも大して変わらない。
わざわざ迎えに来てやってるというのに、キューちゃんは在里に興味津々のようで、徐々に距離を詰めていく俺に対しても、まったく注意を払わない。あまつさえ、在里の顔を正面から堂々と覗き込んだり、頬のあたりに頭をこすりつけはじめる。
「おいやめろ、スリスリすんな。さっさとこっちに来い」
「きゅ! きゅ!」
すっかりその場所が気に入ったのか、普段から俺の言うことなど全く聞かないキツネは、ここでも断固拒否の姿勢を見せた。イヤイヤするように頭を振って、在里の首の裏側へと回り込み、完全に視界から消えてしまう。
苛立ちながら腕時計に目をやれば、いよいよ時間がない。こうなったら力づくで引きはがそうと、大きく足を踏み出して腕を伸ばした、そのとき――。
突風が、吹き抜けた。
在里の首の辺りから、かろうじて覗いているキューちゃんの尻尾。
それを捕まえるために伸ばした右手が、在里の顔の横を通過する、直前。
「っ!?」
――目に見えない低反発クッションのような風圧に、横から殴られるように、弾かれた。
前触れのない自然のきまぐれに驚いて周囲を見回すが、所々に点在する木々の揺れに異常はなく、空は青く晴れたままだ。第二波を警戒してしばらく動きを止めてみたものの、遠くで風が暴れているような音も聞こえない。
なんだったんだ、と疑問符を浮かべる俺の頭上に、いつの間にかキューちゃんが飛び乗ってきていた。「きゅ、きゅ」と何やら興奮して騒いでいるが、デフォルトなので放っておく。
「筒井、大丈夫か……?」
視覚を閉ざし、聴覚まで封じていた在里でも、自分の眼前を駆け抜けていった強い風には気付いたのだろう。すぐ近くから聞こえてきた、焦りの響きを帯びた声に驚いて顔を向ければ、こちらを見つめる在里の気遣わしげな目と、目が、あう。
「……っいや、ただの風だろ。んな、心配することでも」
「そう、だな……」
突風どころか天変地異が起ころうとも、凶悪怪獣が出現しようとも、全く動じることなく笑っていそうな在里が。ただの風に、ここまで過剰な反応を見せていることに少なからず違和感を覚えるが、それ以上に……なんというか。女性的とは言えないが、男性的とも言いづらい、小さく整った顔が至近距離にあるというのが……すこぶる、居心地が、悪い。
「けがを――」
「してないしてない。……お前、なんか変だぞ」
こいつはいつだって変だが、きょうの変は変の種類が違う。俺は、わずかに痺れているだけの右手を、無傷の確認という意味と、在里の視界を遮るという意図をもってかざしてやる。それを盾に、こっそりと一歩だけ下がることも忘れない。
「そうかな……あ、探し物は?」
「見つかったし、回収した」
「きゅ!」
「なら、よかった」
在里に、ようやく笑顔が戻る。回収されました! とばかりに嬉しそうに返事をしたキューちゃんが、俺の頭頂部をてしてし叩いているのが心底うっとうしいが、いつものことなので気にしない。――それにしても。
「……お前さ。いつもそんな感じで軽く流してるけど、この状況に疑問とかないわけ?」
「疑問はないけど、質問はあるかな」
「なに」
「筒井って、レインしてる?」
レイン――携帯電話を持っている奴なら、老若男女問わず誰もが知っているに違いない、超有名なコミュニケーションアプリだ。俺には無用の長物だが、バイト先との連絡ツールとして使うことが、たまにある。
「ほとんど使ってないが、まあ一応。それがなんだ」
「俺と、アドレス交換してくれないかなって思って」
「…………は? なんで?」
友達でもないのに。という言葉こそ口にはしなかったが、それはお互いの共通認識だと思っていた。たまたま出会えば、なぜかほんの少しだけ会話をする程度の、ただの変人同士。日常的に連絡を取る必要性を、少なくとも俺のほうは全く感じない。
「いや、ちょっと――」
在里が言いづらそうに口をつぐむ様子を、まじまじと伺ってしまう。バスの発車時刻というタイムリミットが迫っていることがわかっていながら、思わずその先の言葉を待ってしまうくらいには、珍しい反応だった。
「在里!」
不意に、遠くから声がかかった。ご指名を受けた当人の視線を追いかけると、そこにはジャージを着た男子生徒が二人。おそらくは、在里と同じ陸上部だろう。こちらに向けて、ちょいちょいと手招きをしている。この場所で、待ち合わせでもしていたのだろうか。「すぐ行く」と、二人組に応える在里の横顔は、もう、いつもどおりだ。
「引き止めて悪かったな、筒井。きょうもバイトだろ?」
「……ああ、まあ。――げ」
どこか消化不良気味のまま腕時計を確認すれば、長針が予想外の数字を指し示している。これはやばい。非常にまずい。バス停まで全力で走ればなんとか間に合うか。いや、間に合わせる。
頭の上のキューちゃんを水筒の中に押し込め「絶対出てくるなよ! 絶対だからな! っつーか、勝手に出歩くなって何度も何度も何度も言ってるよな俺は!」と文句を言う時間すら惜しい。そのまま正面玄関へと走り出す俺の背に、気をつけて、という在里の律儀な声がかかる。
挨拶を返すこともなく顔だけで軽く振り返った視界の中で、穏やかに微笑むあいつの姿だけが鮮明に映っていた。