番外編「恋する馬鹿野郎」
「無事で……」
彼女は言った。
どことなく不安そうに、悲しそうに、彼女は青年を見上げて言った。
途端に胸を襲う、痛いような、甘いような感覚。
幼い頃から、ずっと感じていたもの。彼女にだけ感じていた、特別な何か。それが大きく強く胸を打って、青年は息苦しさを感じた。
けれど、空気を求めて喘ぐことはしない。なんでもないように装って、笑う。
「らしくないな」
笑っている彼女が見たくて、そんな軽口をたたく。
彼女は一瞬驚いたように目を見開いて、それから青年の二の腕を小突いた。
「もう、しまらないんだから」
彼女は照れくさそうに言う。
――それでいい。いつも笑っていて。
――最後に見るなら、その顔がいい。
――もしかしたら、これが最後かもしれないから。
だから笑っていてほしい。
青年の胸には先ほどとは違う、大きな何かが押し寄せてきていた。
甘さもない、痛みだけ、苦しみだけの何か。叫び出しそうな何か。それがどんどん大きくなって、青年はたまらず目を閉じる。
「無事で帰ってきてね」
彼女は再度そう言った。
「――おい!」
ハッとして、目を見開く。暗闇が広がっていて、一瞬混乱に陥る。さらに肩を揺すられて、青年は咄嗟に手元にある剣に手を伸ばした。
しかし誰かに手をつかまれる。柄ごと握られて、動かせない。
瞬間的に狼狽えた。
「寝ぼけてるのか」
揶揄うように、誰かが言った。聞き覚えのある声だ。それすなわち、味方の声だ。
それを理解した瞬間に、スッと体全体から力が抜けた。
「――クラウスか……」
「他に誰がいるんだよ」
安堵からため息をついた青年を、クラウスが笑う。
「こんなときに爆睡できるなんて、さすがアルノルドだな」
青年、アルノルドはクラウスの言葉にさらに大きなため息をついた。正確には深呼吸に近いものだが、疲労から出たそれは、清々しい空気などは吐き出さない。
「……疲れてるんだ」
「全くもっておっしゃるとおり。ということで俺は休む。見張り交代だ」
言われて時計を見ると、予定より時間が過ぎていた。
「すまん。寝過ごしたか」
「いやぁ、気持ちよさそうに寝てたもんで」
茶化すようにクラウスが言う。
彼はアルノルドよりも年上で、しかし父親ほどは歳は離れていない。
戦場に来てからは同じ部隊に所属していて、一番親しくしている。兄のような存在だった。
「まぁ、気にするな、お前に倒れられると困るのは俺だ」
だからあえて寝かせておいた。そう言うが、きっとそれも年下のアルノルドを寝かせてやろうという彼の気遣いなのだ。
横になるクラウスを眺めていたアルノルドの額に、ぴしょんと音をたてて水滴が落ちてくる。見上げれば、しっとりと濡れた洞穴の天井があった。雨水が染みてきているのだろう。洞穴の外には水浸しの森が広がっている。あちこちで雨水がはねているが、その水滴が纏う音は、ざーざーという音にかき消されていた。
ぶるりと体を震わせる。濡れた地面に防水の布を敷き、その上に座っていたが、それでも尻がつめたく濡れていた。
体温が下がるのはよくない。しかし毛布もないので、仕方なく体を小さく丸めた。
「どんな夢をみていたんだ?」
アルノルドに背中を向けて横になっていたクラウスが言った。
寝たんじゃないのか、と思いながら、アルノルドは彼の背中に視線を向ける。
「そんなこと、なんで聞くんだ」
「言っただろう。気持ちよさそうに寝てたって、いい夢見てたんだろう」
「……まぁ」
あいまいに答える。
クラウスがごろりと向きを変えて、アルノルドを見た。にやにやと口に軽薄な笑みが浮かんでいる。
「さては意中の相手のことだな」
「……」
「沈黙は肯定と受け止めるぞ」
「そんなんじゃない。彼女は」
「彼女? やっぱり女だな」
アルノルドはむっすりと口を引き結んだ。
どうにも彼には口で勝てない。
「……寝ろよ」
ぶっきらぼうにアルノルドがつぶやく。
「いいや、寝れないな。聞くまでは、な、女だろ。誰だ? 恋人か?」
下品な質問だが、わざとだろうか。彼もまた世襲騎士だ。それなりの教育をうけているだろうに、そういう雰囲気は全く感じさせない。
騎士学校にもこういう男はたまにいたが、親しくはなかった。戦場に来なければ、話もしない関係だっただろう。
そういう品の無さをアルノルドは嫌っていたから。
でも今は、むしろのその粗雑さがうれしくもあった。
アルノルドは肩にかけた銃を支えなおす。これは戦場にいるという証だ。
「ちがう……彼女は結婚しているんだ」
「あーそれは……」
政略結婚はよくあることだけどなぁ、とクラウスは悔しそうにする。
「別にいいんだ」
「そうか? 俺には未練たっぷりに見えるけど?」
「……」
「帰ったら、言ってみたらどうだ。本音を」
クラウスが、変わらず笑いながら言った。
アルノルドはうつむく。
「……言えないよ」
「言えよ。言えなかったってずっと後悔するの嫌だろう。なんだったら手紙でも出せば?」
予想外に真剣な声音に、再度クラウスを見ると、表情は軽薄なまま、しかし目は思慮深さをたたえていた。その目はアルノルドをまっすぐ見ている。
――後悔……手紙……。
それは帰れないかもしれないということを指している。
戦場はますます厳しくなっている。きっと同じ部隊の仲間たちも、みんな帰れるわけじゃない。だから手紙をだすのだ。
愛する人に、最後の手紙を。
その姿をたびたび仲間内で見ていたアルノルドは、だからこそ手紙を書く気にはならなかった。
最後という覚悟が、できていない。
「それは嫌だ」
「じゃあ帰ったら言えよ」
間髪入れずに返される。
「約束だ。帰ったら言え。そして結果を報告してくれ。玉砕したって」
「……」
「なんだよ、しないって言えよな」
「だから、結婚してるんだって言っただろう」
思わず苦笑した。
――敵襲!
見張りの声に、剣ではなく、銃を構え、膝立ちになる。隣でクラウスも同じ動きをしていた。
この戦いでは騎士の戦いなどない。
姿の見えないところから、撃って、撃たれて、それで終わりだ。戦争はそういう形になったのだ。先祖が物語にしたような一対一の戦いはもうどこにもない。
雨音に紛れて、遠くで銃声が聞こえた。
その音より小さな声でクラウスが呟く。
「あとで、恋バナしようぜ。初恋の話とか」
「…………生き残れたらな」
「じゃあ、決定だ」
そう言って駆け出したクラウスの背中を追ってアルノルドも洞穴から、暗い森へ走り出す。
――初恋か……。
大木に身を隠し、敵の気配を探りりながら、意識の一部は過去を思い出してた。
――こんな時に、こんなことを思い出すなんて。
己の愚かさに笑えてきた。目を閉じれば彼女の最後に見た笑顔が浮かぶ。
――ああ、たしかに、言っておけばよかった。
アルノルドは銃を構えながら、そんなふうに思った。
パタパタと誰かが走る音がする。
すこしして、高い声が聞こえてきた。
テラスから身を乗り出し、庭を見下ろして、少年は声の主をさがす。視界の端にピンク色の布がはためくのが見えた。すぐに女もののドレスの端っこだと気づく。
はて、あんな派手な色のドレスを着るひとがいただろうか。母はピンク色のドレスは持っていないし、使用人はみんな同じ黒い制服のはずだ。
では誰だろう。
首を傾げる少年の視界に、風をうけて大きく広がるドレスと、それにくるまれた少女が見えた。
「――あ」
小さな声が漏れる。
少女はくるくると回りながら、楽しそうに笑っている。
ふと、少女と目があった。
見下ろす少年を見つけるには、少女は見上げないといけないわけで、どうしてここにいると気づいたのだろう、と不思議に思う。
けれど、そんな疑問はすぐに消え去った。
少年は目をうばわれる。少女は、見たことがないほど美しかった。作り物のように端正な顔は、どこか年齢を曖昧に見せる。くりくりとした瞳は大きくて、こぼれ落ちてしまいそうだ。髪は見たこともない鮮やかなプラチナブロンド。少年の母は、確かあの髪色にあこがれていた。
きっと彼女をみたら、母は喜ぶだろう。そんな気がする。
少年はじっと少女を見下ろした。少女もじっと少年を見つめていたが、やがてふっと顔をそらす。
視線の先には一人女性がいた。おそらく使用人だろう。腰をかがめて、少女の言葉に耳を貸している。その使用人は、少女に何事かを聞かれたようで、ちらっと少年を見て、得心がいったというようにうなずくと、少女に何事かを耳打ちした。
パッと少女が顔を上げ、手を振った。少年にむかって、大きく手を振った。
それからふわりと大きな笑顔を見せる。
少年は思わず大きく息を吸い込む。
胸がどきどきと音を立てていた。
少年は生まれてはじめて恋におちた。




