もう、我慢しなくていいぞ①
欠けた月を背にした、黒い太陽のようだった。
そんな詩的な表現を使ってしまったのは、シキさん自身が発する力の圧によって八方になびく黒髪が、光の照射のように見えてしまったからか。それとも、とんでもない状況に直面して、論理的な思考ができなくなっているからか。
岡山デニムの着物姿なのは、別に珍しくない。顔の筋肉を全く動かさない無表情も、別に珍しくない。
元から長身な体格が何倍にも膨れ上がってみえるほどの、圧倒的な存在感と威圧感。そこから更に累乗に跳ね上がった憤怒の迸りが――ただただ、畏ろしい。
爆発の余波は、完全に過ぎ去っていた。それでも、動くことができない。
全身にのしかかっていた重力も、幾分か和らいではいる。けれど、立ち上がろうという気力を奪い尽くされた。犬のように這いつくばったまま地面を睨み付けている俺の耳が、やがて遠くからやってくる足音を捉える。
「大丈夫か、筒井」
「……在里」
野狐を追いかけていったはずの在里が、片膝をついて心配そうに俺を見下ろす。
この辺り一帯は、おそらくシキさんの感情が伝播して渦を巻いている。俺にとっては、重しをつけられて泥沼の底に沈められたような息苦しさだが、目の前のこいつの通常運転っぷりはどういうことだ。
「……いや、お前、怖くねぇの?」
「え? ――ああ」
在里は不思議そうに首を傾げてから、俺がさっきから頑なに直視することを躊躇っているシキさんを、いともたやすく見上げてしまう。そうして、驚くことに――ゆっくりと、微笑んだ。
「あのひとを怖いと思ったことは、一度もないよ」
ユキに向けた母親の顔とは、またほんの少しだけベクトルの違う表情を浮かべてから、そっと目を閉じる。そのまま俺に向き直った在里は、いつも通りの、どこにでもいる、爽やかイケメン高校生に戻っていた。
「そんなことより――」
「そんなこと? そんなことって言ったか? 今のこの未曾有の状況を?」
「はは、大丈夫だって。ちょっと頑固なひとだけど、本気で話せばちゃんと聞いてくれるから。ただ、今はその時間が惜しい。あの子が、先に消えてしまうかもしれない」
あの子、と在里が目を向けた先。野狐が飛んでいった地点に、何やら光の靄のようなもので形成された球体のような空間ができあがっている。こっちはこっちで、何が起こってるっていうんだ。ここに来てのイベントの同時発生に、頭が痛みを訴えてくる。
「という訳だから、この場は筒井に任せる」
「――は? えっ、おま、なっ」
「できるだけ時間を稼いでくれ。ほら、さっさと立つ立つ」
「いてててて! わかったから、その角度で腕を引っ張るな!」
肩を脱臼するくらいなら、めちゃくちゃ怖くても立ち上がったほうが若干マシだ。生まれ立ての子鹿のように足をがくがくさせながらも、何とか在里と同じ目線に辿り着く。
「ユキを頼む」
「!」
そうだ、ユキ。シキさんの何らかのアクションを、何らかのアクションで防いでくれたのだろうキツネの少女の姿を、慌てて振り返る。
ユキの背中は、先程と変わらず遠くにあった。未だ上空にある父親と、無言のまま対峙している。まさに、一触即発。ここに、人間の俺が首を突っ込む余地が本当にあるのか。
「オレっちはアリサトさんのサポートに回るッス! こっちは任せてほしいッス! け、けけけけけ決して店長が怖くて逃げるとかじゃないッスからね! 絶対そんなんじゃないッスからね!!」
前半だけなら文句なしにかっこよかった台詞を落っことして、既に野狐の元へと駆けだしていた在里の後をノルさんが追いかける。元気に走るその姿は、さっきまでヘロヘロになっていたことなど微塵も感じさせない。なんだかんだで頼れるひとだ。野狐については、もう俺がいなくても問題ないだろう。――それよりも。
「あたしの結界は、キツネの中でも一二を争うと自負しているんですがねぇ。ピンポイントの攻撃には弱いとはいえ、一撃で粉砕するんですから、旦那には敵いやせんぜ」
お陰で自信がすっかりなくなりやした、と帽子を押さえて見上げながら、ゲンさんが俺の隣にやってくる。
釣られて俺も、シキさんをできるだけ視界に入れないような角度で、おそるおそる空を仰いだ。今まで一度も聞いたことがなかったが、そうか。爆発前に聞こえた、ガラスが砕けたような音。あのとき、結界が破壊されたのか。
完全に日常と繋がってしまった無防備な空間が、寒々しいほど頼りない。なんといっても今は、キツネの形をした爆弾が二つも剥き出しの状態なのだから。
「これ、一体どういう状況なんですか? なんで、シキさんが……」
予定では、シキさんが岡山に戻ってくるのは明日のはずだ。そして、まあ理由は大体察しがつくが、のっけからフルスロットルで怒っている。
「旦那が、姐さんから離れた野狐めがけて結界の外から炎を放ったんですが、お嬢が炎で庇って相殺しやした。なので、ちょっと困ってるようですね。もう一度、野狐を狙って攻撃したくとも、既に姐さんが近くに行ってしまっているので下手に手が出せない。近付いて確実に仕留めようにも、お嬢が行く手を遮るでしょう。ということで、しばしのシンキングタイムに入っていやす。――今のうちに、こちらも体勢を立て直しておきやしょうか」
「要は、問答無用で野狐絶対殺すマンのシキさんと、野狐と最期に話したいという在里の意志を尊重するユキによる、十五年前さながらの大戦争が勃発寸前ということですか?」
「懐かしくて震えやすね。そういうことです」
「……俺は、何をすればいいですか?」
「姐さんの言われた通り、お嬢の側にいてあげてくだせぇ」
そう言われても、足が地面に根を張ったように動かない。
ユキの近くに行くということは、必然的にシキさんと真正面から向き合うということになる。噴火した火山に、裸ひとつで乗り込むようなものだ。生半可な決意では、全身全霊で拒否する身体を説得できない。
「旦那に連絡をしたのは、あたしです」
躊躇する俺を見かねたのか、唐突にゲンさんが自白を始めた。
シキさん宛てに空狐からレインが届いた線を第一に考えていたが、第二のほうだったか。それほど驚かない俺を横目で確認して、ゲンさんが続ける。




